Thursday, September 9, 2021

『サムとイルサのさよならパーティー(Sam and Ilsa’s Last Hurrah)』

『サムとイルサのさよならパーティー(Sam and Ilsa's Last Hurrah)』 by レイチェル・コーン、デイヴィッド・レヴィサン 訳 藍(2019年06月30日~2020年01月25日) 校正 taa(2019年07月14日~2019年10月31日)


聴衆はファンタジーを欲し、要求してきます。私はほんの少しの間、その要求に応えようとします。日々の仕事や煩わしさを忘れて、この時間だけは楽しでもらおうとピアノを弾くわけです。派手なドレスを着て、金ピカに着飾るのもそのためです。少しの間、単調な日常から遠く離れて、良質な音楽の響く世界で、聴衆に夢を見させるのです。

                              リベラーチェ(ピアニスト)



招待状

概要:単調な日常はひとまず忘れましょう!ディナーパーティーを開催します。

主催者:サムとイルサ

日時:5月16日、午後8時

目的:女帝の豪邸で行われるディナーパーティーは今回が最後です!(賃金統制の関係で住めなくなっちゃうから!涙)

あと、リベラーチェ* の誕生日を祝う会も兼ねます。(こちらは喜ばしいことですね!)

場所:サムとイルサのおばあちゃんの家** (地図を添付します)

服装:キラキラに着飾ってきて!***


*リベラーチェが誰なのかわからなかったら、このパーティーにはご遠慮してもらわなくちゃならないかな。ただ、グーグル先生に聞いたらわかるかもね。

**心配しないで。女帝の家は街の外れにあるから、誰の目も気にすることなく、私たちはその晩、思う存分楽しめるわ!

***自分なりに趣向を凝らして!(リベラーチェの服装を参考にするといいかも)



1

イルサ


私の双子の兄は私たちのおばあちゃんの性生活にすごく興味があるみたい。

「俺の予想だと、最近女帝に恋人ができたな」と、サムは私に手を差し出して言った。「これを混ぜ合わせるから、へらを取って。早く」私の役割は、オペ中にメスを手渡す人みたいに、彼が要求する調理用具をすばやく手渡して、シェフの調理効率を最大限に引き出すこと。私はさっとへらを彼に手渡す。「これは卵焼き用のだろ。穴の開いてないやつだよ、イルサ」と彼は、見ればわかるだろみたいな顔で言う。そして、「見ればわかるだろ!」と実際に言った。

私は彼が手に持っているボウルに視線を落とす。チーズとほうれん草が山盛りに入っている。穴の開いてないへらだってかなり古いから、これだけの量をこねるのに耐えられるかあやしいものだ。私に決定権があれば、DIY精神なんか発揮させて、煩わしい料理なんかしてないで、さっさと〈ゼイバーズ〉に電話して、出来合いの料理を注文するんだけどな。ただ、サムってすごく料理が上手なのよ。働き者っていうか、まったく!こっちはありがた迷惑って感じ。もう30分も私をシェフの補佐としてこき使って、彼に従わないと料理にありつけないなんて理不尽ね。私の役目は、みんながあっと驚くような計画を立案することであって、彼の指示に従うことじゃないわ。いっそのこと、彼の双子の妹じゃなくて、彼の恋人にでもなったほうがましね。ただ、サムはゲイだけど。

私はサムに穴の開いてないへらを手渡す。「どうして女帝に恋人ができたって思うの?」

「彼女はこの6週間で3回もパリに行ってる」

「ファッションの買い付けでしょ。彼女は仕事で行ってるのよ」

「いや、最近の彼女はちょっと違うんだ。俺には感じるんだよ。そこはかとなく漂う...色気をな。お前は何も感じないのか? パリから帰って来ると、あんなに色めき立ってるじゃないか」

「いったいあなた、何に感じ入ってるのよ? 彼女は前から色気あるんだから、今さらそんなに。もしかしてあなた、彼女がこの週末パリに行くのに、ママとパパだけ連れて行って、自分は連れて行ってもらえなかったから怒ってるの?」私的には嬉しい事だった。女帝が遠出している間は、彼女のタウンハウスをこうして自由に使わせてもらえるから。女帝の居ぬ間に、私はお城の女王になれるってわけ。その間、サムは私だけの家来よ。

「そこなんだよ!彼女はどこに行くにも、ママとパパを連れて行ったことなんてなかっただろ。あの二人は中産階級のつまらない夫婦だぞ」

「それはそうかもしれないけど、私はママもパパも大好きよ」

「口答えするなよ」

「口答えするのが私なの。私以外の人間になれって言われても無理ね」

サムは吹き出すように笑って、それから片方の眉毛をつり上げて私を見据えた。「お前、少しも心配じゃないのか? 女帝は、いつもは鍵をかけて絶対に入れさせない彼女の寝室さえも自由に使っていいって言ったんだぞ。今まで何度も彼女のタウンハウスを借りて俺ら二人でディナーパーティーを開催してきたけど、寝室に入っちゃだめってことだけは厳格な決まりだったじゃないか」―ここでサムが女帝のギャングばりに凄みを利かせた声を真似た。―「『いいかい、10代の悪ガキを絶対に私の寝室に入れるんじゃないよ』」

「そうね、彼女はオーケストラの演奏を聴きに行った夜でさえ、私たちがデザートを食べてる頃にはいつも決まって帰って来るわね。私たちが羽目を外してないかとか、彼女がどこかにしまい込んだお酒を私たちが見つけ出してないかとか心配で、コンサートを早めに切り上げて帰って来るのよ。おばあちゃんは何でもかんでも仕切りたがる人だから、私たちが絶対に寝室には入らない、お酒も絶対に飲まないって言ったって全然信じない」私は今自分が言ったことを考え直して、ちょっと修正を加えた。「っていうか、私たちじゃなくて、私が言ったことね。彼女もサムは聖人ってわかってるから、サムがルールを破るはずないって思ってる」

「それは違うな。あの時のパーティーを思い出してみろ。ほら、#スタンタが女帝のヴィンテージもののクリスチャン・ディオールのガウンを見たがったろ?」

「あれはルールを破ったことにはならないわ。あなたはちゃんと女帝にメールして許可を取ってから、彼女の洋服部屋に入ったんですもの」

「#スタンタがビールを飲んじゃって!」

私はため息交じりに言った。「あれはスキャンダルだったわね」

理にかなったルール違反ってどういうことかしら? 2年前のパーティーでは、パーカーと私が女帝のブランデーコレクションを勝手に開けちゃって、最終的には彼女の寝室に鍵をかけて誰も入って来ないようにしてから、彼女のベッドの上でパーカーとイチャイチャしちゃった。悪い二人。でもブランデーがほどよく回って、最高だったわ!あの時、女帝はミラノまで買い付けに行ってたから、彼女がひょっこり帰って来る心配もしなくてよかった。イルサは恐れを知らないって両親に言われるけど、私だって女帝の逆鱗に触れたらどうなるかくらいわかってる。容赦のない怒りが噴出するでしょうね。それは私が彼女から受け継いだ性格の最たるものだから、十分承知よ。それから彼女と似てる点がもう一つあって、おばあちゃんも私も、大体どんな形の帽子をかぶっても、すっごく似合うの。

私は怒りっぽいこと以外で、もっと女帝みたいになれたらいいなって思う。誰かに恋い焦がれて失恋するより、誰かを夢中にさせておいて、つれなくあしらって胸が張り裂けるような悲しみを与えてやりたい。女帝みたいに、私もどんな状況でも中心に君臨して、世界を旅して回って、行く先々で奔放な情事を繰り広げるの。でも、ちゃんとホームとしてマンハッタンに大きなタウンハウスを持っていて、男を置き去りにして帰って来るのよ。(そんな私を小馬鹿にする両親の笑い声が聞こえるけど)女帝は、ひと目見れば彼女ってわかる派手な色のゆったりとしたカフタンを首からかぶるように着ていて、いつも大きくて目立つジュエリーを身につけてるけど、そこに関しては私の好みとは合わないわね。ディナーパーティーは別として、普段の私は、もっと落ち着いた色の服装が好きで、スキニージーンズに、すごく可愛くてタイトなシャツを組み合わせたりしてるの。

私に追随するようにサムもため息をついた。これは私たちが双子だっていう唯一の証かもしれない。同意の印としてのため息。「今回が俺たちの開く最後のパーティーになるなんてな。彼女がこの屋敷を出なければならないなんて信じられない」


ここまでは、校正も藍がやりました。

ここからは、taaさんに校正をお願いしています。


私と双子のサムは両親と一緒に、ここから数ブロック先にあるアパートに住んでいる。マンハッタンにたくさん建っている、味も素っ気もない狭苦しいアパートで、元はオフィス用のテナントだった部屋を三つ目の寝室に改装して、今はサムが使ってる。―よくあるパターンね。そこから女帝の住む屋敷にやって来ると、もう壮観!女帝っていうのは私たちのおばあちゃんで、おばあちゃんは、マンハッタンのアッパーウェストサイドにある豪華なタウンハウスに住んでいる。そこは往年の名女優バーバラ・スタンウィックがかつて住んでいた由緒ある建造物でもあるのよ。この屋敷には広々とした寝室が二つあって、ダイニングルームと書斎が一つずつある。書斎っていってもサムがピアノを弾いても近所迷惑にならないくらい大きな部屋で、窓からは街の摩天楼やハドソン川が一望できるの。私たちが両親と一緒に住んでる方のアパートの、使ってなかったオフィス用の部屋をサムの寝室に改装したって言ったけど、なんでサムだけそんなに特別扱いされてるかっていうと訳があって、実はサムって凄い人なの。女帝の邸宅にも余ってる寝室はあるんだけど、その部屋はサムの聖地みたいになってて、サムがピアノを習い始めてから今までに行ってきたリサイタルの写真だとか、サムが勝ち取った数々の音楽賞のトロフィーだとかが飾ってあるのよ。その部屋にはサムが選んで購入した世界一快適なベッドも置いてあって、ベッドにかかってる羽毛布団もサムが選んだんだけど、—あれだったら、女帝が手縫いでレース編みして綺麗な模様を織り込んだ布団の方がましって感じね。それはともかく何が言いたいかというと、サム!私はサムが大好き!っていうこと。

女帝は今まで立派なキャリアを積み重ねてきたわけだけど、収入面でいうとそんなに儲かる仕事をしてこなかったの。だから、マンハッタンのこれだけ大きな家に住み続けるには収入が追い付かなくなっちゃったってわけ。ニューヨークでこのくらいの家に住んでる富裕層と比べると、彼女は金銭面で余裕がなかったわ。それでも彼女はこれまでずっと、女王様みたいな暮らしを続けてきたのよ。女帝も昔は若かったっていうのもあるし、すぐに金欠になるくせに最先端のファッションを追いかけていたっていうからね。そして彼女の祖父母がまだ生きていた頃に、一家でこの賃金統制がかかったタウンハウスに引っ越してきたそうよ。それからずっと彼女はここに住み続けているの。そんなことをしていた人は彼女だけよ。この辺りには100棟くらい邸宅が建っていたらしいんだけど、唯一彼女の家だけがマンションに建て替えられることなく、今も残っているのよ。(ブルドッグみたいな彼女の顧問弁護士に感謝ね)この辺りに住んでいる人は99%金持ちなんだけど、貴重な1%がスタンウィック邸に住む女帝ってこと。

っていうか、もうすぐそれも過去形になっちゃうのね。女帝は20年間、買収提案に抵抗していたんだけど、とうとう宮殿を去ることに同意したの。預金通帳の残高の小数点の前に、一つだけ残っていたゼロがなくなって、ようやく金銭的和解をしたそうよ。彼女って実は宝くじに当たったかのような出来事が起こったことがあるのよ。5回結婚していて、彼女がブラジル人の剥製術師と離婚した時には、みんなが彼女の大勝利を確信したわ。彼女の人生で一番大きな棚ぼたで、まんまとあの剝製のヘラジカみたいな顔した変な男から大金を手に入れたのよ。そのお金でサムに赤ちゃん用のグランドピアノを買って、彼は天才ピアニストになったの。おまけに彼女はサムのために高級なオーブンも奮発したから、彼は天才シェフにもなったのよ。彼は女帝にとってかけがえのない孫なのよ。そんな彼が料理とピアノの腕を振るって、彼女の邸宅にやって来るお客さんをもてなすっていうのが今までの恒例行事だったの。今夜は、私が一人で独占しちゃうけどね。

女帝が私よりも彼を重視して特別扱いしてることに、ほんとは怒ってもいいんだろうけど、私自身もサムが私よりも優れた人だって認めているわ。彼には私が持っていないあらゆるものがある。忍耐強さ、優しさ、可愛げ、それから才能も。私が女帝だったとしても、彼を選ぶでしょうね。正直に言うと、サムが家族のスターでいてくれて、私はほっとしてるの。おかげで私は可愛げのないくそ女を演じていればいいわけだから。私にとってはこれがはまり役なのよ。お気に入りのジーンズに足を通すみたいに、するりとその役にはまったわ。

サムの顔を見ると、眉間にしわが寄って、おでこがきゅっと引き締まっている。パーティー前で興奮状態なんだとわかった。「スパイラライザーはどこ?」

「何それ?」

「生野菜を細長く、らせん状にカットする調理器具だよ。ズッキーニの中に細かく切った野菜を入れた方がいいかなと思って」

「それはやめて。あなたの料理は今ので完璧よ」

「ピカピカに光った銀食器をちゃんとテーブルに並べたのか?」

「もう並べたわ。凄く綺麗なテーブルよ。ナプキンだっておしゃれに折りたたんだんだから」

「ナプキンってあの—」

「そう、女帝がダブリンで買ってきた高級なやつ。手は止めなくていいから、そのまま料理を続けてて。わざわざダイニングルームまで見に行かなくても、ほんとにちゃんとやったから。テーブルメーキングも飾り付けも終わったし、厚紙でできたリベラーチェのパネルをテーブルの真ん中に置いたのよ。その方が、フラワーアレンジメントを飾るより見栄えがいいかなって思って」

「キャンドルは?」

「置いたわ」

「じゃあ、ビュッフェのテーブルに、デザートを入れるお皿と、フォークとスプーンを用意しておいて」

「用意したわ」

彼がダイニングルームの状況について、あれこれ確認して不安がってるから、これ以上彼が深く気にしすぎてしまう前に話題を変える必要があった。「それより、あなたが招待した人を教えてよ。ヒントだけでもいいから」今、サムの寝室(というか来客があった時に寝室として使ってもらってる部屋)には私の衣類が散らかっている。スパンコールのついたホルタートップとか、フェザーでふさふさした襟巻とか、チェック柄のポリエステルのベルボトムパンツとか、フラッパードレスとか。だって、パーティーに誰が来るのか、どんな人たちが集まるのかわからない状況で、そのパーティーにぴったりの衣装なんて選べるわけないでしょ?

「ヒントもだめだ。それがルールだろ。お前がゲストを三人呼んで、俺も三人呼ぶ。そうやってミックスさせれば、俺たち二人にとっても、俺たちが呼んだゲストにとっても、サプライズパーティーになるだろ」

「あなたはまたレイ・チャールズみたいな服装をするんでしょ?」私はもちろん兄のクラシックなスーツにネクタイ姿は大好きなんだけど、―でも彼っていっつも同じ服装なのよね。たまにはスパンコールのついたケープを羽織ったり、腕を広げるとビーズがじゃらじゃらと垂れさがるアメリカ国旗模様のレジャースーツを着たりしている兄も見てみたいのよ。一度でいいから思い切った挑戦をしてほしいの。そうすれば彼の中で何かが吹っ切れるかもしれないし。

「そうだよ」とサムは言う。「レイ・チャールズは盲目だったけど、俺はこうして目が見えるわけだから感謝しなくちゃな。安らかに眠れよ、レイ」それから彼は少しの間黙っていたが、再び口を開いた。「お前、KKはパーティーに呼んでないだろうな」

「呼ぶわけないじゃない」と私は言う。

ほんとはしっかりKKも呼んじゃったけどね!

私がパーティーに呼んだゲストは、まずカービー・キングスリー(KK)。彼女はお金持ちの家のお嬢様で、パーティー好きの女の子なんだけど、彼女は兄の次に、私の一番の親友なの。私は彼女が好きだけど、私以外はみんな彼女が好きじゃないみたい。でもカービーがいないパーティーなんて、パーティーって呼べないから。彼女はスタンウィック邸辺りにある集合住宅の最上階に住んでいるの。彼女の部屋からはニューヨークの絶景が広がっていて、セントラルパークからイースト・リバーまで一望できるのよ。ミッドタウン、アップタウン、ハドソン川って360°のパノラマビューを楽しめるんだから。もし彼女のペントハウスの天井をすべてガラス張りにして、望遠鏡を真っ直ぐ上に向けて覗けば、おそらく神様だって見えるわ。

次に私が呼んだのは、リー・チャン。彼女は私が所属している化学研究室での私のパートナーなの。彼女はボードゲームの達人で、会話も落語家並みに上手なの。パーティーに来るときは必ず、出身地の台湾の美味しいお菓子の詰め合わせを持って来てくれるのよ。すごく綺麗な箱に入っていて、どうぞって主催者の私に手渡してくれるの。彼女はすべてのパーティーに絶対外せないメンバーね。

それからフレデリック・ポダランスキー、別名フレディ。ワイルドカードっていうか要注意人物ね。彼はポーランドからの交換留学生で、アッパーイーストサイドでホームステイをしてるの。私とKKがセントラルパークでかっこいい男の子たちがバスケットボールをしてるのを見てたとき、彼と出会ったの。彼は背が高くて、ブロンドヘアーで、がっしりした体つきで、藍色の目をしてるの。性格は単純ね。フレディは私が探していた男の子だって確信してるわ。―つまり、私の兄を惹きつけておきながら、冷たく突き放して、兄の心を打ち砕いてくれる男の子だって思ってる。

私の兄はまだジュリアード音楽院の入試に落ちたショックから立ち直ってないの。サムは女帝の賃金統制がかかった宮殿からほんの数ブロックのところにある〈フィオレロ・ラガーディア音楽美術演劇学院〉に通っている。ジュリアードに落ちたショックで落ち込んでいた彼は、ニューヨークの学校だと「ジュリアードが近すぎて落ち着かねーよ!」とか言って、一旦はボストンのバークリー音楽大学に入学したの。全く新しい街で、新しい挑戦をするんだって張り切って出て行ったわ。バークリーだって名門の音楽学校だし!でも彼は一年で挫折しちゃった。次の年に彼はニューヨーク市立大学の音楽科に転校したの。家から近い方が落ち着いて演奏に集中できるって帰ってきたのよ。

サムはバークリーをやめるべきじゃなかったって私は思ってるけど、でも彼はほんとに心の底から、ジュリアードに行きたがってるから、そんなに行きたいのなら、その気持ちを大事にした方がいいわね。来年、彼はもう一度ジュリアードを受けるつもりなのよ。サムの実力からしたら落ちたのが不思議なくらいだから、きっと今度こそ合格するわ。そして入学したら、彼は自分の殻を突き破るのよ。安全地帯から抜け出して、間違いだらけの恋愛をするの。彼にはそうする必要があるのよ。彼が普段つるんでいるような退屈な男たちと付き合うのは止めて、彼には不釣り合いな男を好きになっちゃって、何も手につかないくらい心がかき乱される経験をするべきなのよ。誤解がないように言っておくけど、べつにフレディがサムより上だとか、そういうことじゃないの。(私の兄より上の人間なんてこの世にいないわ)そうじゃなくて、スポーツで例えると、二人は別のリーグに所属してるから、普段会うことがないっていう意味。私的に言うと、「めっちゃかっこいい男子なんだけど、そこまで頭はよくないから、最初はサムとラブラブになるんだけど、そのうち、サムはいい人すぎるし、頭良すぎるなって気づいて、私の兄をポイッと捨ててくれる男子」って感じね。そういう軽いノリのイケメンと、先のない気晴らしみたいな恋に溺れなくちゃいけないのよ。

フレディは必然的にサムを振ることになって、失恋の激しい痛みが彼を襲うことになるわ。まあでも、時が過ぎれば痛みも治るわ。苦痛はすべての偉人を偉大にする。これは歴史が証明してることね。サムも苦痛を経験すれば、歴史に名を残すほどの偉大な人物になれるはずだから、今夜のディナーパーティーで、私は彼に恋のショックを与えたいと思ってるの。サムがフレディを見た瞬間、サムの偉人への長い旅路が始まるのよ。最終目的地はパルテノン神殿ね。というか、恋に落ちるまでもなく、サムは考えすぎる性格でストレスを溜め込むタイプだから、どうせ一人で勝手に苦しみのつぼに落っこちることになるわ。孤独の苦しみに比べれば、失恋の苦しみなんて両手を広げて歓迎すべきでしょ。振られるまではラブラブに過ごせるわけだし、むしろ私に感謝しなくちゃね、サム。

実は、私もサムと同じ苦しみを経験していて、第一志望の大学に入れなかったの。行きたかった一流大学に全部落ちちゃったのよ!私が出願した大学は、フランスのソルボンヌ大学、東京大学、それからスコットランドのウィリアム王子とキャサリン妃の出会いの場になったあの素敵な大学にも申し込んだわ。でも、かすりもしなかった。まあ仕方ないわね、私はフランス語も日本語も話せないし、スコットランド英語だってろくに理解できない。っていうか、スコットランド人の話す英語を理解できるアメリカ人なんているの? 私は志望校のランクを下げて、ニューヨーク大学、スキッドモアカレッジ、フォーダム大学、これらニューヨークにある二流大学も受けたんだけど、どこにも入れなかった。でも入れなくて良かったわ。スタンウィック邸辺りに住んでいるたくさんのいたずらっ子たちのベビーシッターをして貯めたお金を、入学金に使わずに済んだから。それから、コネチカットのどこかにあるクイニピアック大学にも無駄に入学金を払わずに済んだわ。(入試の時に行ったけど、なんだか疲れちゃってあまり覚えてないの。両親に受けなさいって言われて半ば無理やり受けさせられただけだし)私が唯一受かった大学の名前は、ちょっと明かすことができないんだけど、両親はすっごく安心してくれた。もう秋になってたけど、入学式の直前に入学手続きを済ませたの。大学名は聞かないでちょうだい。

「お前は女帝に恋人なんかできてないって思うんだな?」とサムが言う。彼は彼女に精神的に依存してるから、私が彼から彼女の呪縛を解いてあげなくちゃ。さっきダイニングルームで準備をしてるとき、テーブルのリーフを広げようとして蝶つがいの部分を壊しちゃったんだけど、そのままにしておくの。女帝が見つけたら、カンカンに怒って彼を怒鳴りつけるわ。もちろん私も一緒に怒られるわけだけど、私は慣れっこだからなんてことないわ。でも聖人のサムは慣れてないから、相当ショックを受けるでしょうね。でも、ちゃんと祖母離れした方が健全でしょ。彼にとっても、彼女にとっても。今度海外旅行をしたとき、オーストリアかどこかの、伝統のあるフロイト大学だったかユング大学に行って、転入について色々聞いてみるつもり。私って精神分析の天才でしょ。将来その分野で大成功する予感しかないから。

「そんなことわかるわけないじゃない!」と私は言う。「クロワッサンを使って手当たり次第にフランス人の男とやってたって、私の知ったことじゃないわ!」

「フランス人の男はみんなクロワッサンを持ってるからな、そうだろ?」

ちょっと!あなた、フランス革命の何たるかを知らないの? 命、自由、そして何と言っても、パリッパリの完璧なクロワッサンのために戦ったのよ」

「トング」とサムが言う。

「フランス式の拷問道具?」

「そんなわけないだろ。早くそこのトングを取ってくれ。ラザニアを茹でてる鍋が噴きこぼれちゃうだろ」

私は彼にトングを手渡す。「イルサ、これは泡立て器だよ」彼が呆れた顔で手を伸ばす。私の横をすり抜けていった彼の手の先には、トングという名のへんてこな道具があった。「だから、俺は女帝にパリで恋人ができたんじゃないかって言ってるんだよ」

「っていうかあなた、ただ『恋人ができた』って言いたいだけでしょ」

「まったく。お前は俺のことを何でもお見通しだな」

実際女帝はパリで恋人ができたのかもしれないけど、彼女がパリへ行ったのはそれが目的ではない。彼女は私たちが知らないって思ってるだろうけど、私はちゃんと知っているわ。女帝は何でも隠したがるけど、彼女はインターネットに閲覧履歴があるなんて知りもしないの。履歴は定期的に消すべきなのにね。私たちのおばあちゃんが今パリに行ってるのは、パリに小さなアパートを買ったからで、彼女はそこに隠居する計画なのよ。小さなアトリエみたいな部屋で、私の寝室もサムの寝室もついてないわ。(私がこれを知ったとき、ついでに知りたくもなかった彼女の趣味まで知ることになってしまったのよ。彼女はずっと、競泳用のぴっちりした水着を穿いた、ほぼ裸のジェームズ・ボンドを演じてるショーン・コネリーの写真を見ているの。それから彼女は、歴代のボンド役者の中で一番胸毛が濃いショーン・コネリー風の俳優が演じてる『007』をオマージュしたポルノ作品が大好きみたい)(彼女の閲覧履歴で見たものを思い出すと、吐きそうになる)

彼女がパリに行った本当の目的をサムが知ったら、ショックを受けるでしょうね。でも、たまにパリまで会いに行けばいいわけだし、おばあちゃん家がパリなんて素敵じゃない? そして私が、サムを本当の意味で安全地帯から連れ出して、もっと広い世界へ放り出すの。女帝がこの屋敷を出て行ったあと、サムの輝かしい栄光の軌跡が飾られた寝室で私が住むことになるわ。この家の新しいオーナーが私を住み込みのベビーシッターとして雇ってくれることになってるのよ。あんな狭い部屋では収まりきれないほどに、サムには才能や潜在能力が溢れすぎているわ。まあ私にはあれくらいの部屋でちょうどいいけどね。

今夜は、私たち双子が主催して、この屋敷で行われる最後のディナーパーティー。ラザニアを食べて、お酒やホットチョコレートを飲んで、友達や初めて会う人たちと、私たちの門出をお祝いするのよ。今夜、私たちはみんなでリベラーチェみたいに着飾って、シャンデリアにキラキラと照らされながら、夢の世界で盛り上がるの。

明日になると私たちは平凡な日常に戻っていて、兄はいろんなショックが重なって苦痛に耐えていることでしょうね。



2

サム


ディナーパーティーが始まる1時間前までは気持ちに余裕もあるし、いつも楽しく準備してるんだ。でも、お客さんたちが到着するまで1時間を切ると、毎回事態は急変する。まだやらなくてはならないことが4時間分も残っているからだ。そこからはもう、激動の人生って感じで、窮屈な台所の中を踊っているかのように動き回り、ガスコンロにかけた鍋が噴きこぼれるのを気にしながら、テーブルもセッティングしなきゃいけないという慌ただしさだ。僕はすべてが完璧じゃないと気が済まないんだけど、完璧なんて不可能で、自分に対する無茶な要求だってこともわかってる。わかってはいても、すべてを完璧にこなさないと、僕の心の奥深くにはぬぐい切れないわだかまりのようなものが残る。完璧じゃなくたって、―と僕はいつも自分に言い聞かせる―それは僕のせいじゃないと。

イルサにはいつも感謝していて、今も彼女は僕に何か助言してくれるみたいなんだけど、どうせまた僕のファッションへのダメ出しだろう。

「どうしてあなた、あの黒いベルベットの服を着てないの? もうすぐみんな来ちゃうわよ。早くそのジーンズを脱いで着替えて」

僕が黒のベルベットをまだ着ていないのは、今から2分後くらいに粉砂糖をレモンタルトの上にパラパラと振りかけなければならないからで、それをイルサに説明し始めると2分くらいかかっちゃうから、代わりに「パーティー中に流す音楽のプレイリストを準備してきて。お前の好きな曲を好きな曲順で並べていいから」と言って、彼女を台所から追い出した。きっと、僕の気分は全面ガラス張りの建物みたいに彼女には透け透けに見えているから、僕が一人になりたいってことは伝わっただろう。でも、もう一つ理由があって、パーティーが始まってから、彼女がこの曲は好きじゃないとか言い出して曲を止めて切り替えたりするよりは、今のうちに彼女が好きなスイング音楽なんかをプレイリストに加えさせた方がいいと思ったんだ。

キッチンに一人でいると、段々と気分が落ち着いていくのを感じる。僕はこの空間が好きだ。僕の思考はキッチンに響く音と相性がいいみたいで、鍋の中で泡立つ音や、沸騰する音、それから冷蔵庫の音なんかにうまく溶け込んで、ここにいると、僕は小さなオーケストラの指揮者になれる気がするんだ。

そこに誰かが入って来ると、急に僕の指揮棒は乱れ出す。そして音たちに乱れが生じ、しっちゃかめっちゃかな演奏に成り下がってしまうのだ。

イルサが誰を招待したのかはわからないけど、大体察しはつく。さっきKKは呼んでないとか言ってたけど、どうせそのうち玄関のドアが、競馬のスタートゲートみたいに勢い良く開け放たれて、KKがお嬢様風を肩で吹かせながら入って来るのだろう。イルサはKKに逆らえないのだ。―KKはいつも最先端の流行の服を着ていて、イルサのファッションリーダー的存在で、ちょっと方向性はどうかと思うけど、KKは僕の妹のロールモデルなのだ。僕の個人的な意見を言わせてもらうと、あんなに裕福なお嬢様が、どうしていつも文句ばっかり言っているのか、僕には彼女の胸中がさっぱり理解できない。でも彼女自身が僕に好かれることを望んでいないのは、今までの経験からわかる。僕だけではなく、KKは誰からも好かれようとしていないのだ。彼女にはある種の力のようなものがみなぎっている。それは僕にもわかる。ただ、その力がいったい何の役に立つのかは、ちょっと僕にはわからないってだけ。

僕が呼んだゲストたちは、イルサの友達に比べれば、少しは人当たりが良い人達だと思う。というか、そうであってほしい。

まず一人目は、僕の親友のパーカー。イルサは彼を〈出禁リスト〉に入れてるんだけど、彼なしで最後のディナーパーティーを開くなんてあり得ないから、当然呼んだ。イルサからすると、彼は彼女を失意のどん底に落とした張本人みたいだけど、彼女は失恋を乗り越える必要があるし、だいたい、二人が別れたのは完全にイルサのせいなんだから、それで僕と彼の友情にひびが入るっていうのは、ちょっと納得いかない。

次に呼んだのはジェイソン。イルサの元カレを一人呼んだからには、僕の元恋人も一人呼ばないとバランスが悪くなると思って、彼を呼んだ。とはいえ、状況はイルサたちとは違って、ジェイソンと僕は別れた後もなんとか友人関係を保っている。彼は「僕はタフツ大学に行くから、君はバークリー音楽大学に行ってくれ。そうすれば、同じ町で一緒に大学時代を過ごせる!」と、二人の未来を計画してくれた。でも僕は、申し訳ないけど、そんな彼の言葉を否定してしまった。僕が「実はマンハッタンに残るつもりなんだ」と打ち明けると、彼は「話が違うじゃないか」と言って、激しくドアを押し開け、猛然と部屋を飛び出していったんだ。部屋の真ん中にぽつんと取り残された僕は、受け取ってもらえなかったプレゼントにでもなった気分で、無様に突っ立っていた。ジェイソンは僕のことを運命の相手だと言った言葉を撤回した。そして僕たちは別々の道を歩むことになった。今はそれぞれ、別の真実の愛、運命の人を探している。

今回僕が呼んだゲストの中で目玉というか、ワイルドカードは〈地下鉄の彼〉なんだけど、たぶんジェイソンとあんなことがあったから、僕は導かれるように彼と出会ったのだろう。ここ何ヶ月かの間、1番ラインの地下鉄でよく彼を見かけていた。ニューヨークのあちこちで彼の姿が目に入ってきたけれど、特にリンカーン・センター周辺で見かけることが多かった。時々彼はバイオリンのケースを持っていたんだ。僕はふと、頭の中でニューヨークの地図を思い描き、〈地下鉄の彼〉の足取りを勝手に空想していた。それからしばらくして、僕が彼のことを意識しているのと同じくらい、彼も僕の存在に気づいていることがわかった。

それでも、僕は彼に話しかけることによって、淡い空想が壊れてしまうことを恐れ、先週まで何も言えずにいた。しかしこの前、僕が地下鉄に乗り込んだら、ちょうど目の前に彼が立っていたのだ。絶好のチャンスだと思った。ポケットに入れておいたパーティーの招待状が、スマホのバイブレーションのように振動している気がした。だめ、だめ、そんなことしちゃだめ!と自分を制する声よりも先に手が出て、僕は彼に招待状を差し出し、「来てほしい」と言っていた。

「行く行かないの印をつけて送り返す選択肢の欄がないね」と、彼は招待状を一通り読み終えてから言った。

彼の僕を見つめる目は、頭のおかしな人を見る目ではあったものの、悪い印象はなく、温かみのあるまなざしだった。僕のことを、頭のおかしい勇敢なロマンティストだと思っているような目だった。

「後悔しかないよ」と僕は彼に言った。

「そっか」と彼はちょっとはにかんで言った。「僕は全く後悔なんかないけどね」

彼が降りる駅に地下鉄が着いたとき、僕は思い切って、「じゃあまた、パーティーで」と言ってみた。

「必ず行くよ」と彼は答えた。

それっきり終わってしまう予感もあった。それから彼を見かけてはいないし、今夜彼がパーティーに来てくれるのか確信も持てない。もし彼が姿を現したら、イルサはきっと、すかさず僕に彼の名前を聞いてくるだろう。

でも僕は彼の名前すら知らない。

そればかりか、僕は彼がベジタリアンなのかどうか、逆にお肉しか食べない人なのかどうかも知らない。あるいは、乳製品を受け付けない体質の人かもしれない。グルテンフリーの食生活をしているとか、もしかしたらケール野菜しか口にしないとか、それはちょっと行き過ぎた想像だけど、どうしても少しずつ想像がふくらんでしまう。

「ねえ、今夜のゲストは6人だけってことわかってる?」いつの間にかイルサがキッチンに戻っていて、そう聞いてきた。僕はゆで卵の白身と黄身を分けているところだった。イルサが着ている丈の短い派手なフラッパードレスを見たら、伝説の女優クララ・ボウでさえ口を閉じて、尊敬のまなざしでイルサを見つめる気がする。「こんなにたくさん作っても、少なくとも私が呼んだゲストは、これ全部は食べきれないわよ」

僕がキッチンから妹を追い出しても、家に僕たち二人しかいない場合、そんなに長く一人の時間を過ごすことはできない。べつに彼女が僕の料理してる姿を見るのが好きとかそういうわけではないし、もちろん彼女が助手役を気に入っているとかでもない。彼女は単に独りぼっちで部屋にいるのが大嫌いなのだ。

「俺はルドルフ・テートを招待したから」と僕は言う。「彼は少なくとも1人で6人前は食べるよ」

彼女に嫌味の一つでも言ってやりたかった。ルドルフ・テートはとてもよく食べる人なんだ。食べ方も外見も鳥みたいなんだけど、僕とひな鳥みたいな軽いデートを二回しただけで、僕の元からさっと羽ばたいていった。元々はイルサが紹介してくれた人なんだけど、全く共通点がないといっていいくらい合わなくて、デート中、僕はしどろもどろしっぱなしだった。イルサが紹介してくれる人はいつもそんな感じだから、ルドルフと別れたとき、僕は彼女に絶対にもう二度と、僕を誰かとくっつけようとしないでくれ、と念を押しておいた。彼との出会いは忘れもしない。僕が家に帰ると、クローゼットの前にイルサが立っていて、あなたにすごく、すっごく会いたがってる男子がいるのと言った。そして彼女がパッとクローゼットを開けたと思ったら、鳥みたいな男子が羽ばたくように飛び出してきたのだ。

「ほんとにルディを招待したのなら、私の耳に入ってるでしょうね」とイルサが言う。彼女はうわさ話のネットワークに揺るぎない自信を持っているのだ。「スタンタが、あなたと別れたルディにすかさずアプローチしたのよ。スタンタは何でもツイッターにつぶやく人だから、もしルディがあなたに誘われたのなら、嫉妬心を燃えたぎらせてツイートしまくってるでしょうね」

僕はスタンタともデートしたことがあるんだけど、ルドルフとのデートよりもひどい有り様だった。僕たちは夕食しながら会話していたんだけど、彼は視線をスマホに落としたまま、終始指を動かし、文字を打ち続けていた。僕は彼のツイートのネタになるようなことは言わないようにしようと、気をつけながら喋っていたんだ。そしたら彼が僕に対して抱いた印象を一方的にツイートされ、最終的に僕はなんと「#話してると眠くなる人」と名付けられた。彼との二度目のデートは断ったんだけど、その理由を彼が理解していないということに、僕は衝撃を受けた。というのも、彼のツイッターを覗いたら、彼は(56人の)フォロワーに向けて、「#話してると眠くなる人が#スタンタの魅力に気づかなかったという事実に、#スタンタは悶絶」とツイートしていたから。

僕はイルサの顔をじっと見て、表情から彼女がルドルフかスタンタを招待したかどうかを確かめる。どうやらどちらも招待していないようで、僕はほっと胸をなでおろす。でもそうすると...他に考えられる人は誰がいるかと思うと、再びちょっと不安になってきた。

僕はオーブンの中をチェックする。少なくともキッチンの中は、すべてが計画通りに進んでいるようだ。タイマーがカチカチと時を刻む音が耳に気持ちいい。僕はタルトに粉砂糖をまぶし、ウォルドーフ・サラダにもうひと工夫を加える。レモンジュースに浸したリンゴが、ちゃんと僕好みのきつね色になっていることを確認してから、サラダに混ぜる。もうそろそろエプロンを脱いで、パーティーの主催者モードに入る時間だ。わかっているけれど...僕はもう少しキッチンに残って、こうして過ごしていたい。ここにいる限り、気持ちがかき乱されることはないから。

「いよいよだな」と僕はイルサに言う。「僕たちの高校時代を締めくくる最後のディナーパーティーだ」

これからの人生、いろんなさよならが待ち受けているだろうけど、これが最初のお別れになる。僕は僕なりに今日まであれこれ考えて、みんなと別れる心の準備はできているつもりだ。ただ、それは卒業する準備ができているってだけで、人生に入れ代わり立ち代わりさよならが訪れるってことは、まだピンと来ない。

こんな気がめいるようなことをイルサに言えるわけがない。僕の妹は陰気なことが嫌いなのだ。僕はゲイかもしれないけど、彼女は天真爛漫に生きていて、楽天屋でそそっかしくて、家族の花でもあって、いつでも人生をパーティーみたいに華やいだものにしようと頑張っている。―つまり、僕とは正反対の二卵性双生児なのだ。

すごい豪華な料理の数々ね」と彼女は言う。少女が母親の靴を恐る恐る履いてみるような言い方だ。

祖母の靴と言った方が適切かもしれない。僕たちは二人とも祖母の靴を履いているって言っても過言ではないからね。見てよ、この煌めく創作料理の数々を!僕は祖母みたいに料理で輝こうとしているんだなって思うし、イルサの姿を見てよ!まばゆいばかりのフラッパードレスに身を包んで、祖母みたいに輝きたいのだろう。

「単調な日常は忘れようっていうコンセプトで作ったんだ」と僕は彼女に断言する。

「私たちがこのアパートにいる限り、単調な日常が入り込む隙はないわね」

「記憶に残る夜にしような」

彼女はうなずく。「歴史に残る夜になるわ」

僕は最後にもう一度、ひと通りチェックしていく。鍋を開け、ちゃんとボイルされていることを確かめ、醸成したコーヒーの香りを嗅ぎ、オーブンの中の焼き上がり具合をチェックする。あと10分しかない。僕は着替えるために自分の部屋に戻る。クローゼットのドアに僕の洋服が掛かっている。黒いスーツ、白のシャツ、濃紺のネクタイ。僕のいつものスタイルだ。これが一番しっくりくるし、他の服装だと僕はかっこがつかない。今夜はどうしてもかっこいい姿でいたいから。

自分でも知らず知らずのうちに、僕は希望を抱いていた。

彼が現れる確信なんて到底なかったけれど、名前も知らない彼が来てくれるのではないかと期待している自分がいた。

もちろんパーカーには、今夜地下鉄の彼を招待したことは話してある。たとえ瞬間的にであっても、僕だって勇気を振り絞って、一人で思い切ったことができるんだってパーカーに思ってほしくて、話したんだ。数ヶ月前からずっと、僕はパーカーから、早く〈地下鉄の彼〉に話しかけるように言われていた。パーカーが一緒に地下鉄に乗っていた僕をその場に残して、つかつかと〈地下鉄の彼〉に近づくと、「やあ、実は俺の友達がお前のこと好きだっていうんだよ」と、半ば強引に話しかけたこともある。そして先週、ついに僕は自ら行動を起こしたのだ。

今は、待つしかない。

お前はやればできる子なんだよ、とパーカーは僕に言う。僕はたまに、自分に自信が持てなくなると、彼の声を借りて、自分にそう言い聞かせている。

あと8分、僕はシャツのボタンを閉める。

あと6分、僕はネクタイを結ぶ。

あと5分、僕は―

僕は―

僕はこの部屋を出られない。僕には無理だ。できない。できるわけがない。イルサに具合が悪いって言おう。こんなこと、僕にできるはずないよ。これから何が起こるのか、それがどんなことであれ、僕はそれを望んでなんかいない。これは間違いのようなものだったんだ。いたずらで彼に招待状を渡しただけってことにしよう。キッチンに戻って一人で過ごそう。誰も入ってきて欲しくない。誰とも話したくなんかない。僕の体がひしひしとそう言っている。僕の体はシャットダウンしつつあって、「もう十分だよ、サム」と語りかけてくる。僕はやればできると信じ込もうとした。自分自身を騙そうとした。でも、僕が唯一優れている能力は、自分がいつ失敗するかを事前に察知することなんだ。その予知を無視するなんて不可能だ。僕はきっと失敗する。

あと4分。

僕には自分を含めて誰かを騙すなんてできない。

あと3分。

イルサが僕の名前を呼んでいる。僕は医者に言われた通りの手順で、気持ちを落ち着けようとする。ゆっくりと、深く息を吸い込んで、ふーっと息を吐きながら、自分を肯定する。僕はきっとやれる。彼が来ようが来まいが、どっちでもいいじゃないか。僕らのディナーパーティーがこれでおしまいになろうがなるまいが、イルサが喜んでくれようが喜んでくれまいが、べつにいいじゃないか。

あと2分、僕は鏡の中の自分に語りかける。

いつもよりかっこよくきまってるじゃないか。

今夜のパーティーのある時点で、僕はジャケットを脱ぐことになるだろうと思った。その時に手首が露わになっては困る。僕は神経質なまでに慎重なのだ。

僕はジャケットの下のシャツの袖を手首までしっかりと伸ばし、袖口のボタンを留める。いつまでも消えずに残っている手首の傷が見えなくなるまで。

あと1分。インターホンが鳴り響く。

最初のゲストがやって来た。



3

イルサ


ドアを開けるとすぐにわかった。

この子がワイルドカードの男子に違いない。

シャイな物腰、甘い顔つき、サムが今までに街で一目惚れしてきた数え切れないほどの少年たちと同類だったから、すぐにわかったわ。スターバックスの少年でしょ、AMCシアターの少年、〈プレタ・マンジェ〉の店員を好きになった時なんて、サムは毎日のようにサンドイッチを買いに行ってたし、ライブハウス〈ターミナル5〉の彼とか、スーパーマーケット〈トレーダー・ジョーズ〉の彼に一目惚れしたこともあったわね。

今、私の目の前に立っている彼が誰であろうと、どうせこういう子が来るんだろうと思って、私はフレディを招待したのよ。私たちのディナーパーティーには、色気を醸し出すようなホットガイが絶対に必要なの。フレディはバスケットコートでは単純な男子って感じだけど、東ヨーロッパ出身のフレディは恋愛に関しては気が変になるくらいの激情型だろうから、サムがのぼせ上がって、こういう素敵で、いかにも害がなさそうな男子と仲良くなろうとするのを邪魔して、ぶち壊してくれるはずよ。

ワイルドカードの男子は、サムが好きになってきた男子たちと同様に、背が高くてやせていた。そしてサム好みの黒いジーンズを穿いている。(派手さの欠片もない服装で来るなんて、―彼は招待状を読まなかったのかしら?)ワイルドカードの彼が今までの男子たちよりましな点は、彼の着ている白いTシャツの前面に二本足で立つおしゃれを気取った黒猫が描かれていることで、その猫は前足を器用に使ってバイオリンを弾いている。吹き出しに文字も書かれていて、その黒猫は、「ボクは前足でブルーグラス・ミュージックを奏でるんだ」と言っている。ワイルドカードの男子は引きこもりみたいに青白い肌をしていて、くしゃくしゃの赤毛を伸ばしていた。赤い髭も顎の下にだらしなく伸びていて、目は深い緑色をしている。赤とオレンジの中間みたいな色の髪の毛と黒いスキニージーンズのせいで、彼が逆さまに置いたカボチャみたいに見えてきた。でもワイルドカードの彼はすごくキュートで、にっこりと温かい笑顔を私に向けてきたから、私は彼の笑顔に疑いの目を向けないことにした。彼はバイオリンのケースを抱えている。

「こんばんは」と私は言う。「ようこそ。私はイルサ。あなたは...?」

「ヨハン!」と彼は小気味よく言った。「お招きいただき感謝します。ただ、おばあさまがこちらに住めなくなってしまうとのことで、お気の毒です!そのようなことが招待状に―」

私は割って入る。「あなたって面白いアクセントで話すのね。もしかしてオーストラリア人?」

「南アフリカ出身です」

「南アフリカもオーストラリアも同じようなところにあるんでしょ?」

「いや、全然違うと思うけど」

「故郷を離れてはるばるやって来たのね、ヨハン。なんでニューヨークに来たの?」

「ジュリアードでバイオリンを弾いてます」

「クラシック音楽?」

「学校ではそうですね。でも、心ではいつも、アメリカン・ブルーグラスを奏でてます」

背後からサムの声が聞こえてきた。「あれこれ聞くんじゃない、イルサ! 早く彼を中に入れて。彼は吸血鬼じゃないんだぞ」サムは私の背中にくっつくように立つと、私の耳元で、かなり大きな声でささやいた。「彼って吸血鬼なのかな?」

振り返ってサムを見ると、彼のお気に入りのスーツを着ている。サムは頬をほんのりとほてらせて、目を潤ませながら、照れくさそうに彼を見つめている。まったく! 希望とか、期待とか、そういう感情が全部顔からにじみ出てるじゃないの!こいつがポーカーでチャンピオンになることはいつになってもありえないな。

「ちゃんと赤い血が出る人間だと思うけど」と私はサムに言ってから、念のため、ヨハンに直接聞いてみた。「あなたって吸血鬼じゃないでしょ?」

「いや」とヨハンは言うと、私に向かってウインクして、「君の首はすごく魅力的だけど、血を吸ったりはしないよ」と言った。それからサムを見て、「君の首もね」と、サムにもウインクした。

なんて、気の利いた切り返し。いきなり一人目から、私好みのゲストだわ。

「どうぞ、入って」と私は言って、彼が通れるように、開けたドアを押さえていた。

ヨハンはバイオリンケースを手に持っていたけれど、私が見たところ、他には何も持っていないようだった。初めてのゲストは、主催者に手渡してくれるギフトを見れば、その人の人となりが色々とわかるものなのよ。(プレタ・マンジェの彼は、お店で売れ残ったクッキーを持って来てくれたわ。ターミナル5の彼は、花束を私に手渡してくれたし、スターバックスの少年は、ジンジャーブレッドのシロップをくれたわ)―最悪なのは、(トレーダー・ジョーズの彼みたいに)手ぶらでやって来る人なんだけど、ヨハンも「手ぶら組」に入ることになりそうね。もしかしたら、南アフリカにはパーティーに贈り物を持って行くっていう習慣がないのかもしれないわ。っていっても、私は贈り物をもらうためにパーティーを開いてるわけじゃないのよ。(でも、お願い、リー・チャン。また、あのほっぺがとろけるような台湾のチョコレートを持って来てちょうだい)

「このアパートって、ほんとに君のおばあさまが所有してるの?」玄関ホールからリビングルームまでヨハンを案内していると、彼が聞いてきた。このアパートは建物の角に位置していて、エンパイア・ステート・ビルディングも見えるし、南にはマンハッタンのミッドタウン、西にはハドソン川も見渡せる。「ぼくが知ってる人たちはみんな、汚い寮とか、ブッシュウィックにあるシェアハウスで窮屈に暮らしてるよ。ブッシュウィックって労働者階級の町なんでしょ」

「このアパートには、3世代に渡って僕たちの家族が暮らしてるんだ。昔はこの辺りも、こんなに馬鹿みたいな高級住宅地じゃなかったんだけどね」とサムが言う。なんだか彼は、いつもお腹を空かせた芸術家や、いろんな地域を移動しながら暮らす人たちの基準で女帝が生活していないことを謝罪しているように聞こえた。

「賃金統制の関係よ。昔から住んでる人は、土地とか建物が値上がりしても、昔のままの家賃で住んでいられるの。だから今までここに住めたのよ」と私は説明を付け加える。これでヨハンはわかってくれるでしょう。私たちはただ、成金の大金持ちたちに囲まれて暮らしているだけで、私たち家族はお金持ちでも何でもないっていうことを。

サムは賃金統制の話が大嫌いで、私がその話を初めて会ったばかりの人にすると、あからさまに嫌な顔をする。でも私的には、この話をすることで、手っ取り早く初めて会った人の性格をつかめるのよ。良い試金石になるっていうか、だいたい反応は二通りね。運がいいわね、というふうに喜んでくれるか、安い家賃でこんないいところにずっと住んでたなんてずるい、としかめっ面をするか。相手の性格は早く知るに越したことはないわ。まあそれはともかく、重要なことは、運は永遠には続かないってこと。

ヨハンが言う。「なるほど、賃金統制ってそういうことなんだね。前にも賃金統制について聞いたことがあったんだけど、都市伝説か何かだと思ってたよ」

「かなりレアケースではあるんだけど、都市伝説じゃないわ。でも、もうすべておしまい」と私は言って、リビングルームの奥の壁際に置いてある引っ越し屋さんのロゴが入った箱を指差した。「おばあちゃんが払ってる、この広いアパートの毎月の家賃はね、いびきをかくルームメイトとかネズミとかと一緒にあなたが住んでる、ちっちゃな寮の部屋よりも、だいぶ安いと思うわ」

「両方ともぼくの部屋にいるよ!」とヨハンが言う。

「何か飲み物でもどう?」とサムがヨハンに聞いて、話題を変えようとする。「えっと、ソーダ水と、ザクロジュースと、ジンジャーエールがあるけど...」

「ビールはある?」とヨハンが聞く。彼のアクセントだと、「ビーラー」みたいに聞こえる。それってどんな飲み物?

「ごめん」と聖人サムが言う。「アルコールは出さないって祖母と約束してるから」

「私が出してきてあげる」と私は言う。「ビールの銘柄は何がいい? サミュエル・アダムズ? それともシエラネヴァダ?」サムと私の間には暗黙の了解がある。サムが女帝の決めたルールをごねるように言いながら、こっちをうかがうように視線を泳がせたら、私の出番ってことだ。私からしたら、ルールを破ることなんてお茶の子さいさいだから。

「君の好きなもので」とヨハンが答えた。「ありがとう、イルサ」

私はキッチンに入って、しばらくサムとヨハンを二人きりにしてあげることにする。ここに初めて来たお客さんは、―特に都会に慣れていない人の場合―まず壮大な夜景を眺めてから、ちょっと古くなってるけどこの豪華なアパートの中を見て回りたいって思うはずだから。私が頑張ってやったパーティー用の飾り付けをヨハンが気に入ってくれるといいな。私はリビングの壁一面に、ど派手なキラキラ衣装を着たリベラーチェの写真を年代順に何枚もピン留めしたのよ。それからダイニングのテーブルの上のシャンデリアには、ディスコ風の小さなミラーボールをぶら下げたし、洗面所には女帝がアイルランドで買ってきた最高級のハンドタオルを用意したし、洗面所の化粧台の引き出しには、〈アドビル〉(お酒が飲めないお客さん用の薬)と、〈ペプト・ビスマス〉(サムの料理が口に合わなかった人用の胃腸薬)と、色とりどりのコンドーム(イチャイチャしたくなっちゃった人用)を入れておいたわ。

キッチンには固定電話があって、このアパートと建物のロビーをつないでるんだけど、その電話が、まるで1956年のような粗雑な響きで鳴り出した。その頃は誰も着信音が鳴る携帯電話なんて持っていなかったんでしょう。

「もしもし」と私は電話に出る。

「お客様がお見えになりましたのでお取次ぎします...」とドアマンが話し出した。

「いちいち電話をくれなくても大丈夫よ、バート。どんどん入ってもらって、上の階に上げちゃって。ありがとう!」

私は電話を切り、冷蔵庫からサミュエル・アダムズを2本、私とヨハンの分を取り出した。冷蔵庫の中に元々何本のビールがあったかを数えて、ちゃんと覚えておかなければならない。女帝が帰って来る前に、KKの家からくすねてきたビールで埋め合わせて、元通りの状態にするためよ、KKの両親はビールが家からなくなったって気づきもしないわ。彼らはKKが普段から寿司とチョコの棒アイスだけを食べて生きてることも知らないんだから。

お客さんを出迎えようと玄関に向かっていると、書斎からサムの弾くピアノの音が聞こえてきた。デューク・エリントンの『キスへの序曲』だ。その曲は奥の手で取っておいてよ、サムったら気が早いんだから。まだパーティーは始まってもいないのに!それにしても、なんて甘くて、希望に満ち溢れたメロディーなの。私もつられて胸躍る気分になるわ。今までで最高のディナーパーティーになりそう。そんな予感が胸の内に溢れてくる。

私はいつものように玄関のベルが鳴るまで待つことにする。本当はドアを開け放ち、上がってきたエレベーターから、お客さんたちがこの8階のフロアに降りてくるところを見たいんだけど、私はいつもその衝動を抑えながら玄関の内側で待っている。良い主催者っていうのは、待ってましたとばかりにお客さんを出迎えるんじゃなくて、余裕を持って待ち構えているものなのよ。私は玄関ホールの鏡に映る自分の姿を見つめる。深みのあるワインレッドの口紅を濃く塗りすぎた気がして、ティッシュをくわえて少し色を抑える。目の下に黒のコールで引いたアイシャドーを指でなぞって少しぼかす。それから、切ったばかりのボブヘアーの黒い前髪を整えるようになで下ろす。美容院で1920年代のショーガールみたいなレーザーカットのボブにしてもらったの。髪の両側の先端が、私のあごに届きそうなくらい尖ってるのよ。

私は次のゲストに願いを込める。ウィルソン・サラザール、どうかウィルソン・サラザールが来てくれますように。サムが呼んだ3人のうち、まず1人目のベールが明かされたわけだけど、ヨハンはもうすでに素晴らしい人だってわかったわ。残りの2人のうち1人は、ジェイソン・ゴールドスタイン=チャンでしょう。ジェイソンはサムにとって、安全パイというか、いつものメンバーって感じだからね。ジェイソンはサムの心安らぐ元カレという矛盾した存在なのよ。そうすると、サムのゲストは残り1人ってことになる。私はサムがついにウィルソン・サラザールを招待したんじゃないかって期待して、たまらなくなって生唾を飲み込む。彼はラガーディア芸術大学の4年生で、演劇科で一番才能があって、かっこいい俳優なのよ。去年の秋にはマクベスを演じて舞台上で殺されてたし、この春の「ウェスト・サイド・ストーリー」では、私の心が張り裂けそうになるくらい、観ているだけで切ない気持ちになったわ。

玄関のベルが鳴る。私は中指を人差し指の上に重ねて神頼みをする。ウィルソン・サラザールが目の前に現れることを願いながら、「ウエスト・サイド・ストーリー」の劇中歌『Tonight』をささやくように歌う。「Tonight, tonight / It all began tonight.(今夜、今夜/すべてが始まった今夜)」

目の前のドアが開く。

なんてこと!

「今日の君はすごく魅力的だね、イルサ」パーカー・ジョーダンが、赤いバラの茎の部分を歯で挟みながら、何の気兼ねもないといった表情で、そんな歯の浮くような台詞を言ってのけた。彼はスパンコールがちりばめられたマイケル・ジャクソン風の黒と白のタキシードを着ている。私たちが社交ダンスのパートナーだった頃、競技会で彼がいつも着ていたやつだ。彼は髪型を、テレビドラマ『ベル・エアの若き王子』の頃のウィル・スミスみたいに、横を刈り上げてハイトップにしていた。それは、私がいつも床屋さんに彼の髪型を「刈り上げてハイトップにして」って言っていたヘアスタイル。私たちが付き合っていた頃は嫌がってしなかったくせに、私が髪型をせがまなくなったとたんにこれだもん。でもまあ、願いが叶ったってことね。

私は彼の口から赤いバラを取り、振り向くと廊下に向かって放り投げた。「さあ、取って来なさい、パーカー!」と私は言う。

パーカーが笑って返す。「おい、イルサ。もうそんなことしないよ」

「あなた、来るの早すぎ」と私はパーカーに言う。

「何時に来ればよかった?」

「何時でも来ちゃだめ」

「じゃあ今でぴったりじゃん!」とパーカーが言う。

仕方なく彼をリビングルームまで案内しようとしたら、彼は図々しくも私を差し置いて、玄関ホールからすたすたと勝手に中に入り込み、ここには100万回来たことあるよ、とでも言わんばかりの慣れた様子で、リビングに向かって突き進む。私は玄関のドアを閉めてから、彼を追った。すると彼が私に茶色の紙袋を手渡してきた。「どうぞ。ママとパパからの差し入れだよ」彼の耳が書斎から聞こえてくるピアノの音色をとらえたようで、彼は耳を澄ましながら言う。「このジャズはエリントンだ。いきなりいい選曲だよ、サム」

私はパーカーの手から紙袋をひったくる。彼に「ありがとう」なんてまどろっこしくて言ってられない。後で直接彼の両親に、お礼のメールを送るからいいわ。紙袋の中を覗くと、パックが2つ重なって入っていた。私はすぐに中身はきっと、私の大好物のスイートポテトパイとレモンチェスパイだって、ピンと来た。パーカーの両親はヘルズキッチン地区でベジタリアン向けのソウルフードカフェを経営していて、メニューの中でその二つが私の大好物だって知ってるからね。

彼の両親が私の大好物のパイを届けてくれたってことは、もうあの動画のことは許してくれたってことでしょう。私はパーカーが私に別れ話をしてきた時、それを動画に撮ってSNSに載せちゃったのよ。そしたらすごい勢いで拡散されて、(少なくとも私たち二人の知り合いは全員あの動画を見たし、マンハッタン中の人に広まったんだけど、)当然彼の両親も見たらしくて、その動画をネットにアップした私に怒ってたみたいだから。サムの話によると、その動画のせいで、パーカーは街を歩くのも大変になったみたい。今までパーカーが振ってきた女の子たちが通りで彼を見かけるたびに、あの動画でパーカーが言った台詞を、パーカーに向かって浴びせるんですって。「君がどうこうってわけじゃないんだ。別れるのは俺のせいなんだ...」ってパーカーの真似して言ってから、「ふざけんな!」って鋭い声を上げて、パーカーの頬をひっぱたくらしいの。(ああ、いい気味。サムは何度もその場を見かけたらしくて、サムから目撃談を聞くたびにスカッとするわ。振られた女の子同士、一心同体になった気分!)

それから、パーカーが今夜ここにやって来たってことは、彼も私をもう許したってことでしょう。

私は、今夜パーカーを招待したサムをそんなにすぐに許すつもりはないけどね。サムは私が高校を正式に卒業するまでは、パーカーに会わないことにしてるって知ってて彼を呼んだのよ。綺麗なドレスを着て彼と踊るはずだったプロムパーティーが終わって、彼と南のビーチに行くはずだった卒業旅行のシーズンが終わって、卒業式が終わるまでは、なるべく彼のことを思い出さないように気をつけてたのに、急に彼が目の前に現れたら、台無しじゃない。

「君の両親から僕へのプレゼントはないの?」と、パーカーがせがむように言ってきたから、私は笑いそうになって、噴き出すのをこらえた。私の両親が彼にプレゼントなんてあり得ないわ。だって、私が彼と別れて一番ホッとしたのは、私の両親なんだから。私がどうこうってわけじゃなくて、パーカーのせいで、ずっと不安だったみたいね。

「うちの両親は今ね、〈ホーム・デポ〉に行ってるわ。工具売り場で斧を買うんですって。あなたのその突っ立った髪の毛をスパッと切り落とすのに、ちょうどいいオノをね」

「じゃあ、彼らに伝えてくれるかな。〈ホーム・デポ〉と提携してるクレジットカードを持ってるなら、250ドル以上の買い物をすれば金利はつかないって。そして、何でもくっつけるプラズマ溶接機を買った方がいいって。君のパパって、いつか高価な溶接機を購入して、君のそのやかましい口をくっつけて、開かなくすることをずっと夢見てたんじゃなかったっけ」

私の両親は〈ホーム・デポ〉がどこにあるかも知らないわ。

サムとヨハンが書斎から戻ってきて、サムがパーカーにヨハンを紹介する。

「君のこと、どこかで見たような」と、ヨハンがパーカーに言った。「どこだったかな? CMに出てたりする?」

きっと私がアップしてマンハッタン中に広まった動画のことだと思ったけど、口に出すわけにもいかず、私はなんとかテレパシーでヨハンに伝えようとした。「君がどうこうってわけじゃないんだ。別れたのは俺のせいなんだ...ふざけんな!」でも、ヨハンは私の無言のテレパシーを察知してくれず、すぐにサムが話題を変えてくれた。「イルサ、今夜は携帯の保管場所をどこにするか、もう決めた?」

4回前のディナーパーティーだったかしら、スタンタが一晩中、スタンタは退屈であくびが出ちゃう、とかなんとか、ずっとパーティーの様子をツイッターで実況中継していたの。だからそれから、私たち主催のパーティーでは携帯を触るのを禁止にしたわ。パーティーの質を無限に高めるためよ。今では、お客さんたちは料理の写真を撮ってインスタにアップするのはやめて、じっくり料理を味わって食べてるし、「@スタンウィックがかつて住んでいた屋敷」と、フェイスブックに今いる場所を載せることに必死になるのはやめて、スマホの画面ではなく、窓の外の景色を楽しんでるわ。お互いに目と目を合わせて、お喋りしながらね。

でも、今夜の私は気が変わったの。「今夜は携帯を保管場所に片付けないことにしましょ」パーカーがここにいるってことは、私はパーティーの間中、気の利いた会話でゲストたちを楽しませることができないかもしれないし、自分の部屋に駆け込んで、泣きながら夜を過ごすってことにもなりかねないから。そしたら私がいない間に、パーカーは一晩中あれこれ話し続けるでしょうね。彼がプロムパーティーに連れて行く(がさつな私ではない)素敵な女性についてとか、彼が合格した一流大学や二流大学についてとか。というのも、アイビー・リーグの大学が彼を欲しがらないわけないから。彼はドミニカ人とアフリカ系アメリカ人のハーフで、卒業式では卒業生代表としてスピーチすることになってる。ラクロスのスタープレイヤーでもあるし、社交ダンス大会では優勝したこともあるし(その時のパートナーは私だったんだけどね)、一等地にあるベジタリアン向けのベイキングカフェの跡取り息子でもあるのよ。

今夜、私は女帝になりきっておもてなしをするわ。すべてに気品が漂うように振る舞うの。ただ、なんでサムはパーカーを呼んだりなんかしたのかしら。すっごく裏切られた気分だわ。考えてもみてよ、サムが失恋して傷心しきってるとして、そこにサムの苦しみの原因であるその人を招待するかしら? 心が健全な私だったら、そんな傷口に塩を塗るみたいなこと絶対にしないわ!

「いや、携帯は片付けよう!」とヨハンが言った。「僕は前から携帯のないパーティーってどんな感じだろうって興味があったんだ。そうだ、僕のバイオリンケースにみんなの携帯をしまおうよ」そう言うと彼は、さっき玄関ホールのそばの廊下に置いたバイオリンケースを取りに行った。そして持ってきたバイオリンケースを開けながら、彼は私たちを見上げて、こう言った。「パーティーのお土産って何がいいのかわからなかったから、これに入れて、こんなキラキラしたものを持って来ちゃった」



4

サム


昔々あるところに、マーケティングの天才がいました。この商売上手の天才は、男の子たちが人形で遊んでいないことに気づき、男の子用の人形には何か斬新な名前が必要だと考え、「アクションフィギュア」という名前を編み出したのです。かくして、男の子たちも人形で遊ぶようになり、してやったりのこの天才は、自慢顔で一人ひそかに笑ったに違いありません。

そのアクションフィギュアを開発した天才が、ヨハンのバイオリンケースの中身を見たらどう思うだろうか。きっとその天才は、こういう意図で作ったわけではないはずだ。というのも、そこに入っていたのは、紛れもなくアクションフィギュアだったのだが、背丈も同じサイズ感で、材質も同じプラスチック製なのだろうが、

ただ、それらのアクションフィギュアはすべて、女性シンガーソングライターのドリー・パートンだったのだ。

おそらく胸のなめらかな曲線はバービー人形のものだろう。胸だけではなく、パッケージに包まれたすべての要素が、小柄でありつつも大きくも見え、そして肉感的な女性に仕上がっていた。

色とりどりの派手なコートに身を包んだドリーがいる。いたいけな貧しい少女から億万長者へと成り上がった天才歌手だ。

「I Will Always Love You」と歌い上げるドリーがいる。あの名曲は元々彼女の歌で、―ご存知のように、のちに天使の翼をまとったホイットニーが歌い継ぎ、あの微笑みとともに世界中に広まったのだ。

9時から5時の勤務が終わり、勝ち誇ったようにオフィスの机の上に立つドリーがいる。彼女の下には手足をロープで縛られた上司が縮こまっている。

そして、最後の一体は、アームレスリングをするドリー...対戦相手はあの人だった。

「これはシルヴェスター・スタローンなんだ」とヨハンが説明する。彼の声は木管楽器のようで、心地よく僕の耳に響いた。「映画『クラブ・ラインストーン』の時のスタローンだよ」

クラブ・ラインストーン。


ここまでは、taaさんが校正してくれました。


今までtaaさんにお金を払ってお願いしていたのですが、ぼくのお金が続かなくなってしまいました...涙←いくら払ってたの?←1回500円。←安っ!安すぎでしょ!!

それでも払えなくなってしまったので、

無料で校正してくれる人を募集します!

narumicolor@gmail.com

こちらのメールアドレスまでメールをください。

英語はできなくても大丈夫です。

女性言葉の語尾を「~だわ」に変えたりとか、そういう感じです。←でも報酬なしでしょ?笑


ここからは、藍の初訳です。


僕は啞然としたまま、言葉が出てこない。かろうじて、「君はハリウッドを作ったのかい? バイオリンケースの中に」と言えた。

「当然これがバイオリンケースだという考えにはぼくも賛成だよ。でも、そうだね。君がくれた招待状に、キラキラに着飾ってきてって書いてあったから、こういうことかと思って」

パーカーが僕を見て、目を丸くした。彼がよくやる驚いた時の合図だ。「マジかよ。白人っていうのは暇なとき、こんなことしてるのかよ」みたいな目をしている。でも、その表情から、パーカーが喜んでいるのがわかった。〈地下鉄の彼〉が、会ってすぐにがっかりってパターンじゃなかったから彼も嬉しいのだ。地下鉄で一目惚れした相手なんていうのは、たいていディナーに呼んだはいいけど、すぐに幻滅してそれっきりになってしまうものだから。イルサはなんだか悩まし気な表情をしていた。たぶんパーカーがすぐ近くにいるっていうのに、彼を突き落としてここから追い出すための「落とし戸」が床にないからだろう。あるいは、初対面の人にいきなりキラキラ度数の高い代物を出されて面食らっているのか。ポーカーでたとえると、最初から高い賭け金を目の前に置かれたみたいで、彼女はいったいいくらコインを積めばいいのか迷っているのかもしれない。

「さっき言ってたビールを取って来るね」と言って、イルサはキッチンへ行ってしまった。ちょうどヨハンが彼女の方を見て、「ドリー...」と言い出すタイミングだった。彼女がいなくなったあと、ヨハンはこう続けた。「ドリーにかぶせたかつらの髪の毛は、ユニコーンの涙から紡がれたんだ」と。

「俺もちょっと行って見てくるよ。彼女1人じゃ運べないかもしれないし」そう言って、パーカーも彼女の後を追った。

ヨハンがバイオリンケースを閉めようとするそぶりを見せたから、僕はありったけの思いをぶつけるように、大声で叫んだ。「だめ!閉めちゃだめ!」躁鬱病の興奮状態が爆発したみたいな無様な絶叫をしたのち、僕はさらに症状を悪化させたみたいに、ふらふらとピアノのところまで行くと...片腕を伸ばして、ピアノに載っていたすべての楽譜を払いのけた。バイオリンケースを置く場所を作るつもりだったのだが、なんだか映画『アマデウス』で晩年のモーツァルトが作曲部屋でやっていたのと同じ有り様になってしまった。結果として、「ゴルドベルク変奏曲」の楽譜が吹き飛び、はらはらと宙に舞い、ドビュッシーの楽譜が長椅子の下にひらりと滑り込み、ニコ・ミューリーの楽譜は重力に抗うように、ゆらゆらと女帝のお気に入りのライムグリーンのソファを目指した。

ヨハンは内心そんな僕の行動に驚いたのかもしれないが、彼は動揺の色を見せずに、ドリーのクローン人形を絶好のお立ち台に並べると、栄誉ある場所を授かったドリーの気持ちを代弁するかのように、軽くピアノを弾き始めた。ドリー・パートンが男性歌手とデュエットで歌い、ヒットした曲だった。その調べに僕は、頭の中で歌詞を乗せる。

Islands in the stream.(嵐の中の島々)

That is what we are. (なんだか私たちみたいね)

イルサがこの部屋にいれば、ピアノが奏でるメロディーに寄り添うように、声に出して歌っていただろう。

僕は―

僕は―

僕は彼から目をそらす。僕の人生に新しい人が入って来た。それはきっと新たな始まりをもたらしてくれる。そうはわかっていても、僕は僕のままなのだ。結局は彼も、いつかそのことに気づいてしまう。

「何か飲みたいんだっけ?」と僕は聞いてみる。

彼が僕の方を見る。僕が冗談でも言ったと思ったような目だ。それから彼は僕が冗談など言っていないことに気づいたようだった。

そうなのだ。僕が彼について知っていることといえば、彼がビールを飲みたがっているということくらいなのだ。

「もうすぐ飲めるよ」と僕は言って、視線を落とす。床に散らばったベートーベンの楽譜を拾い、くるくると巻き上げる。彼に謝りたい気持ちになった。

「さっきの君の演奏、すごく良かったよ」とヨハンが言った。

「僕が演奏してるとき、君が僕の真後ろに立ってる感じがすごく良かった」と、僕は言えない。「君にいい演奏を聴かせるという目的をしばし忘れて、僕は自分の演奏に陶酔しきってしまったよ」と言いたかった。

すごくシンプルなことだったんだ。彼がピアノを見ながら、弾いているのは誰って聞いたんだ。

「僕だよ」って、ただそう言えば良かった。

僕がやるべきことは、ピアノの前に座って、曲が自然と歌い出すのを待つことだけだった。

いや、そうじゃない。僕の指で強引に歌わせるべきなんだ。

「もうあきらめたんだ」気づくと、僕は声に出してそう言っていた。

この発言には僕のいろんな思いがつまっていた。大半は自分自身に対して言ったのだが、言葉の背後には、彼に向けて発した意味もあった。僕がどういう人間で、彼にそういう気持ちを抱いても仕方ないって、彼にそれとなく伝えようとしていた。

「いつ?」と彼が聞いてきた。

「数年前に」と僕は答える。実際はほんの7ヶ月前のことだったけれど、僕は自らピアノ教室をやめ、人前ではもう決して演奏しないと誓った。―あんな風に公の場で弾くことはもうないだろう。あんなに強烈なプレッシャーを感じながら弾くことは、―もう二度と。

「でも、きっと君はすべてをあきらめたわけではないんだね?」彼が床から楽譜を何枚か拾い上げながら言う。

「妙な話なんだけど、僕はあきらめたはずだったんだ。ただ、音楽の方が僕を手放してくれないんだよ」

「音楽からは、逃げられないってことだね?」

彼の言い方から、彼も何度か似たような経験をしたことがあるんだと思った。

僕はうなずく。もうステージでは弾いていない。だけど、音楽は僕の一番奥の大事な部分に、まだしっかりと根付いている。

彼が僕を見ている。聴衆のような好奇心に満ちた眼差しで見つめている。彼にとって、僕も〈地下鉄の彼〉だったのだろう。でもそれは過去のことで、今は違う。

今の僕は、まだ彼にとって何者でもない。

僕たちは、まだ不確定な存在なのだ。

玄関のベルが鳴り響き、新たなゲストの到着を告げる。僕は一瞬動きを止め、キッチンから人が出てくる気配がないか耳をそばだてる。何の動きもないようなので、僕はヨハンにちょっと失礼と言ってから、玄関に向かった。

彼を1人残して行くのは申し訳ない気がした。そんな馬鹿げた感情を抱くなんて、時期尚早すぎるのはわかっていたけれど、どうしようもない後ろめたさがあった。

玄関に着いてドアを開けると、立っていたのはイルサの友人のリーだった。彼女は気配り上手で、いつもセンスの良い服装をしている。

しかし今夜の彼女は、ふしだらなフランス人のメイドが着るような服としか呼びようのない格好をしていた。つまり僕が言いたいのは、ハロウィーンのコスチュームでよくあるフランス風のメイド服なんだけど、ただ、露出部分がかなり多めってこと。

彼女は僕の服装をチラッと見てから、僕の顔を見遣って、「コスチュームパーティーじゃないんですか?」と言った。

僕は首を振る。

「私ったら、どうしてコスチュームパーティーだと思ったのかしら?」と彼女が聞いてくる。

僕に聞かれても答えようがない。

「私はジャクソン・ハイツに住んでるの」

彼女が言いたいのは、ここからは遠すぎて着替えに帰ることはできないってこと。つまり、彼女は今夜ずっとこの格好でいることになる。

「それに私、あなたの妹の服は着られないわ」

彼女が言いたいのは、イルサの服は入らないってこと。つまり、彼女は今夜ずっとこの格好でいることになる。

「まあ、キラキラしてていいんじゃない」と僕は言ってみる。「昔のリベラーチェのパーティーでも、君と全く同じものを着ていた人が、毎回少なくとも3人はいたはずだよ」

彼女が気恥ずかしさを内面でなんとか肯定して折り合いをつけているのがわかった。僕にはそういうことができないから、うらやましい。

彼女が紙袋を持ち上げて見せた。「あなたの妹が大好きなチョコレートを持ってきたの」

僕は腕を後ろに向けて、言う。「彼女はキッチンにいるから、持って行ってあげて。きっと喜ぶよ」

リーは後ろに手をやると、もう一つ別の紙袋を取り出した。

「これはみんなに持ってきたの」

なんて気の利くゲストなんだ。

彼女が履いているパンプスは、いつもより少しヒールが高いように感じた。だからなのか、二つの紙袋を手に持った彼女は、玄関ホールから歩き出し、キッチンへ向かって方向転換するとき、若干ふらついたようだった。僕は彼女の背後でアパートメントのドアを閉める。

「パーカーもいるんだよ」と僕は彼女に言う。僕の発言を裏付けように、キッチンからグラスがパリンと割れる音がして、僕の妹が何やら罵声を飛ばしている。はっきりと聞こえたのは、「くそやろう」という汚い言葉だった。

「ちょっと今は、キッチンに行かないことにするわ」とリーが言った。「このチョコレートはすごく高級なのよ。誰かさんの顔に投げつけられたら、もったいないから」

「じゃあ、こちらへ」と僕は彼女を促す。

ピアノのある部屋に戻ると、楽譜はすべて、ピアノの上のヨハンのバイオリンケースの横に整然と積み上げられていて、グッゲンハイム美術館の上にそびえ立つオフィスタワーのようだった。

「ヨハン、こちらはリー。リー、こちらはヨハン」と僕は言う。

リーが彼の手を握りながら、尋ねる。「あなたたちはどうやって知り合ったの?」

「公共交通機関で」とヨハンは答えたが、それ以上の説明はしなかった。

キッチンからの騒音が、音楽業界では「咆哮」と呼ばれるレベルの音量まで達した。それを合図だと受け取ったのか、それに呼応するように玄関のベルが鳴った。

イルサが呼び鈴を口実にして、キッチンから出てくるだろうと思った。

しかし彼女は出てこなかった。

「ちょっと行ってくるよ」と僕は言う。リーかヨハンのどちらかが、代わりに行くと名乗り出てくれないかと思いながら。

どうせジェイソンだろうと思いながら僕は玄関まで行き、ドアを開けると、ジェイソンとは似ても似つかない、見知らぬ男が立っていた。熱さのスケールでいうと、ジェイソンは爆竹花火かもしれないが...この男は太陽だった。彼は服を着ていたが、まるで彼が裸みたいに、僕の体がゾクゾクと反応した。僕の視線は彼の力強い肩に向かい、そこからさらに上昇し、彼の顔に焦点を合わせる。

「ハロー」と僕は言ったつもりだった。でも、なんだか尻すぼみの声しか出てこなくて、語尾が伸びずに、「ヘル(地獄)」のようになってしまった。

彼の手を見ると、パーティーの招待状が握られていた。ということは、イルサが呼んだゲストの一人ということになる。

それから、彼のもう片方の手に僕の目は引き寄せられた。

なぜなら―

片手に靴下をはめていたから。

二つのボタンが緑色の目のように付いた白くて長いチューブソックスだった。

そして赤い糸で縫われた口があり、

茶色の毛糸で編まれた髪の毛も付いていた。

「ここで合ってるといいんだけど」と、その靴下がパクパクと口を動かして喋った。

その声は僕の心がざわつくほど、魅力的だった。英語は第二言語のようだったが...そんなことはどうでもよくなるくらい、〈セクシーな野獣〉のような声だった。

「なんて言った?」と僕は聞き返す。靴下のパペットを相手にするときは、十中八九、こう切り返すのが唯一の正解なのだ。

「イルサのパーティー会場で合ってます?」と靴下は続ける。僕は神々しい男の顔を見上げてみるが、彼の唇は動いていない。

そうです。イルサのパーティー会場ですよ」と僕は答える。僕が話しかけているのは、目の前の〈手〉ではない。僕はその向こう側から僕を見つめている熱い男に話しかけているのだ。彼の視線が熱すぎて、〈手〉と話しているとは到底思えない。「僕は彼女の兄で、サムっていいます」

「初めまして」と靴下が言って、握手を促すように小さな手を差し出してきた。靴下の中の彼の小指に違いない。

僕はその男を見つめて、「本気でやってるわけじゃないでしょ?」と目で訴えかけた。

彼は僕を見返してきて、「俺の選んだ生き方だよ。尊重してくれ」と目で答える。

僕は靴下越しに彼の小指と握手する。

「ボクはカスピ海のほとりからやって来たカスピアンっていうんだ」と靴下は言う。「彼はフレデリックっていって、バスケットボールをしていたとき、イルサと出会ったんだ。彼がバスケットコートにいるときは、ボクはどうしても彼のすぐそばにいられないから、ボクは彼女に会う機会を逃してしまった。でも、今こうして君に出会えて、ハッピーだよ」

「どうぞ」と僕は言う。「入って」

イルサの〈ワイルドカード〉は、ちょっとワイルドすぎだなと思った。これはきっと、イルサが想像していた以上にワイルドだな。

あるいは彼女は僕をからかってるのか。

まったくイルサってやつは。

彼に会ったら僕がどうなるか。

彼女はちゃんと把握してるんだ。

「なんて素敵な家なんだ」と、カスピアンがボタン製の目で辺りを見回しながら言った。

「どうもありがとう」と僕は言う。

イルサは僕をおちょくるために彼を呼んだのか?

答えはイエスであると同時に、ノーでもある。

つまり、これを一つの芸事と見ると、彼の腹話術の腕前は、おふざけレベルを超えているのだ。

「実はボクは、君がイルサのお兄さんだって前から知っていたんだ。君のことを彼女から色々聞いていたからね。すごく素敵なお兄さんだって」

いやいやいや、やめてくれ。もう十分だよ。

「彼女のさしがねだろ?」と僕はフレデリックを問い詰める。「イルサに言われて、こんなことしてるんだろ? それで、僕の反応をインターネットにアップして、みんなに晒すってやつだろ? カメラはどこだ?」

フレデリックが僕の顔を見据えて、にっこり甘く微笑んだ。

誰のさしがねでもないさ。これは俺が選んだ生き方なんだ。尊重してほしい。

「君って、彼女が言ってたよりもずっと可愛いね」とカスピアンが僕に言った。

まさにワイルド、カード。

僕は彼らを―というか彼を―どこへ連れて行けばいいのかわからなくなる。まっすぐキッチンへ? それとも一旦ピアノのある部屋へ?

「いったい全体、何なの?」と、抑揚のついた声が聞こえてきた。

6つの目が―そのうちの2つはボタン製だったが―いっせいに開けっ放しの玄関に向く。

「私はまだここに来て6秒だけど、もう退屈してるんですけど」と、KKがぶつくさ言い出した。

にわかには信じがたかったが、彼女もまた、フランス風のメイド服を着ていた。



5

イルサ


 「くそやろう!」と、私はパーカーに向かって金切り声を上げた。私が彼から今までに聞いた中で、最もいやらしくてばかばかしい、完全にあり得ない要求を彼がしてきたから、私は冷凍庫から冷えたビールグラスを取り出して、ツンと突っ立った彼のアフロヘアを狙って、テニスのサーブをするみたいに、グラスを投げ込んだ。彼が素早く頭を引っ込めて、かわす。何度も見たことがある光景だった。くるくると弧を描いたグラスが彼の背後のタイル張りの壁に当たって、パリンと砕け散る。パーカーと私がこのような喧嘩をするのは、すごく久しぶりだった。前は喧嘩の後に、割れたグラスを新品と買い替えていたんだけど、これと同じグラスがどこで売っていたのか、久しぶりすぎて思い出せない。願わくは、女帝が冷凍庫の中のドイツビールのグラスが3本に減っていることに気づかなければいいな。そして願わくは、前みたいに、私が興奮してパーカーのあそこに飛びつきたくならないといいけど。こういう風に何かを壊すと、体が熱くなっちゃって、すぐにしたくなっちゃうのよね。

「落ち着けよ。あぶねえな、まったく」と、パーカーが私に向かって言ってくる。でも彼は全然動じていない様子だったので、それがさらに私の神経を逆なでする。彼は食料貯蔵室まで歩いて行き、ほうきとちり取りを引っ張り出してきて、割れたグラスの破片をほうきで掃き出した。ああ、私が割ったグラスを彼が片付けているこの懐かしい感じ、やっぱり好きだわ。「それでお前はしたいの? したくないの?」

「したいわけないでしょ!」と私は宣言する。私のプライドがそう言わせたのよ。

でも内心はすごくしたかった。体が文字通り、うずくように欲していた。

「さあ、おいで。イルサ」と、彼が彼の中で最上級に甘い声をしぼり出して言った。彼は私がもう我慢できないほどしたいことを知っている。もし私が今、ボタンの付いたブラウスを着ていたら、パーカーのこの甘く私を丸め込むような誘い文句を聞いただけで、私の胸のところのボタンが弾け飛んでいたことでしょう。私の胸を急激に膨張させるくらい、彼の殺し文句は威力があるのよ。特に付き合っていた頃は強烈だったわ。「ほら、もう一度、あの頃を思い出してさ」

「どんな感じか忘れちゃったわ」と私は噓をつく。私はずいぶん長い間、あの感じを味わっていない。そうね、パーカーと私が別れてからご無沙汰って感じね。

パーカーと別れた後も、他の男子と付き合ったことは付き合ったし、KKとも一回だけしてみたことがあるけど、でも何か違うのよね。パーカーが私にしてくれたみたいには、誰もできなかったわ。まあ、KKとの時は、「イエーガー」っていうお酒をいっぱい飲んだら、体がほてってきちゃって、ああなっちゃったわけだけど。

パーカーは割れたグラスをゴミ箱に捨てると、私の後ろの張り付くように立った。そして、私のお尻に彼の硬くなった部分を軽く押し当てて、腰を回転させてきた。「もちろんお前は覚えてるさ」と彼が私の耳元でささやく。彼の吐息が導火線のように首筋をつたって、私の体中をゾクゾクさせる。彼が腕を私の腰に回し、すごく大胆に腰を動かす。私はもう抵抗できない。私は、私の腰から一瞬離れた彼の手を引き戻すように握り締めて、私の腰にあてがう。ああ、この感じ、こんなに簡単に戻って来るものなのね。二人の欲望が親密に重なり合う、心地良いリズム。私はこれが正しいことだと信じたい。実際にしてしまいたくて、たまらなくなる。

でも私は断念して、正しいことだと思うのをやめる。過去の想いが蘇る。私がどれだけ彼を愛していたかを思い出す。そして、彼がどれだけ私を愛していると私が思っていたかを思い出す。

私は彼から体を引き離し、振り向いて言った。「どうして今なの?」

「楽しいかなと思って」と彼は言う。彼の懇願するような声が一層トーンを高め、その頂上から性的魅力が自然と溢れ出てくるようだった。

「他にこういうことをする女の子はいないの?」

「お前みたいに俺を揺さぶる子はいないよ。わかってるくせに」

その通りね、私はわかってるわ。

その瞬間、パッとアイデアがひらめいた!ジャジャジャジャーン!と、私の天才さを告げる音も鳴り響く!私の発想力に自分でも舌を巻きそうになるけれど、私は平静を装って言った。「猫ちゃんたちを連れてくるわ。そうすれば、―」

「嫌だよ」と彼が遮ってくる。「猫は嫌だ。あいつらが登場すると、俺はいっつもドン引きっていうか、萎えるんだよ」

まあ、彼の言いたいことはわかる。

それでも私は言う。「猫ちゃんたちを連れてくるか、そうでなければ、イルサちゃんも、なしね」

彼は深く息を吸ってから、大きく吐きながら言う。「わかったよ。猫でいいよ」

「そうね、考えてみるわ」

と言いつつも、私の頭にはすでにパーカーの度肝を抜くような斬新な技の数々がはっきりと浮かんでいた。私たちが別れてからというもの、私はバレエ教室に通い出したり、リラックス・ヨガの教室に行ってみたり(あれは結局、ほとんどの時間がお昼寝タイムになっちゃったけど、まあ、忙しい日々の中で唯一の安らげる時間になったから、よしとするわ)、それからポールダンスにまで手を出したのよ。そういう努力が実を結んで、私は軟体を駆使した技のレパートリーを身につけたってわけ。パーカーの反応が見ものだわ。パートナーがそんなことをやってくるとは、彼は夢にも思わないでしょうから。だって、彼の潜在意識のレベルでさえ、そんなことが可能だなんて知るよしもないでしょうから、夢にも出てくるはずがないのよ。

「考えなくていいから、早く着替えて来いよ」とパーカーがけしかけてくる。彼は重々承知なのだ。私のショードレスは女帝のドレスルームにしまってあって、一旦着替えを済ませれば、後はもう考えることがなくなって、私がすっかり彼に夢中になるってことを。

私は着替えに行くつもりだけど、そんなに急いで行って数分で着替えを済ませたりはしない。じらせるだけじらして、パーカーが身をよじるほど、うんと期待を抱かせたい。その間に、あれがどんな感じだったかを思い出してほしいの。そんなにすぐには満足させてあげないわ。できるだけ長い時間、彼を待たせて、不安にさせるの。彼は欲望が切実なまでに求めていることを、達成できないかもしれないって焦るわ。そして焦れば焦るほど、彼は切迫して燃え上がるのよ。それが彼と付き合っていた頃からの、彼とのダンス前のルーティンで、その甲斐あって、彼との社交ダンスは輝かしい結果を残せたのよ。

私は自分が着ている、小さな銀のスパンコールがキラキラと光るフラッパードレスを見下ろす。1時間前はあんなにキュートに見えたのに、なんだかみすぼらしく思える。ディナーパーティの招待状に「キラキラに着飾ってきて」って書いた主催者の私自身が、その指示に従ってなかったなんて、自分でもあきれちゃう。この退屈な衣装はなんなの? こんなんじゃ、サムに私のコーディネートを頼んだみたいじゃない。私はいったい何を考えていたのかしら? 「単調な日常はひとまず忘れましょう」とか書いておきながら、私自身がこんな単調なドレスを着ていたなんて。やっぱり私にはパーカーが必要ってことね。今夜彼が来てくれなかったら、こんなつまらないドレスを着たままだったわ。私は衣装ケースの鍵を外して、猫たちを解放する。パーカーと私が別れて以来、ずっと女帝のクローゼットの奥に身を隠していた〈猫ちゃんドレス〉よ!今夜こそ着るべき時ね。キラキラが弾けるわ。さあ、着替えに行くのよ、イルサ!隠居生活を送っていた猫ちゃんたちが、ミャオーと興奮した声を発しながら出番を待ってるわ。

女帝は裁縫もすっごく上手で、ファッションで有名なガーメント地区の生地屋さんで私が買ってきた安い生地を使って、私のために信じられないほど素敵なAラインのカクテルドレスを仕立て上げてくれたの。オフホワイトの生地に〈アクセッサ・キャット〉と呼ばれる模様が施してあって、パステルカラーの猫ちゃんが何十匹も描かれているのよ。それぞれの猫ちゃんは思い思いのアクセサリーを身につけていてね、グレーと茶色のストライプのトラ猫は、輝く水色のメガネをかけているし、オレンジのマーブルキャットは、おしゃれな紫のスカーフを首に巻いているわ。それから黒猫はエメラルドグリーンのカウボーイハットをかぶっている。「もしもグレース・ケリー王妃が、自宅のお城に何十匹もの猫を飼っていたら」って、女帝がこの素晴らしく、凄みのあるドレスに命名してくれたわ。

これは私のお気に入りのダンス衣装でもあって、パーカーと私が社交ダンスの大会に出る時に、よく着ていたんだけど、彼が「毎回その衣装を見ていたら、猫アレルギーになっちゃったよ」って言い出して、私がこれを着るのを禁止されちゃったの。でも、今夜は夜が更けてから、このロウアー・イースト・サイドで彼と秘密のダンス対決をするのよ。引退した〈猫ちゃんドレス〉をもう一度スポットライトのもとに引っ張り出してきてほしいってパーカーが要求してきたってことは、それだけ勇敢な男だってことで、きっと前みたいに、彼は上手に猫ちゃんと私を手なずけることができるわ。

でも、もし彼の要求に私が上手く応えられなかったらどうしよう。以前の私と何の代わり映えもしないお決まりのイルサの反応って感じだったらまずいわ。私は成長しなくちゃいけないのよ。女帝もそう言ってたわ。(女帝も私自身も本当に成長できるのか半信半疑だったけれど、)今ようやく、その兆しが見えたわ。私は自分の殻を破って、今夜飛び立てる気がする。このダウンタウンで行われる真夜中の彼とのダンス対決は、きっと一晩限りの最後のスピンになるわ。決して真実の愛にはならないでしょうけど。

そうね。

今の段階では、まだ私には無理ね。パーカーに知らせなくちゃ。食欲が満たされてからでないと、あなたに夢中になれないわって。

パーカーがキッチンの調理台に手を伸ばし、さっきサムがレモンタルトに粉砂糖を振りかけるのに使っていたステンレス製のシェーカーを手に取る。彼はそれを私の頭の上で軽く振って、粉砂糖をほんの少し私の髪の毛に振りかけた。「今すぐ変身してくれ」と、パーカーが要求してくる。「そうすれば、お前は俺に夢中だ。頼むから、な、いいだろ?」

彼は私の頭にもうひと振り、粉砂糖を振りかけた。そのおこぼれが私のまぶたと鼻の上に落ちてくる。彼は人差し指を私の鼻に押し付けるようにして、鼻にかかった砂糖を振り払った。そして、その指を私の唇にくっつけた。私がどれほど飢えているかを、彼は重々承知なのだ。

私はパーカーの指についた砂糖をなめる。―美味しい!(砂糖も、それから彼の指も)―私はうっとりした表情を見せておいて、そのすきをついて、彼のもう片方の手からシェーカーを奪い取る。私はすかさず彼の頭に大量の粉砂糖を振りかけた。パーカーが必死でシェーカーを取り戻そうと、体をからめてくる。私たちがゲラゲラと笑いながら、シェーカーの支配権をめぐって争っていると、「私が来てあげたわよ」と、KKが自分で到着を宣言しながら、キッチンに入ってきた。

「いつまで食べ物でふざけ合ってるのよ!」と、KKが怒鳴った。「みんなビールが来るのを待ってるのよ!男にかまけてないで、ちゃんと主催者の務めを果たしなさい!」パーカーから体を離して、KKを見ると、彼女が着ているフランス風のメイド服に目が行って、じっと見入ってしまう。露出度をギリギリまで高めた感じではなく、そこまでふしだらな印象はない。普通にハロウィーンで昔から見かけるメイド服だった。昔といっても、リベラーチェのパーティーの写真に写っているような感じのメイド服ではない。

KKが私を指差して言う。「リビングルームに私と同じ服を着た、ずんぐりした女の子がいるのよ。どうにかしてちょうだい」彼女はパーカーと私の間に割って入ってきて、ぞんざいにひじで彼をつついた。「また、あんたか。おえっ」それから彼女は冷蔵庫の前まで行くと、中からライトビールを取り出し、ポンと栓を開け、ぐいと一口飲んでから、聞いた。「ねえ、なんか燃えてない?」

あたかもサムが隣の部屋で会話を聞いていたみたいに、すぐにキッチンに飛び込んできて、オーブンを開けた。「しまった!チーズが破裂して、こぼれたチーズがオーブンの底で焼け焦げてる」

「それってラザニア?」とKKが彼に聞く。

「そうだよ」と言いながら、サムがオーブンからトレイを引き出す。

「ってことは、あなた私がグルテンフリーで、乳製品も食べないってこと忘れてたわね」とKKが言う。

「忘れてなんかいないよ」とサムが言って、私の方を見た。「助けてくれ!」と、彼が切実な表情で頼んでくる。

彼の意図が私には瞬時にわかる。全員をキッチンから追い出してほしいのだ。ディナーパーティーを開くと、不思議とみんなキッチンに集まるという風習があるわけだけど、サムとしては、すべての準備が整うまでは誰もキッチンに入れたくないってわけ。彼の調理の邪魔にもなるし、彼が料理のことでコメントを受け付けてもいいと思えるまでは、途中段階の料理について、あれこれ言われたくないのよ。「これじゃあ、ディナーパーティーじゃなくて、キッチンパーティーだよな」と、よく彼は嘆いていた。

「みんな、リビングルームに行ってちょうだい!」と、オーブンの底で焦げたチーズのかすかな香りが漂う中で、私は声を張り上げる。

「靴下の人形がやって来たよ」と、サムが私に告げた。

「は?」私はそんなワイルドカードを呼んだ覚えはない。サムの元カレのジェイソン・ゴールドスタイン・チャンが到着したってことでしょ。ジェイソンはいつも袖の中とかに、何かしらおかしな手品を用意してくるから。―今回は靴下ってことね。

「見に行ってこいよ」とサムが言う。 彼が冷蔵庫からビールを何本か抜き取った。―冷蔵庫の中のアルコールに手をつけることはキッチン担当の彼の責任になるから、彼は苦渋の表情を浮かべている。ストレスを感じ始めている証拠だ。―彼はそのビールを私に手渡す。「早くみんなのところに行って、お客さんをもてなすんだよ、イルサ。全員をだぞ」

私はパーカーとKKを引き連れてキッチンを後にする。キッチンを出たところで、どこかから、げっぷと嘔吐の中間みたいな変な音が聞こえてきた。私はパーカーを見て、次にKKを見て、それから振り返ってサムを見た。けれど、誰も吐き気を催してる様子はない。ゴポゴポという音が段々と大きくなり、みんなが周りを見回して、音の出所を探ろうとする。そして、出所が自ら名乗り出るように、激しい音がした。

キッチンの流し台から、排水溝に溜まった汚物が小さな火山のように、噴き出した。

私はシェフではない。でも、もしシンクの排水溝が詰まって水が流れなくなったら、これ以上の調理は、不可能ではないとしても、難しくはなるだろう、と全く料理をしない私でもわかった。

「ちくしょう!」とサムが叫ぶ。

KKは「ハレルヤ!」と喜びの声を上げた。「あんたたちのパパってシェフなんでしょ。パパに電話して、台無しにしちゃったその料理の代わりに、何か適当に見繕って持って来てもらってよ。グルテン抜きの料理にしてって、ちゃんと言ってね。グルテンをばくばく食べて、まるまる太るような野蛮人にはなりたくないわ!」

サムが答える。「ごめんよ、KK。うちの両親は今週末、ノースダコタ州のウィートランドで毎年開催されてる〈グルテンをこよなく愛する炭水化物フェス〉に行ってるんだ。〈スバーロ・ピザ〉と〈パパ・ジョンズ・ピザ〉が今年の目玉で、朝食の定番シリアル〈キャプテンクランチ〉が、オープニングアクトで登場することになってる!」

KKが両手で耳を塞いだ。「やめて!両親がそんなグルテンまみれのフェスに行ってるだなんて、あんたの嘘を聞いてるだけで、太りそうだわ」KKは、私たちに両親が実在するとは思っていないみたいなんだけど、実際両親はいるわ。このスタンウィック邸にはめったに顔を出さないんだけどね。たぶん彼らがここを相続できないと知って、ここに来るとつらくなるんだと思うわ。それから、両親はKKが私の友達の中で一番好きじゃないって言うんだけど、それは褒め言葉として受け取っておくわ。いずれにしても、私の両親がKKとまったり時間を過ごすなんて、そんな機会は今後も訪れないでしょうね。

サムはポンとビール瓶を開けると、そのままぐびぐびとビールを喉の奥に流し込んだ。彼はパーティーではお酒を飲まない人なのに。「ストレスがたまる」とこぼして、彼がため息をつく。

私も一緒にため息をつく。そうすれば、彼のストレスが半減させるから。でもこれは喜ばしいことでもあった。

彼のこの行動は悪い兆候だ。

でも同時に、何か素晴らしいことが起こる予感もあった。

ついに私の兄も、自分自身の殻を破って、飛び立とうとしているのかもしれない。



~~~


〈登場人物〉

イルサ:大学生(大学名は言いたくないらしい)。精神分析の天才。

サム:イルサの双子の兄。天才ピアニストで天才シェフ。ジュリアード音楽院に落ち、一旦はバークリー音楽大学に入学するものの、翌年にはニューヨークに戻ってきて、今はニューヨーク市立大学の〈フィオレロ・ラガーディア音楽美術演劇学院〉に通っている。

☆どうやらぼくは誤訳をしていたようで...苦笑

「翌年にニューヨークに戻ってきた」のではなく、バークリー(ボストン)に行くのをやめて、ニューヨーク市立大学の音楽コースに行くことに決めたってことでしたm(__)m


〔イルサが招待した3人〕

カービー・キングスリー(KK):イルサの親友。お金持ちのお嬢様でパーティー好き。

リー・チャン:高校の化学の授業で実験をする時のイルサのパートナー。台湾出身。ボードゲームと会話の達人。

フレデリック・ポダランスキー(フレディ):ポーランドからの留学生。イルサがフレディをサムの恋人にしようと画策している。


〔サムが招待した3人〕

パーカー:イルサの元カレ。女帝が留守中に女帝の寝室でイチャイチャしたことがある。ただ現在は、イルサは彼を〈出禁リスト〉に入れている。

ジェイソン:サムの元カレ。ボストンにあるタフツ大学に通っている。

〈地下鉄の彼〉:サムが地下鉄で一目惚れした男子。


ルドルフ(ルディ):鳥に似ている。サムと二回デートしたことがある。

#(ハッシュタグ)スタンタ:なんでもツイートする。サムと一回だけデートしたことがある。


~~~



6

サム


深く息を吸って。

僕は深呼吸しなくちゃ。

ゆっくり。

息を。

吐き出すんだ。

問題は水だけだ。水なんか必要ない。干ばつで水不足に陥ったロサンゼルスにいると思えばいいだけだ。

料理はもうすべて出来ている。冷蔵庫の中に、それから食器棚にもボトルに入った水があるし、使った食器はすぐに洗う必要はない。

すべては。

ちゃんと。

コントロール。

可能なのだ。

ただ。

僕の気持ち。

それだけが。

どうしても。

コントロール。

できない。

僕はもう一口ビールを飲む。ビールが喉を通り過ぎる瞬間、苦さに顔をしかめてしまう。僕がビールを飲んでいる理由、それはビールが好きじゃないからだ。これは罰としての麦芽なんだ。こういう時だけ飲んでいれば、余計に欲しくなったりしないだろう。

ロビーにいるバートに助けを求めて電話してみるが、彼はドアマンだから持ち場を離れることができない。バートが「只今、ジェイソンさんがそちらに向かってエレベーターに乗られました」と言ってくる。バートはいつからジェイソンの名前を知っていたのだろう。ジェイソンと僕が付き合っていたとき、ジェイソンがしょっちゅうここを訪れていた頃から、バートは彼の名前を知っていたのだろうか。あるいは、久しぶりすぎて、バートがジェイソンに名前を聞いたのかもしれない。

流し台は陥没して使い物にならなくなってしまった。僕の心にもはっきりと穴が開いて、絶望がドバドバと流れ出てくるようだ。でもまだラザニアはなんとかなりそうだ。僕は気を落ち着けながら、他の料理もテーブルに並べる。ジェイソンの足音が廊下から聞こえてきて、その慣れ親しんだステップに完璧に歩調を合わせながら、僕は玄関へと向かう。そしてまさに彼がベルに指を重ねようとした瞬間、ドアを開けた。

彼が目を丸くして飛び跳ねる。「びびったな~、もう」と彼が言う。

彼が「もうお前の顔なんか見たくない」と小声で言った気がして、僕はなんと答えればいいのかわからなくなる。

彼が僕を不思議そうに見つめている。「何を思い出してるのか知らないけど、俺はもう大丈夫だよ」と彼が言った。

僕の心は突然凍り付いたように固まってしまった。「こんなこと考えちゃだめだ」という言葉が、振り払っても振り払ってもとめどなく頭に溢れてきて、僕の心に真っ白なスペースがなくなるまで、埋め尽くす。

ジェイソンの顔を見ると、いつも思い出してしまう。たとえそれが、どちらかといえば正しい選択だったとしても、僕は彼にひどいことをしてしまったのだ。

「ごめん」と僕は言う。

「だから、もう大丈夫だって」と言って、彼が買い物袋を差し出してくる。「何を持ってきたらいいかわからなくてさ、それに食べ物はお前がすべて準備してると思ったから、俺は泡を持ってきたんだ」

一瞬、シャンパンのことを言っているのかと思ったけれど、買い物袋の中を見ると、シャボン玉を吹く液体の入ったペットボトルが10本ほど入っていた。

「みんな泡が大好きだからな、だろ?」と彼が言う。

僕の心に、セントラルパークの光景が広がる。息を吹くと、空中にいくつもの泡が舞い飛ぶ。彼が笑う。近くで敷物に座っていた一人の子供が、文庫本サイズまで大きく膨れ上がった一つの泡を追いかけて走り出す。セントラルパークの広大な芝生の上では、オーケストラが演奏している。

僕はハッピーだ。

僕はハッピーになろうと努める。

僕はこんなにハッピーなんだよと示そうとするが、自分でもどこか無理をしている感が否めない。

僕はハッピーなんだって彼に思ってほしい。

でも彼がどう思っているのかはわからない。

この記憶のどのバージョンが本当のことなのか、僕には判断がつかない。唯一確信を持って言えることは、シャボン玉を追いかけていた小さな子供は、疑いようもなくハッピーだったということだけだ。

おそらく実際は、シャボン玉は文庫本よりも小さかったのだろうけど。

そうだ、あの時...

「サム?」

まずい。悪い癖が。

僕はにっこりと微笑む。スマイルですべての考えを隠してしまえ。「ごめん。流しの配管に問題が発生しちゃってね。ちょっと面食らっちゃったというか。まあ入って」

「その流し見てもいい?」

「もちろん」

僕たちはキッチンに入り、二人並んで流しを見下ろす。

「排水管が詰まってるんだな」とジェイソンが診断を下す。

「えっと...まあそうかなとは僕も」

「排水口クリーナーの溶液ある? 〈ドラノ〉とか」

「いや、僕はドライビールなんて全然飲んでないよ」

もちろん冗談で言ったつもりだった。おかしいでしょ。ハハハって笑っちゃうよね! もしジェイソンが僕のことを知らない他人だったら、きっと彼も笑っていたと思うんだ。

でも彼は笑ってくれなかった。

こんなこと考えちゃだめだ。こんなこと考えちゃだめだ。こんなこと考えちゃだめなんだ。

「みんなのところに行こうよ」と僕は言う。「君に会わせたい人もいるし」

こんなこと。

どうして僕はジェイソンと〈地下鉄の彼〉を引き合わせようとしているのだろう? 僕の脳裏に、その結果起こり得る可能性がよぎる。

二人が付き合うことになってしまう。

〈地下鉄の彼〉と僕がいちゃついていたら、ジェイソンはどう思うか、僕はそればかりが気になって、引け目を感じてしまうだろう。

〈地下鉄の彼〉は、僕がジェイソンにとってどれほどひどいボーイフレンドだったかに気づいて、僕とは関わりたくないと思うだろう。

結局、二人とも僕を永遠に嫌うことになるんだ。

僕が頭に思い浮かべることができた可能性は、これだけだった。

「っていうか、ずっと二人でキッチンにいてもいいけど!一晩中ね!」と僕は付け加えた。

「いや、それは遠慮しとくよ。君の妹に話したいことが一つか二つあるんだ。今晩のうちにね」

「話したいことって何?」

ジェイソンは心の内側に鍵をかけて僕を入れまいとする、あの表情をして見せた。「君と僕がうまくいかなかったのは、君の妹に僕たちの関係を認めてもらって、応援してもらわなかったからなんだよ。それに、結局は彼女が勝つとしても、僕は彼女にもっと食ってかかって、勝負を挑むべきだったんだ。君からこのパーティーの招待状を受け取ったとき、これは絶好のチャンスだと思った。実は僕は、ちょっと早いけど、2週間後にボストンに引っ越すんだ。大学が始まるのは秋だけど、夏休み期間にインターンシップで職業体験をするからね。つまり、今夜が僕の引退試合ってことになる。手加減なしで、本気で戦うつもりだよ」

つい僕は笑ってしまう。完全に気が触れたみたいな、引きつった笑いが抑えられない。

「本当に」と僕は言う。「そんなことする必要はないよ。あのね、今夜はボクシングの試合じゃなくて、ディナーパーティーなんだから、ゲストとして場をわきまえてもらわなくちゃ」

「サム、君が君の人生でこれまでにしてきたことはすべて、君の妹がしたことに対する後付けというか、補完する行為だったんだ。彼女が強気に出れば、君は弱い人になる、みたいなことだよ。―そうすることで、君は自分の心に免罪符を与えていたんだ。君自身の人生なのに、そうやって君は責任から逃れていたんだよ。彼女は責任を取らない。そして君も責任を回避する。周りのみんなは罪深い傍観者として、そんな君たちを見てるんだ」

「だからなんだっていうんだよ?」と僕は叫ぶ。引き出しを勢い良く開け放ち、引き出しの中に僕は片手を突っ込んだ。「そんなに僕を痛めつけたかったら、思いっきりこの引き出しを閉めたらどうだい? そんなねちねちと、まどろっこしいいたぶり方じゃなくて、―もっと直接、僕に苦痛を感じさせてくれよ

僕はいったい何をやっているんだ? 何を言っているのか自分でもわからない。本当に彼に引き出しを思いっきり閉めてもらいたいっていうのか? なんだかイルサみたいにメロドラマじみてるな、と思った。いつもは僕が彼女に「そんな芝居がかった真似するなよ」ってたしなめてるっていうのに。

「そんなことはやめな」とジェイソンが優しく言って、そっと手を差し出してきた。そして引き出しから僕の片手を抜き取ろうとする。彼が僕の手を握っているという実感が脳に伝わってくる前に、僕はさっと手を引き離した。

「手を差し伸べるのはやめてくれ」と僕は彼に言う。「流し台の修理もいいから、ただゲストとして振る舞ってほしい。礼儀正しく、みんなと仲良くしてほしいんだ。パーカーもいるし、他にもお客さんがいるから、みんなのところに行って、談笑していてくれ」

「君の妹は、君がパーカーを呼んだって知ってたのか?」

「いやまったく。サプライズで呼んだんだ!」

「じゃあ、二人の様子でも見に行ってみるか」

彼はあえて僕も一緒にリビングルームに行くかどうか聞いてこない。ただ彼は僕に一緒に来てほしいという素振りを見せている。それは賢い選択で、おそらく聞かれていたら、僕は「行かない」と言っていただろう。

「ほら、これ」と僕は彼に言う。「運ぶのを手伝ってくれないか」

「この刻んだ野菜をリビングルームに持って行くのか?」

「クルディテ(生野菜)っていうフランス料理だけど、リベルテ(自由)とフラタニテ(博愛)の精神も一緒に頼むよ

「なるほど。このパーティーでは、その3つから好きなものを選んで堪能できるってことか」

僕たちはキッチンを後にし、リビングルームに顔を出した。パーカーがすでに女帝専用のバーカウンターに腰かけて、女帝のウォッカに口づけながらよろしくやっていたが、それは見なかったことにする。

「わあ、素晴らしいわ」とKKがうめき声を上げた。「マッドハッターさんとティーポットさんが、白ウサギの大好物を届けてくれるなんて、まるで不思議の国ね」

「あなたにお会いできて、恐ろしいよ、KK」と、ジェイソンが手に持ったトレイを下ろしながら言った。

「イルサはどこ?」と僕は聞く。

「着替えだよ」とパーカーが答える。

KKが鼻先で笑う。「バカバカしいわね。メヒョウが何に着替えたって、中身は何も変わらないわよ」

〈地下鉄の彼〉がジェイソンに近寄ってきて、手を差し出しながら自分の名前を伝える。ジェイソンがその手を握って、自分の名前を伝え返す。二人が名前の次に何を言い出すのか、僕はその間を二人に与えずに、慌てて割って入った。「そうだ、二人に会わせたい人たちがいるんだった。フレデリックとカスピアン」

その二人が一歩前に歩み出てきて、カスピアンが小指を差し出し、握手を求めた。

「こりゃ傑作だ」と、ジェイソンが笑いながら手を伸ばし、小指ではなくカスピアンの顔を握りしめる。ジェイソンはカスピアンを単なる手だとみなしているようで、握ったカスピアンを大きく振った。

フレデリックの口は閉じたままだったが、カスピアンが叫んだ。「手を放せ! キサマはボクを窒息させる気か!

KKが大きく口を開けて爆笑した。リーはなんだか落ち着かない様子だ。たぶん彼女が着ているフランス人風のメイド服が、KKの隣にいると、フランス系カナダ人風に見えるからだろう。パーカーが僕の顔の前にグラスを差し出して、ウォッカを勧めてくる。ジェイソンがカスピアンから手を放して、彼を解放した。

「おお、こりゃ失礼」とジェイソンが謝る。

「あんた、彼の顔を鷲づかみするんだもん!」とKKが高笑いする。「まったく、どんなモンスターなのよ?」

フレデリックが靴下の中で腕をめいっぱいに伸ばすと、カスピアンがシャキッと姿勢を良くし、息を吹き返した。二人そろって、ふてくされた表情だ。

カスピアンの口が適切な位置に戻ると、彼は再び口をパクパクと動かして言った。「仕方ないな、許してあげるよ」

〈地下鉄の彼〉が何気なく会話に入ってきて、するりと話題を変えたのだが、それは僕にとって好ましくない方向転換だった。彼はジェイソンの方を向くと、こう切り出した。「ところで君は、サムとイルサとどういう関係?」

「ああ、サムはね、僕の心を叩き壊したんだ。そしてその時に使ったハンマーが、実はイルサのものだったってわけ。そんな関係だけど、君は?」

〈地下鉄の彼〉が目をぱちくりとしばたたいた。「ぼくたちは乗り物で、一緒に旅行した仲かな」

リーが前に足を踏み出して、スティック状に切ったセロリを手に取る。

「私があんたに言ったこと覚えてないわけ?」とKKがぴしゃりと言う。「私の3メートル以内に近づかないで!」

KKはこの建物の上の階に住んでいるから、もちろんすぐに着替えに帰れるし、それに彼女は家にお手伝いさんがいるほど裕福だから、先にメールしておけば、彼女がクローゼットに着くまでには新しい衣装が用意されていることだろう。

リーが惨めさと殺意の入り混じった表情をしている。

「なんかいい感じじゃないか!」とパーカーがご機嫌な声を上げた。「サムとイルサが主催のパーティーで、こんなに盛り上がるなんて珍しくない? 特にKKがこんなに機嫌良く愛嬌をふりまいてるなんて!」

「ハニー、それは私じゃなくて、あんただろが!」とKKが叫び返す。

「そんなにぎゃあぎゃあとわめきたいならさ、何か新しいネタを提供しろよ。いつもいつも同じ調子でまくし立ててるだけじゃ、誰も見向きもしなくなるぞ。お前にも創造力があるだろ、言い回しを工夫して、その意地悪さにどんどん磨きをかけていくんだよ。そうじゃなかったら、お前はただの馬鹿女だぞ」

「あ~、退屈であくびが出ちゃう、何も聞こえないわ」とKKが言い返す。

助けてくれ、と僕は思う。それから僕はテレパシーでそれを周りに発信する。助けてくれ。助けてくれ。誰か僕を助けてくれ。

僕はそのメッセージをパーカーに向けて飛ばした。僕の直感が彼を指名したからだ。しかし彼は気づく様子なく、リーにお酒を飲ませようとしている。「そのドレス素敵だよ」と、パーカーがリーの着ているメイド服を褒めた。意図的に「ドレス」と呼ぶことで、彼女の機嫌を良くしようとしているようだ。

僕の「助けてくれ」は方向転換を余儀なくされ、急旋回して、ジェイソンの方へ向かった。僕はそこで一旦テレパシーのスイッチを切る。ジェイソンはやめて、〈地下鉄の彼〉に狙いを定めて再び発信した。彼は僕のメッセージを受け取ってくれたようで、彼から受信通知が届いたみたいに、それがひしひしと伝わってきた。でも僕は彼に背を向けて、彼と完全につながるのを拒否する。僕を助けてくれなんて、彼に頼めるわけないよ。彼にそんな義務など全くないのだから。

「僕はポテトチップスでも食べるとするかな」と僕は誰にともなくつぶやく。「キッチンから持ってくるよ」

でも僕はキッチンに向かわず、ゲスト用の寝室へと向かった。ドアが閉まっている。

いつものように、僕はノックする。

「そんなにせかさないで、ヘンタイ!」とイルサが中から怒鳴った。2秒後、彼女がドアを開け放つ。0.00001秒間、僕は彼女の目の中に、何かを純粋に待ち望んでいるような、スリルに満ちた色を見て取った。すかさず彼女はそれをベールに包むように隠してしまう。

「誰がノックしてると思った?」と僕は聞く。

「シークレットサービス」

「いったいどうした?」と僕は彼女の姿を見下ろす。「なんで猫ドレスを着てるんだ? 今夜は衣装変更があるなんて言ってなかったじゃないか。パーティーのプログラムに衣装変更は組み込んでないぞ」

「ただ猫ちゃんを着たくなっちゃっただけよ。女の子はゴロゴロ喉を鳴らす猫ちゃんと同じなのよ。したくなったことをしたっていいでしょ?」

「パーカーがそれを着るように頼んだってことか?」

「あなたが何のことを言ってるのかわからないわ」

「前から思ってたけど、彼はお前にとってマタタビなんだよ。お前を興奮させる。少しは免疫ができたのかと思ってたんだけど、全然できてなかったみたいだな」

「うるさいわね。いいから背中のファスナーを上げてちょうだい」

僕は部屋に足を踏み入れると、後ろを向いたイルサの背中のファスナーを上げてやった。彼女の耳元で猫のイヤリングが揺れている。足元を見れば、靴まで猫柄だ。これは兄として注意しないといけないなと思った。そんな猫ずくめでは、今夜のパーティーが「ファンシーなファッション」のつどいではなく、猫雑誌『キャット・ファンシー』の撮影会みたいじゃないか。招待状の趣旨から甚だしく逸脱している。

「そういうことを言う時には、言い方に気をつけてよね。―ちゃんとみんな聞く耳を持ってるんだから」とイルサが言い返す。僕は最初、彼女がパーティーのゲストたちのことを言っているのかと思ったけれど、どうやら彼女が着ているドレスに描かれた猫たちのことを言っているようだ。「あなたが寝静まったら、全員で爪を立てて、あなたの顔を引っかきに行くわよ」

「それは大変だ。事前に教えてくれてありがとう。おかげで今夜寝静まった後に見る悪夢がすでに決まったよ!」と僕は茶化す。

「っていうか、何しに来たのよ? なんでみんなのところにいないの?」

「決まってるじゃないか、お前がファスナーを上げるのに手こずってると思ったからだよ」

「ごまかさないで! ちゃんと答えて。どうしてみんなのところにいたくないの?」

「ジェイソンがいるからだよ。彼は僕の元カレという地位を利用して、言いたい放題なんだ。彼が何を言っても、橋の下を流れる激流みたいに眺めていればいいと思ってたんだけど、彼が降らす雨はピリピリとした酸性で、橋自体が溶け出しそうなんだ」

「彼を招待したのはあなた自身でしょ。私じゃないわ」

「べつに愚痴ってるわけじゃないんだけど、なんていうか、もっと...ましな関係を保てるかなと思ってたんだ」

イルサがため息をつく。「でもまあ、夜も始まったばかりだし、夜が更けていけば、きっとジェイソンも口数が少なくなるわ。ピリピリ感なんて泡のように消えるってこと。彼が無害な水だってわかって、あなたも安心するはずよ」

もう二度とこの種の会話はしたくないなと思った。

「もう戻らなきゃ」と僕は言う。今頃、僕とイルサがいないのをいいことに、KKが祝祭を仕切り出しているに違いないから。

「先に行ってて。その前にやっぱり背中のファスナーを下げてちょうだい。それでパーカーに私が呼んでるって言ってきて。ファスナーを上げてほしいって」

「イルサ...」

「じゃあ、ファスナーは下げなくていいわ。―とにかく彼に私がファスナーのことで呼んでるって言ってきて。ほら早く行って」

イルサがパーカーと仲直りしたらしいことに、僕はほっと胸をなでおろすべきなんだろう。彼女も薄々気づいているだろうけど、僕は前からパーカーみたいな親友が欲しいと思っていたし、二人には仲良くしてほしかったのだ。その方が僕も生きやすくなるだろうし、他にも色々と好都合だから。

けれど今の僕は、二人がよりを戻すことは良い事なのか、疑念を持ち始めていた。

彼女から任務を言い渡されたからには、ここでぐずぐずしていても何も得られないことは明白だった。それで僕はピアノのある部屋へと戻った。

「ポテトチップスはどうしたの?」と、すかさずKKが聞いてきた。「こっちにあるはずだってイルサが」

というか、KKの優雅な人生にポテトチップスなんて登場したことがあるのだろうか?

「何か手伝うことある?」とリーが聞いてくる。

「パーカー、妹がドレスのことで何か手伝ってほしいって」

パーカーが方眉を上げた。「それはリクエスト? それとも強制?」

「どっちでもあるし、どっちでもない感じかな」

彼はお酒を手に持つと、「どっちにしろ、これを持って行かないと始まらない気がするから」と言って、廊下に出て行った。

「バカバカしい」とジェイソンがつぶやく。

「あなたたちだって、似たような関係でしょ」とKKが達観したように言う。

「えへん」と咳払いしてみんなの注目を引きつけたのは、カスピアンだった。「ボクがポテトチップスを探すのを手伝ってあげようか?」

「あなたって食べ物を食べられるわけ?」とKKが聞く。

「そりゃ、ね」と僕はフレデリックの顔を見て言ったのだが、彼が「カスピアンに聞いてくれ」というしぐさをしたので、彼が腕にはめている靴下を見て言い直した。「パクパクって食べるよね。こっちおいで」

僕はカスピアンを連れてキッチンに向かった。僕はようやく食料貯蔵庫の中に〈ケトル・チップス〉が一袋入っているのを見つけた。その間、カスピアンはじっと流し台を見つめていた。

「レンチがあれば、ボクが直してあげるよ」と彼が言う。

「僕の曲がった性格も直してくれる?」と僕は返す。カスピアンがきょとんと不思議そうに僕を見つめてきて、僕はドキッとしてしまう。「冗談」と僕は説明して、洗濯室から工具箱を持って来る。そこで僕は戸惑ってしまう。レンチをカスピアンの口にくわえさせるのが正解か、それともフレデリックの空いている方の手に差し出すのが正解か...間違ったことをするのが怖くて、結局僕は箱ごと流し台の横に置いた。

「作業を始める前に1つだけ確認したいことがあるんだ」とカスピアンが言う。「もうわかっちゃったけど、一応確認しておく。―君の妹がボクをこのパーティーに呼んだ理由をね」

「いいよ」と僕は答えるけど、正直言って、なんでイルサが彼を招待したのか僕にはまだピンと来ていない。

「正直に言ってほしいんだけど、―イルサはボクを彼女の友達と引き合わせて、つまり、くっつけようとしてるんでしょ?」

彼女の友達か。

しばしの間、彼女の友達とは誰のことを言っているのかわからなかったけれど、その時、別の部屋から電動のこぎりのような、耳をつんざくKKの声が聞こえてきて、フレデリックの表情が変わった。なるほど、と腑に落ちる。彼にはKKの声が音楽のように滑らかに変換されて聞こえているのだ。

そっか、KKか。

フレデリックは、僕の妹が彼とKKをくっつけるために自分を呼んだと思っているのだ。

そして彼は、まんざらでもないらしい。



7

イルサ


今でも昨日のことのように覚えている。女帝がサムと私を初めてディナーパーティーに参加させてくれたとき、私たちは8歳だった。パーティーまでの数週間、私たちは女帝からパーティーでの適切なエチケットというものを、びしびしと手厳しく叩き込まれた。


1. 知り合いだけの内輪のパーティーにならないように、見知らぬ人も招待すること。さまざまなバックグラウンドのゲストを招待して、混ぜ合わせるのがポイントよ。できれば、ちょっと偏屈な人で、自分が偏屈だって気づいていない人がいるといいわね。そうすると、パーティーの会話が生き生きとにぎわうから。

2. ゲスト一人ひとりが歓迎されてるって感じることが大切。実際はそうじゃなくてもいいから、この部屋の中で自分が一番愉快な人だって、みんなに思わせるの。

3. おいしい料理でもてなすのはもちろんだけど、創作料理の傑作を作ろうとしてはだめ。そんなことをしたら逆に引かれちゃうわ。みんなが食べたことあって、間違いなく美味しいって言う王道の料理を提供するの。パーティーはスフレの新作を考案する会じゃないのよ。

4. たとえ料理が口に合わなくても、それですべてが損なわれるわけじゃないわ。がっかりして枯れそうな気分も、上質なワインが満たしてくれるから。

5. ゲストが手に持つグラスは常にいっぱいに保つこと。常によ。

6. 食後のデザートはコース料理の中で最も重要なのよ。絶対にしくじらないこと。


ただ、今になってわかったこともあって、女帝の教えには次の項目が欠けていた。


1. 靴下の人形と、どう話せばいいのか。

2. 靴下の人形は、どんな料理でもてなせばいいのか。

3. 靴下の人形の前で、どうやって笑いをこらえればいいのか。


とはいえ、この場に女帝がいたら、カスピアンのゲストとしての振る舞いを見て大いに喜んだことでしょう。彼自身にとってはなんてことないのかもしれないけれど、カスピアンがいつの間にかパーティーの主役に躍り出ていることに、この場にいた誰もが驚いていた。

リー・チャンが女帝の寝室から、女帝の部屋着を着て戻って来た。―丈が長くてゆったりした、ナス色のハワイアンドレスを見て、カスピアンが褒めたたえるように、「スミレの花がパッと咲いたね」と言った。

リー・チャンが顔を赤らめる。「ありがとう! あなたの言った通りね。こっちの方がずっと居心地いいわ」彼女はKKをにらみつけると、勝ち誇ったようにグラスに口をつけて、マティーニを啜った。

なるほどね。カスピアンがリー・チャンに女帝の洋服を借りたらどう?とか提案したってことか。それでリー・チャンは気後れすることなく過ごせるようになったってわけね。でもKKだって、それでメイド服を着る権利を独占できたわけだから、双方が得をする見事な提案だったことになるわね。まあ、どうでもいいけど。

それよりも気がかりなのは、私自身がカスピアンとか、ヨハンが持って来たドリー・パートンのアクションフィギュアとかに、催眠をかけられたように段々と引き込まれていることだ。よく見ると、ドリー人形の中に、貧相な犬を連れ沿っているものが一体あった。足がひょろ長くて、片目が黒ぶちになっている。あて布をしたのかもしれない。「これって誰のつもりなの?」と私は、ドリーと彼女が連れている犬を交互に指差しながら、ヨハンに聞いた。

ヨハンが答える。「あ、その犬はね、クラッカー・ジャックって呼んでる。ほら、同じ名前のポップコーンとキャラメルのお菓子があるでしょ、あの袋の犬をイメージしたんだ」

「あなたって人形に名前をつけるんだ?」と私は面食らって言った。

カスピアンがドリー・パートンの曲『クラッカー・ジャック』を歌い出す。「He wasn’t much to look at / But he looked all right to me(彼はそんなにかっこよくないけど、彼って私にすごくぴったりだったの)」彼の音程は完璧で、美しいメロディーを奏でていた。その場にいた全員が自然と拍手する。

それから、パーカーがカスピアン越しに手を伸ばして、コーヒーテーブルの上のお皿からプレッツェルをつかみ、口に入れた。テーブルの周りにみんなが集まって来て、サムが食事を持って来るのを待った。(ディナーを待ってる時間って永遠みたいに長いのよね!)それにひきかえ、甘い歌のお時間はすぐに色あせてしまう。パーカーがむしゃむしゃと前菜のプレッツェルを食べ終え、もう一つ取ろうとして、カスピアン...というか靴下にぶつかってしまった。カスピアンはあからさまに触られるのを嫌がって、(セリーナ・ウィリアムズにサーブされて)物凄い勢いで飛んできたテニスボールにぺしゃんこに押しつぶされた鳥みたいな、短く甲高い悲鳴を上げた。カスピアンの金切り声は鋭く耳に突き刺さる聞くに堪えない雑音で、先ほどのドリーの曲を奏でていた滑らかな歌声はどこかに消え失せてしまった。おぞましい戦慄の叫びに、パーカーがびっくりして飛び上がり、横にいたジェイソンのひじを小突き、その勢いで、ジェイソンが手に持っていたグラスから飛び出た飲み物が、KKのぱっくり開いた胸元を直撃した。KKがジェイソンの頬をひっぱたく。続けてパーカーの頬もひっぱたいた。すかさずカスピアンが、「彼らのせいじゃないよ、原因はボクだよ!」と宣言して、その場を収めてくれた。

みんなが笑っている。パーカーも笑っている。―サムの話では、パーカーはこういう冗談が大嫌いなはずなのに。

KKはカスピアンを見てから、鋭い視線を私に投げかけた。目がこう言っている。「この男は誰? っていうか、この頭のおかしい男は誰? こんな変人が、いつどこで私の人生に登場したって言うの?」

KKと私がセントラルパークでバスケをしているセクシーな男を引っかけようと物色していると、私たちの目は、肌の色は白くて不健康そうだったけれど、イケメンでブロンドヘアーのフレディを射止めた。もっともフレディにカスピアンっていう友達がいるなんて知るよしもなかったわ。バスケとか他のことをしてフレディの両手がふさがっている時は、カスピアンは昼寝をしているってことかしら? 私たちはフレディの話を完全に信じ切っていたわ。彼は独特なアクセントの舌っ足らずな英語で、ポーランドからの交換留学生だって言ってた。ポーランドの労働組合の名前〈SOLIDARNOSC〉が赤文字で印刷された白いTシャツを着ていて、タイムアウトでバスケを一時中断すると、冷たそうな紫色の野菜ジュースをごくごくと飲んで体を冷やしていた。彼は元共産主義国家のポーランドで礼儀正しく育てられ、ドリブルの上手いプレーヤーだったという。もう引退してしばらく経つということだったけれど、その片鱗は彼のぎこちないプレーの中に垣間見えた気がしたわ。彼の喋り方も装いも私たちには、いかにもポーランドって感じがしたし、フレディならサムの餌にうってつけだって思ったの。東ヨーロッパっぽいアクセント、合格。スポーツ万能って感じに見えるけれど、プレー自体はいまいちってところもいいわね。左翼っぽいTシャツを着て弱者の味方みたいなアピールをしているのもサム好みって感じだし、健康的な野菜ジュースを飲んでるのも、最高。

って思ったけど、引っかかったのは私たちの方だったってわけね。

そうなのよ! カスピアンは何の欠点もないアメリカ人の英語で喋っているのよ。(この発音はニューオーリンズか、ニュージャージーね。女帝によると、この二つの地域は全く同じアクセントらしいから。)生粋のアメリカ育ちではないとしても、彼の英語は完璧なほど流暢だった。ところで、彼はさっきからしきりにKKの胸の谷間を見てるの。残念だけど、彼はゲイでもなかったってことね。フレディの青い目は冷めたように微動だにしなかったけれど、カスピアンの緑のボタンでできた目が、じろじろとKKのセクシーなメイド服をいやらしい目つきで見詰めていた。もし赤い糸で刺しゅうされた彼の緩んだ口元に、液体を出す機能が備わっていたら、どばどばとよだれが垂れているでしょうね。

あやうくカスピアンの術中にはまりそうなところで、私はハッと目が覚めた。カスピアンが私に向かって叫んだ。「ジェラルディン、キミなんだろ、ボクにはわかるよ。そんな姿になってしまったなんて! 見損なったよ!

みんなが一斉に私を見る。彼は明らかに私に向かってそう言ったのに、私には意味がさっぱりわからない。「ジェラルディンって誰?」と私はカスピアンに聞く。彼の相方の靴下人形がもう一人いるってことだろうと薄々思った。この場に女帝がいないことを残念に思う。彼女はこれまでに数多くのディナーパーティーをこのアパートメントで開催してきたわけだけど、こんなに面白いゲストを招いたことはなかったでしょうから。私たち家族はもうすぐここを出て行かなければならないから、もうここで女帝が彼に会うことはない。

そんなの決まってるじゃないか、みたいな言い方で、カスピアンが「キミのドレスの青い猫のことだよ」と言った。

私は指差しながら答える。「私のドレスには何匹か青い猫がいるわ。こういう模様なのよ」

「ジェラルディン!」カスピアンが、舞台『キャッツ』の台詞っぽく言う。「その虚ろな瞳! 彼女がボクを悩ませるんだ

パーティーの掟の何条だったかしら? ちゃんと偏屈なゲストがここにいるわ。女帝がこの場にいれば、さぞかし喜んだことでしょうね。

他のみんなが黙り込んでしまった。その理由は容易に推測できる。エキセントリックと気狂いの境界線をみんな必死で探しながら、面白がったらいいのか、怖がったらいいのか、決めかねているのだ。サムがキッチンからやって来て、私たちは境界線を引けずじまいに、あやふやな状態でその件は先送りされた。サムはなんだか汗をかいて、取り乱している様子で、ラザニアをディナーテーブルの上に置いた。「やっとできたよ。待たせちゃって悪かったね。流し台のことで手間取っちゃって。でも、カスピアンがレンチで直してくれたから、なんとかなったよ。ありがとう」私たちは前のめりになって、四方からサムが作った料理を目で吟味する。カリカリに焼き上がったラザニアから蒸気が立ち込める。その上で茶色がかったチーズがごぽごぽと泡立っている。「ごめん、ちょっと焦がしちゃった」とサムが付け加えた。

私はほくそ笑む。何が可笑しいかって、今夜ジェイソン・ゴールドスタイン・チャンは、大好きなサムのラザニアを美味しくいただくことができないから。彼が口の中を火傷して、消化不良でお腹を壊したりしたら、面白い展開になるわ。ジェイソンはもうサムを信用しなくなるかもしれない。サムのラザニアを嫌いになるだけかしら。

パーカーが慰めるようにサムの背中を叩いて言う。「美味しそうじゃないか」

サラダはすでにテーブルの上に載っている。カスピアンが身を乗り出して、サラダの匂いを嗅ごうとする。(彼には鼻がないから)無理なはずなのに、彼はクンクンと匂いを嗅ぐ音を出している。フレディの顔を見たけど、鼻も口も一切動いていないから凄い。カスピアンが言う。「この匂いは...マヨネーズかな?」

もちろんみんな、鼻がないのにどうやって匂いがわかるんだよってつっこみたい感じだったけれど、紳士的なサムがまっすぐにカスピアンを見て、「ドレッシングの中にマヨネーズも入ってるよ」と答えた。「ウォルドーフサラダっていうんだ」

「せっかくだから、レタスとか生野菜の上に直接缶からラードをかけてもらってもいい?」とカスピアンが尖った口調で言う。

「ちょっと!」と私は我慢できずに口を挟んだ。これ以上カスピアンをつけあがらせるわけにはいかない。どうして彼は突然そんなに横暴に振る舞うようになったのかしら? 体内の糖分が足りなくなったの? それとも今日の分の精神安定剤を飲み忘れてきたとか? あ、そっか、彼は靴下の人形だったわね。なるほどね、どうりでテンションがちぐはぐに上がったり下がったりするはずだわ。

KKがさっそく携帯で電話している。「寿司の盛り合わせを大皿で注文したわ」

リー・チャンが言う。「ピザも注文した方がいいかしら? なんていうか、ラザニアも美味しそうなんだけど、それだけじゃ足りないかなって思って」彼女の表情には、サムの料理は絶対に食べたくないという嫌悪感が浮かんでいた。今夜のサムはどうしちゃったのかしら? 全然調子が出ないみたい。いつもだったら彼の料理は傑作ぞろいなのよ。―サムの料理の腕前は名人級なんだから。きっと今夜は不安がつのって、サムの体から天才シェフの魂が抜けちゃったのね。彼自身は懸命にそれを認めまいとして、不安を押し殺そうと奮闘してるみたいだけど。

サムがため息をつく。私もため息をつく。これ以上空気も読まずに食べ物を注文するとか言い出す人がいれば、私が首を絞めてやるわ。(KKには私は何もできないけど、まあお寿司の盛り合わせが届けば、彼女も少しは機嫌良くなってごねなくなるだろうし、KKはいいけど、他のみんなは私の兄のお手製のラザニアをちゃんと美味しく召し上がらなきゃだめ)

私があえて言わなくても、私の気持ちを察してくれて、代弁してくれる人が私のそばにいる。この部屋の中で一番背が高くて、一番強くて、一番渋い声の男、パーカーが言ってくれた。「みんなでこのラザニアを美味しく食べようぜ。頑張って美味しく平らげよう」

私はあえて彼を見ないようにする。私の心臓の激しい高鳴りをパーカーに悟られたくなかった。私は表情を作って、精一杯のポーカーフェースを装った。

ヨハンがあの名曲を歌い出した。「And I / will always love you.(私は今もこれからもずっとあなたを愛してる)」

ようやく全員そろってディナーテーブルの席についたところで、玄関のベルが鳴った。KKが席を立ち、玄関に向かって駆け出す。お寿司の盛り合わせが到着したとみんなが思ったんだけど、やって来たゲストはお寿司の宅配でも、私たちが招待した人でもなかった。飛び入りのゲストは隣の部屋に住んでいるマデリーン・ホーグといって、私はマディって呼んでるんだけど、私がベビーシッターをやって稼がせてもらっている家庭の7歳の娘さんだった。彼女は駆け込むようにリビングに入ってくると、お皿に載ったクッキーをテーブルの上に置いた。「差し入れよ、イルサ! お手伝いさんと私であなたの大好物のクッキーを作ったのよ。ここでの最後のパーティーだって聞いたから!」マディの家にはパラグアイ出身の住み込みの料理人の女性がいて、マディ専属のスペイン語の家庭教師と、マディ専属のピラティスのインストラクターも兼ねてるから、彼女はその乳母のような人に何でも手伝ってもらえるの。彼女はこのスタンウィック邸で自由気ままに人生を謳歌してるってわけ。スペイン語で言うと、la Buena vida(素晴らしき人生)って感じかな。

私はそのクッキーに鼻を近づけて、匂いを嗅いでみた。率直に言って、世界の歴史上最も体に悪いクッキーだ。歯医者さんの待合室で何気なく開いた雑誌『ピープル』に、このクッキーのレシピが載っていたのよ。きっと歯医者のシーガル先生は、このクッキーに詰め込まれた材料を良しとしないでしょうね。(でも、もしかしたら逆に、彼女は食べていいって言うかもしれないわ。そうして虫歯になれば、彼女の歯科医院はつぶれなくて済むから)これは〈ジャンクトランク・クッキー〉って呼ばれていて、チョコチップ・クッキーに似てるんだけど、中にバタースコッチ・チップと、モルトミルクボールと、ピーナッツと、ポテトチップスと、それにプレッツェルが追加されてるのよ。私が科学者だったら、かつてこれほど美味しくて、しかもこれ以上に健康を害する恐れのあるクッキーのレシピがあったかどうか、すぐに調査を開始するわね。そう、マディの言う通り、これは私の大好物なの。

「ありがとう、マディ。いつも気が利くわね、大好きよ」と私は言う。クッキーは食後の方がいいと思って、一旦クッキーをコーヒーテーブルの方へ持って行ってから、私は再びダイニングテーブルにつくと、両手を広げてマディを呼び込んだ。すかさず彼女が私の膝の上に飛び乗ってくる。

彼女がいつもの定位置についたところで、呆気にとられたようにぽかんとその様子を見ていたみんなに彼女を紹介する。「彼女はマディっていって、隣のアパートメントに住んでるのよ。彼女の両親が私たちのこのアパートメントを買ったから、私たち家族が出て行ったあと、リビングルームの壁を取り壊して、こことひとつづきにするんだって。マディ、こちらがみんなよ」

数ヶ月以内にリフォーム工事を済ませた後は、マディの甘美で贅沢な生活がさらに快適になるわ。しかも、彼女の乳母はパラグアイに帰って、私が彼女のお守り役を勤めることになってるから、彼女は大喜びなの。私は女帝がゲスト用の寝室として使っている部屋で暮らすのよ。今はサムの栄光の歴史が飾ってあるけど、あそこがマディの子守部屋になるってわけ。彼女の世話をしていない時は私の一人部屋になるのよ。マディになら色々見られちゃってもいいわ。彼女もその辺は心得ているから、きっと内緒にしてくれるでしょう。でも、まだこのことをサムに打ち明ける時じゃないわ。この最後のディナーパーティーをやって、女帝が引っ越して、それから何週間かしたら、サムや家族のみんなに私の新しい仕事のことを発表することにしてるの。私たち家族はこのアパートメントにみそぎも済ませていないし、こういう事は何よりタイミングが重要なのよ。家族のみんなはまだ、私が夏の終わりには、秋から始まる大学のためにクイニピアックだかどこだかに行くと思い込んでるみたいだし。

「初めまして、マディ」とみんなが言う。KKだけはぶすっとむくれた表情で、「寿司が届いたと思ったら、とんだダミーちゃんが届いたわ」と言った。マディはクスクスと笑っている。KKに何か言い返したらもっと面倒なことになると察したのでしょう。彼女はちゃんと心得ているから。

マディーがサムに言う。「あなたのラザニア、いつも通りすっごく美味しそう」お調子者で大嘘つき、まさに私にぴったりの妹分でしょ。「それから、お手伝いさんが余分にクッキーを作ってくれたから、お家に帰る時に、あなたたちの両親にも持って行ってあげて」と言うマディを私は誇らしげに見守る。私の妹分はこういうクッキーを渡す時の上品なマナーを私から学んだのだ。

「うちの両親は今週末はラスベガスに行ってていないんだ。〈リベラーチェをこよなく愛する会〉っていうフェスに参加してる」とパーカーがジョークを飛ばす。「そのクッキーは家に持って帰って、僕が自分で食べてもいいかな?」

「もちろん!」とマディが答える。

「こういうクッキーを食べてると太っちゃうぞ、マディ」とカスピアンが皮肉っぽく言った。ちょっとこの発言はいただけないわね。そりゃマディはちょっとふっくらしてるけど、彼女の両親がピラティスのインストラクターを雇ってからは、これでもだいぶ瘦せたのよ。

「Don't be a dick(意地悪はよせ)、カスピアン」とジェイソンがカスピアンに言う。

マディはジェイソンを見てから、私の顔を見て、小声で「dick(おちんちん)だって」と私に耳打ちした。それから彼女はカスピアンを見ると、靴下の人形がディナーテーブルを囲んでいるという状況を飲み込もうとして、「はどなた?」と聞いた。

「キミの今夜の夢のお供だよ。悪夢だけどな」とカスピアンが急に真顔になって恐ろしい声を出した。すると今度は赤ちゃん声で、「おしっこ漏れちゃうぞ、うんちもだぞー」と付け加える。

ヨハンが立ち上がって、「もうお前には我慢できない」と言うと、フレディがヨハンの意図に気づく前に、フレディの手から靴下を引っこ抜いてしまった。「今夜はもう、カスピアンには退場してもらう」

ヨハンはカスピアンを持ってリビングを出ると、アパートメントの奥へと向かった。「どこへ持って行く気だ?」とフレディが悲痛の叫び声を上げる。麻酔も打たずにスパッと切断された腕の痛みを耐えているようでもある。

フレディがヨハンを追いかけて駆け出した。バタバタと廊下を駆ける音に続いて、おそらく南アフリカの言葉混じりに、「このいかれた人形をトイレに流してやる」みたいな言葉が聞こえてきた。

私はアフリカ語は話せないけど、カスピアンが女帝の家のトイレでもうすぐ最期の時を迎えるってことは、はっきりとわかった。

トイレが詰まらないといいけど。

かわいそうなカスピアン...



8

サム


悪い方向へ進む可能性を秘めた物事について考えていると、どうしても結局は悪い方向へ進んでしまう。なので何事にもとらわれず、心配しないことが一番なんだけど、そうもいかないから、リスクを避ける方法をあれこれ考えていたんだと自分を納得させるしかない。

ヨハンはこの家のトイレの場所を知らないから、一瞬立ち止まって、どのドアを開ければ玉座が待ち構えているのかと、キョロキョロしている。それから廊下に並んだドアを手当たり次第に開け始めた。その間にフレデリックが追いつき、ヨハンにタックルをしかけた。―僕は5歩ほど遅れて、彼の追撃を見ていた。ヨハンは体を反転させてよけようとしたけれど、間に合わず、二人が団子状態になって廊下に転がった。

「やめろ!」と僕は叫ぶ。「二人とも、そんなことはやめてくれ」

フレデリックが手を伸ばしてカスピアンを取り戻そうとする。直接カスピアンをつかむのかと思ったら、そうはせずに、ヨハンの手首をチョークホールドみたいに締めつけた。ヨハンが耐えきれずにカスピアンを手放すことを狙っているようだ。それから、この取り戻し方は理にかなっていると僕は気づいた。―直接カスピアンをつかんで引っ張っていたら、綱引きの果てに、カスピアンの命が奪われてしまうかもしれない。

「まじでやめてくれ!」と僕は声を大にして言った。しかし二人とも僕の言葉を聞いてくれない。僕は戦術を切り替えて、名前を叫んだ。「ヨハン!」

やっと彼が僕の方を向いてくれた。彼がまっすぐに僕を見ている。その隙をついて、フレデリックがヨハンのお腹に、拳を一発めり込ませた。

「よせ!」と僕は声を張り上げて、自分でも何をしようとしているのか自覚はなかったけれど、体が勝手に動き出していた。僕は二人の間に割って入ると、なんとか二人を引き離そうと、もがいた。―離れたフレデリックが正気を取り戻し、尻餅をついた。ヨハンは僕の体の下にいて、汗ばんでいた。彼の乱れた息遣いを感じる。―カスピアンはまだ彼の手に握られていて、クシャッとなったままだった。

「彼を僕に渡してくれないか」と僕は言う。

〈地下鉄の彼〉が首を横に振る。彼はもう〈地下鉄の彼〉ではないのだと思った。彼はこのアパートメントの中で、ただの見知らぬ人だった。急に僕は悲しくなる。

彼が言う。「思い付きで...好き勝手に喋ることがだめって言ってるわけじゃないんだ。この靴下だって最初は和気あいあいと喋ってたじゃないか。でも、意地悪く人に当たり出したらだめ。そういう悪口は現実の人間からうんざりするほど聞いてるからね、人形までそれをし出したらアウトだよ」

僕はフレデリックの顔を見て、彼がどういう反応をするかうかがった。彼は何も言わずに手を差し出した。―カスピアンをはめない方の手を差し出しながら、カスピアンを返してくれと懇願している。

「ほら、彼に返してあげなよ」と僕は促す。「きっと今からは行儀よくしてくれるよ」

「君はどっちの味方なんだ?」とヨハンが訊ねる。

そして僕は率直に言った。「この場合は、カスピアン」

「なるほどね」

彼はカスピアンを僕に差し出した。まるでこれが僕に手渡す最初で最後のプレゼントであるかのような渡し方だ。僕は空いている方の手を彼に差し出したが、彼は僕の手を握ることなく、自力で立ち上がった。

「ぼくはただ、何か役に立つことがしたかっただけなんだ」とヨハンが僕に向かって言う。「君はぼくに感謝してくれると思ったんだけど」

「その気持ちには感謝してるよ」と僕は返す。「ただ、それはフレデリックの...」

「...おかしな趣味?」

「そんな言い方は良くないよ」

「わかったよ、もう口出しはしない。ごめん。ぼくはそろそろ帰ったほうがよさそうだな?」

いや。

そうじゃないんだ...

なんていうか、僕は...

「帰らないで! 僕は君にここにいてほしい」

「じゃあ、ぼくはみんなのいるテーブルに戻ってるよ。君たちはここでもう少し、人形との涙の再会でも演じててくれ」

もしイルサがこういう皮肉っぽいことを言っていたら、もっととげのある言い方をしただろうし、―考えたくもないが、KKだったら、獰猛な野獣のように暴言を吐いていただろう。しかしヨハンの言い方は弱々しく悲し気だった。―彼は傷ついているのだ。そっか、僕だけではなく、彼も気づいてしまったのだ。〈二人が乗り合わせた地下鉄〉がすでに脱線してしまったことに。

僕は何かドリー・パートンの曲でも口ずさんで彼を元気づけようとしたけれど、一向にどの曲も浮かんでこなかった。僕の頭は

「僕も後からすぐに行くよ」と僕は言った。

「わかった」と彼は言って振り向くと、廊下に僕を残して行ってしまった。僕は手に持ったカスピアンと目を合わせる。

「はい、これ」と僕がフレデリックに言うと、彼は僕の手から靴下を取って、元通りに片腕にはめた。

「どうもありがとう」と、カスピアンがしっとりと言った。

フレデリックは僕が怒り出すのを身構えて待っている感じだ。いろんなことを彼がぶち壊しにしたと責任を感じているのだ。たしかに、僕とヨハンの地下鉄を脱線させたのは、彼かもしれない。でも、こんなに簡単に壊れるような関係なら、最初から築く価値もないだろう。知らないけど。

「全然いいよ」と僕は彼に言う。―カスピアンではなく、フレデリックの顔を見て言った。

「危ないところだった」とカスピアンが自身の危機を振り返った。フレデリックがうなずいている。

僕はまだフレデリックの目を見つめていた。「もっと行儀よくしてもらわないと困るよ」と僕は言う。「ペラペラと何でもかんでも口にするのはやめてくれないか。ヨハンのした行為が正しいって言ってるわけじゃないけど、―でも、あの場にいたみんなが、ヨハンと同じ気持ちだったんだ。あ、もしかしたら、KKは違うかもしれないけど」

彼女の名前を口にした瞬間、フレデリックが顔を赤らめて、僕から視線をそらした。

「まさか」と僕は言ってみる。「もしかして君はKKのことが好き、なわけないか」

フレデリックもカスピアンも否定してこない。

僕はさらに追い打ちをかける。「君は彼女の心臓を射止めようとして、彼女のはらわたをくすぐるような真似をしていたとか? 毒っ気を吐いて、彼女の気を引こうと!?

カスピアンがうなずく。

「戦略としてまずかったかな?」と彼が聞いてくる。

「まずいどころじゃないね。KK以外のみんなはもちろん受け入れないけど、―たぶんKKはもっと受け入れないと思う。彼女は自分に似てる人を好まないんだ。―彼女の亜流みたいなことしたって逆効果だよ。ここはニューヨークなんだし、―彼女にしてみたら、そんな男は掃いて捨てるほどいるからね。KKの心の内を教えてあげよっか。そんなにもったいぶって言うほどのことでもないんだけど、彼女はそんなに性悪ってわけじゃなくて、まあ口は悪いけど、それもお決まりのワンパターンだって彼女自身わかってて言ってるんだよ。みんながまた言ってるって呆れてることも彼女は知ってて、自分の役割を全うしてるんだ。君もそれくらいにならないとだめだね。あの部屋の中心で、みんなの興味を一身に集めてるって思い込んで演じていれば、周りのことなんか気にならなくなる。本気を出せよ、―君が本気を出せば彼女の亜流なんかじゃなくて、彼女を超えられるはずだよ。最初の方はいい感じだったじゃないか、みんな君に惹きつけられてた。君が彼女に迎合して、彼女のレベルに合わせにいっちゃったから」

「全部台無しにしちゃったかな?」

「いや、そこまでじゃないよ。彼女はまだ帰ってないからね」

「君のことを言ってるんだよ。君たちの関係とか台無しにしちゃったみたいだね」

さっきのヨハンの傷ついた表情が脳裏に浮かび、僕は頭を振ってかき消す。

「なんてことないよ」と僕は言う。しかし、その言葉はむなしく廊下に響き、誰にも届かずにポトリと落ちた。

カスピアンはもう僕を見ていなかった。視線を落として、床をじっと見つめている。それから、はっと気づく...フレデリックがカスピアンをはめた手をだらんと下げているのだ。

「味方になってくれてありがとう」と、彼―フレデリックが言った。フレデリックのままでそれを言うのは、彼にとって苦行に近いんだろうな、と僕には瞬時にわかる。

「全然いいよ」と僕は彼に伝える。それから僕は手を伸ばし、カスピアンのあごの辺りを持って、彼を動かした。彼がまた僕の目を見てくれた。「まだ君ほどは彼のことを正確にはわかってないけど...僕も彼のことがなんとなくわかるんだ。似た者同士、お互いに味方になってかばい合わないと、だよね? 周りにはこういうことを全く理解してくれない人が溢れてるから」

今夜、僕はすでにいろんな失敗をしでかした。でも不思議と、失敗して良かったなって感じている。それ以上何も言うことはなかった。

「みんなのところに戻ろう」と僕は二人に言った。


イルサが上手くその場を取り仕切って、僕が作ったラザニアを食べるように促してくれたようで、みんな黙々とラザニアを食べていた。―あるいは、この時点ではまだ様子見というか、みんな気楽に喋るのは気が引けて、ラザニアを口にしていれば話さなくて済むということかもしれない。いずれにせよ、夕食は滞りなく進んでいて、みんなの胃袋の中に快調に消費されていた。

「マディはどこ?」と僕は聞く。

「鷹が窓から翼を広げてさっそうと入って来てね、彼女を連れ去っちゃった」とKKが答える。

「でも心配しなくても」とパーカーがすかさず付け加える。「彼女のクッキーはちゃんとここにある」

僕はヨハンに目を向ける。ヨハンと目が合ったけれど、彼はほんの1秒で目をそらした。それから僕はイルサを見た。彼女は「すべてをわかってるわ」という顔をしている。

「ほら」とイルサがラザニアを僕に差し出してきた。「自分で作ったご馳走を食べそこなったなんて、それじゃパーティーの主催者失格よ」

僕は席につく。フレデリックが僕に遅れて入ってきた。彼はまだ立ったままだ。

「ちょっといいかな」とカスピアンが言う。「みんなに聞いてもらいたいんだ」

「どうぞどうぞ!」とKKが巻き舌気味に早口で言う。「なんでも言ってちょうだい、靴下ちゃん」

フレデリックが深呼吸してから、カスピアンが声を発した。

「ボクはこのパーティーをめちゃくちゃにするつもりはなかったし、クッキーを持ってきてくれたあの子を、怖がらせてここから追い払うつもりもなかったんだ。こういうディナーに招待されるのは初めてだったから、なんていうか、どういう風に振る舞えばいいのか探りさぐりで、間違えちゃったんだ。でも今はもうちゃんとわかったから、ああいうことはもう二度と起こさないよ」

「いいから座って」とイルサが言う。「こういうことはよくあるっていうか、パーティーに付き物だから」

パーカーとジェイソンがそれを聞いて、二人とも眉を上げた...でも、どちらも何も言わない。

「さあ、お食べ」とKKがフレデリックのお皿を取り、その上にいくつかお寿司を載せた。それから、ちょっと考える仕草をして、巻き寿司を一つだけお皿の端に寄せた。―おそらく、カスピアンのためだろう。

「ありがとう」とカスピアンがつぶやくように言って、フレデリックが腰を下ろす。

KKが独演会を開始した。彼女がいかに苦労してこのお寿司にありついたかについて、とうとうと語り出した。少なくとも10店舗のお寿司屋さんに電話して、この時間にちゃんとしたカリフォルニア巻きを作って、宅配してくれるお店をやっと見つけたそうだ。この時間ってまだそんなに遅くないけど、と思ったけれど、彼女はカリフォルニア巻きはカリフォルニア時間じゃないと、とかなんとか言っていた。あまり興味のない話ってなかなか頭に入ってこないものだなと思いながら、周りを見ると、みんな一様に彼女の会話は上の空といった表情で、もぐもぐとラザニアを口に入れていた。

彼女のモノローグが終わると、ジェイソンがそのバトンを受け取った。

「これ、すごく美味しいよ」と、彼は手に持ったフォークでラザニアを指しながら言った。「ありがとう、イルサ」

イルサは一瞬困惑した表情をして、「わかってるでしょ、このラザニアは私が作ったんじゃないわ、ジェイソン」と言う。

「じゃあ、このサラダ超上手い! 君が作ったサラダのレシピは完璧だよ、イルサ」

彼女が怪訝な眼差しで彼を見つめる。

「ちょっとからかってるの?―もういいわ。サムはね、素晴らしく腕のいいシェフなのよ。私の助けなんて要らないの」

「そうかな、君はいつでもサムを助けてるんじゃないかな? 人生の一大事でも生活のささいな事でも、どんな状況でも彼は君に意見を聞いて、それを参考にしてるよね。料理のこともそうだし、サムのボーイフレンドのこと、サムの将来について、サムの人生そのものを君は手助けしてるんだよ。―君がサムに手渡せる唯一の調味料、それは君の意見、君がどう思うかってことだよね? まあ、君の香辛料にはちょっと毒っ気が混じってるけど」

僕は彼の発言をさえぎって言った。「ジェイソン。僕が君を招待したのはそんなことを言わせるためじゃない」

イルサが僕を制するような手振りをしながら言った。「いいのよ、べつに。あなたがジェイソンを私に紹介してくれてから、もう何ヶ月も経つけど、―ジェイソンがあなたの人生とか、あなたの家族、つまり私たちについて、すごく詳しい専門家になったんだなって感心しちゃうわ!」

「パターンを見つけ出すだけさ。大きな椅子に座って足を組んで、セラピスト気取りであごに手なんか当てちゃってさ、そこに見え隠れする一定の法則を見つけ出すんだよ。新聞に載ってる数独みたいにね」

「馬鹿言わないで。イルサは日曜版に載ってるクロスワードよ」とKKが助け舟を出すように言ってから、「私はたまたまクロスワードが得意なんだけどね」と付け加えた。

その時突然、みんなを黙らせるかのような轟音が窓の外から聞こえてきた。

「雷か?」とジェイソンが聞く。

「それか、爆撃かも」とパーカーが言う。

彼は冗談で言ったわけではなかった。

続けてもう一発、すさまじい破裂音が鳴り響いた。

「神様が咳払いをしてるみたい」とリーが言う。

すぐに横殴りの激しい雨が集中砲火のように、開けっ放しの窓からなだれ込んできた。そこから吹き込む猛烈な風がテーブルクロスをまくし立て、さながら亡霊のように、白い布をゆらめかせた。

「ただの夏の嵐よ」とイルサが言う。「なんてことないわ」僕は立ち上がって窓を閉めようとした。けれどイルサが僕に言う。「閉めないで、そのままがいいわ。なんかこういうのって、気分よくて好き」

僕は雨が入るのを心配している。カーペットが濡れるし、床の木の部分が歪んでしまうかもしれない。でも僕は内心の動揺を誰にも悟られたくなくて、平静を装いつつ、席に戻った。

「この降りようだと、街が水浸しになるのも時間の問題ね」とリーが言う。

「ちょっと、それってどういうこと?」KKは腹立たしい様子だ。街が水浸しになると、彼女だけが困るとでも思っているのだろうか。

「今夜ってわけじゃないわ。もしかすると数年後にそうなるかもって話。だって海の水面が上昇してるのよ。いつかは街に水が溢れるわ。そしたらここに住む人はみんな、どこか新しい場所に引っ越さないとね。私にはわかるのよ」

「君にはわかるのかい?」とジェイソンが聞く。

「そういう風に言うと変に聞こえるわね。でも、私にはちょっとだけそういう能力があるの。神のお告げっていうか、少なくとも何かを暗示している夢を昔からたまに見るのよ。ハリケーン・サンディがやって来た後は、前よりも頻繁に予知夢を見るようになったわ。道路に大量の水が流れ込んできて、みんなが必死に逃げまどって、そんな夢を見た朝は、いつだって悲しい気持ちになるの。そして段々と腹立たしい気持ちになってくる」

「あら、私は最上階に住んでるから安心ね。神に感謝しなくちゃ!」とKKが口笛を吹くように言った。

「安心じゃないだろ。この建物の電気とか水はどこから来てると思ってるんだ? 排水管はどこにつながってる?―まさか空か?」とパーカーが聞く。

僕は身震いする。

「私は怖がらせようと思って言ってるわけじゃないのよ」とリーが続ける。「どうせ避けられないことなら、見て見ぬふりをしててもしょうがないわ。ちゃんと話し合った方がいいと思うの。少なくとも、ボートに乗って逃げ出すとか、何か対策はあるはずよ」

「うまく行くといいけど」と僕は言う。声に出して言ったつもりはなかった。つまり、みんなにではなく、自分自身に対して言ったつもりだったんだけど、気づくと僕ははっきりと声に出してそう言っていた。

「どういう意味?」とヨハンが聞いてくる。

「なんでもない」と僕は答える。「気にしないで」

「だめ」とイルサが言う。「ちゃんと話して」

君はまた僕を窮地に追い込もうとしてる。これはちゃんと声に出さずに言えたらしい。でもみんなが僕を見ている。

僕は―

僕は―

「僕はよくわからないんだけど、話し合って解決策が生まれるものなのかな。つまり、何かが僕を悩ませていたとして、僕はそれについて考える。考えて、考えて、考え抜いて、それでも僕は、その状況を変える言葉を見つけることができない。なんか考える前よりも、路頭に迷い込んでしまうだけなんだ」

考えましょうなんて私は言ってないわ」とリーが言う。「私は話し合いましょうって言ってるの」

「何が違うの?」と僕は聞く。

それに答えたのはカスピアンだった。「違いはね、キミが何か言葉を発するとき、その部屋にキミ以外の誰かがいるかどうかってことだよ。誰かがいれば、その人が何かキミの理解を助けてくれるようなことを言ってくれるし、逆にキミもその人に助言ができるし、お互いにその悩み事の理解が深まっていって、希望が開ける」

「ぼくが育った家庭は、考えばかり溢れていて、話し合うことはめったになかった」とヨハンが言った。「間違いないよ、その二つは全然違う」

「俺が育ったアパートメントは逆に、やかましいほど話し合いばっかりで、考えることなんてほとんどなかったな」とジェイソンが言う。「少なくとも両親が離婚するまでは、なんにも考えてなかった。両方を経験した俺から言わせると、その二つはどっちも楽しくない」

イルサはまだリーをじっと見つめたままだ。

「希望はあると思う?」とイルサがリーに聞く。「つまり、未来に」

リーが本物の預言者っぽく見えたのは、彼女が着ている女帝のふわっとゆったりしたカフタン風ドレスのせいかもしれない。あるいは、僕たちの周りに吹き込んでくる不気味な雨と風のせいだろうか。彼女が何か答えを持っている気がした。

「もちろん希望はあるわ」と彼女が言う。「いつだって希望はあるのよ。私たちは無限に希望を受け入れることができるんだけど、心に鍵をかけちゃって、受け入れようとしないだけなの」

「じゃあ、もうすぐ沈もうとしてるタイタニック号のデッキで、俺らは椅子を並べ替えてるだけじゃないってことか?」とパーカーが聞く。

「それはちょっと的外れな質問ね」とリーが答える。「私が注目したいのは椅子じゃないし、誰もデッキに並べられた椅子なんて関心ないわ。私が言いたいのはね、―事故が起きた時のことじゃないの。それよりずっと前、タイタニック号が出航する時に、救命ボートをいくつ積むか決めた時のことよ。それこそ私たちにとって、いろんな意味で必要なことだし、―私たちにできる唯一のことでもあるわね。なるべくたくさんの救命ボートを積むのよ」

そういうことか、と僕は自分一人では思いつかなかった答えに突き当たる。僕の恐怖心の理由がわかった気がした。もうすぐ僕はこの街で大学に行くことになる。つまり出航するわけだけど、僕にとっての救命ボートは、たぶんイルサだけだ。でもイルサのボートは沈んでしまうだろう。それはイルサのせいじゃなくて、僕が乗ったら彼女には重すぎて沈んでしまうのだ。だから僕はもっとたくさんの救命ボートを積まなくちゃいけない。周りを見れば、この部屋には救命ボートになってくれそうな人たちがたくさんいるじゃないか。それでも僕の恐怖心は消えない。本当に僕はこの曲がった性格を直したいと思う。相反する思考に両側から頭を引っ張られているようだ。将来なんて僕には大きすぎて変えられないって思う一方で、僕はほんの小さなミスが命取りになり、将来に取り返しのつかない汚点を残すとも感じているのだから、どんなボートだって救いようがないよね?

「キミは未来について細かいこともわかるの?」とカスピアンがリーに訊ねる。

「預言と予言は違うのよ」と彼女が答える。「ごめんなさい」

カスピアンが頭を横に振る。「いや、いや、そうじゃないよ、―ボクはなにも自分の未来が知りたいわけじゃなくて」

「私にはあんたがトイレの排水管に流される未来が見えるわ」とKKが靴下に向かって告げた。「あんたが毛糸で編まれて誕生した瞬間から、その未来は決まっていたのよ」

「それは言い過ぎだよ」と僕は彼女に言う。

KKが笑って言った。「あなたいつから、こんな靴下の味方になったわけ?」

「カスピアンは靴下なんかじゃない

「じゃあ、何なのよ? 彼も預言者だとか言うわけ?」

「カスピアンはカスピアンだよ」僕はなぜ彼女に向かって叫んでいるのか、自分でもわからないまま続けた。「もし君が他のみんなと同じように彼を扱わないなら、君は今すぐエレベーターを上がって、自分のアパートメントに帰ってもいいんだよ。そしたら好きなだけ寿司を注文できるじゃないか」

KKの目がキラッときらめいた。「私は何も彼だけ特別扱いしてないわ。私は他のみんなにも同じように冷たく当たってるじゃない、そうでしょ?」

イルサが当然のように彼女を援護する。「彼女の言う通りね」

ジェイソンがこれ見よがしにため息をついてから、KKを見て言った。「お前はほんとに嫌味なやつだな」それからイルサの方を振り向くと、言った。「イルサも彼女とどっこいどっこいだな」

「それ以上言うな」と僕は彼を制する。

「なんでイルサをかばおうとするんだ?」と彼が返してくる。

その答えは何千とあるはずなんだけど、今は一つも思い浮かばない。

待っても浮かんで来る気配さえない。

「じゃあ、なんであなたは今でもサムが好きなの?」とイルサが代わりにジェイソンに言い返してくれた。

「イルサ、よせよ」とパーカーが、テディベアのぬいぐるみか何かを見せながら赤ちゃんをあやすみたいな声で言った。

「ほんっとにラザニアって好き」

すぐには誰が言ったのかわからなかったけれど、次の瞬間ヨハンだと気づいた。

彼が続ける。

「ぼくが子供の頃、母がラザニアでこういうことをやってくれたんだ。―母は麺をアルファベットみたいにくねらせて、ぼくたちにメッセージを書いてくれたんだよ。ラザニアを食べ進むと、下の層にそのメッセージが現れるんだ。だから、ぼくたちは慎重に食べ進まなくちゃいけなかった。すごくすごく慎重にね。いつもの夕食は大急ぎでがっついて食べるんだけど、―なにせ4人兄弟なものだから、急がないと食べそこねちゃう。―でもラザニアの時だけは特別で、ぼくたちがラザニアを食べてるところを見たら、きっと恐竜の化石でも発掘してるんじゃないかって思ったはずだよ。時々母は、ぼくたち兄弟に1文字ずつアルファベットを書くってことをやった。そういう時は、みんなが食べ終わるまで待たないと母からのメッセージがわからなかったんだ。さっきも会話のない家庭だったって言ったけど、―本当にお堅い厳格な家だったんだ。すべてが軍隊みたいな精密さで回っていた。だから母がこういうことをする時は、なんていうか...うまく言えないけど、地下でこっそり秘密の集会を開いてるみたいな、そんな気分だったよ。だからね、ラザニアを食べると、いつも当時のことを思い出して懐かしい気分になる」

最初、彼がなぜこんなことを言い出したのかわからなかったけれど、がやがやと収拾がつかなくなりそうだったみんなを黙らせて、ラザニアに集中させようって意図なんだなと気づいて、僕はなんだか彼に...感謝の念が湧いてきた。

「うちのママも寿司でそれをやってくれたわ」とKKが話に乗ってきた。「寿司職人に醬油でメッセージを書かせるの。海苔巻きをはがすと、それが現れるのよ。『金持ちにたかれ』とか、『銀行家を引き摺り下ろせ』とかね。よく考えてみると、ママがそんなパンクの歌詞みたいなメッセージを書かせるわけないわね。もちろん、冗談よ」

誰も笑わない時はいつもそうするように、KKは舌を突き出しておどけて見せた。それから彼女はこう言った。「その話はいいわ。ちょうど静かになったところで、私の大親友のイルサから、何か重大発表があるらしいわよ...」



9

イルサ


優しいサムがなんか、かわいそう。このテーブルでサムは一人だけ落ち着き払っている。でもきっと、いつもみたいに内心すごく葛藤していて、落ち着こうって頑張っているんだわ。

KKは血に飢えているというか、こんな感じで常に攻撃対象を探していて、チャンスと見れば、すかさず相手を切ろうとするのよね。まあ、実際ナイフを持ち出すわけじゃないし、本当に靴下をトイレに流しちゃうとかでもないんだけど、せっかちというか、短期間で一気に利益を上げようとして、賭け金を急激につり上げるみたいに、サーベルにありったけのエネルギーを溜めて、ひと振りで全員を叩き切ろうとするところがあるの。彼女は「ションダランド」でやってるドラマとか、『ゲーム・オブ・スローンズ』の見すぎなのよね。許してあげて。

彼女は私が重大発表をすると言って話を振ってきたけど、私が秋からどんな生活を始めようとしているか、彼女の目の前でみんなに話してほしいってことでしょう。そうすれば、ここがKKの大好きな修羅場と化すから。私が女帝のこの屋敷の、サムが大事にしているあの部屋に引っ越すと言えば、サムは嘆き悲しむでしょうし、なんでそんな大事なことを今までずっと黙っていたんだとか言って、ブチ切れるでしょうね。ジェイソンはほくそ笑みながら、私が大好きな兄からこっぴどく嫌われる様子を眺めて悦に入るわ。パーカーは彼の親友のサムが私のせいで取り乱しているのを見て、私の心配よりサムがかわいそう、みたいな顔をするのよ。ヨハンは大切なドーリー人形を私たちが武器として相手に投げつけるんじゃないかって心配して、そそくさとバイオリンケースにしまいだすの。そしてリー・チャンは、そんな状況にストレスを感じてヤケ食いに走って、サムがみんなで分けようとデザートに用意したレモン・タルトを、丸々全部食べ尽くしちゃうわ。

私はKKの誘いに乗らないことにした。私だって、CrackleとかFireとかテレビ画面で見られるようになった動画サービスに負けないくらい速いペースで進化しているのよ。向こうの都合じゃなくて私が見たい時にテレビも見るし、私は私自身の心の準備が整ってから、サムに話すわ。KKの都合じゃなくてね。

まあ、発表ならあるわ。「みんな、スマホをしまってちょうだい」私はこれをもっと早く、みんながここに到着した時に言うべきだった。嵐がどんどん激しさを増しているのが、女帝の家の巨大なパノラマのような窓越しにわかった。今夜これから夜更けにかけて、大変なことになりそうな気配がひしひしと伝わってくる。スマホをしまえば、マンハッタンの摩天楼の上空に轟く稲光の写真をインスタグラムにアップできなくなるし、不運にもこんな時に外を歩いていた人が突風にあおられる姿を窓から激写することもできなくなる。もっと言えば、サムのラザニアのスナップ写真を撮ることもできないわけだけど、今日の料理の出来栄えは芳しくないし、やっぱりスマホは完全にしまった方がいいわね。そうすれば、失敗しちゃった料理とはいえ、みんなで美味しく食べて、ラザニアも救われるわ。

「嫌よ」とKKが言う。「絶対に無理」

彼女が私の手の届かないところに逃げようとしたから、私はすばやく立ち上がって、彼女の手からスマホをつかみ取った。「おりこうさんね。大好きよ、KK」と私は言いながら、彼女の頭のてっぺんにキスをした。KKは銀行家の娘でお金持ちなんだけど、親に放って置かれて育った寂しい子なのよ。彼女の魅力がわかって、彼女をこんなに愛らしいと思えるのは私しかいない。そう思ってたんだけど、どうやら他にも、彼女を愛らしいと感じる人が現れたみたいね。

女帝の教えにもあったわ。他の家族をディナーに招待する時は、テーブルの近くに携帯電話を持ち込んではいけませんって。それで女帝は玄関ホールに小さな金庫を用意しておいて、そこに携帯を入れてもらっていたの。私はそれを思い出して、その金庫を玄関ホールに取りに行った。それからディナーテーブルに戻って来ると、私はその金庫を持って、「みんな、この中にスマホを入れてちょうだい」と言いながら、テーブルの周りを順番に回っていった。まず最初に私はKKのスマホを中に入れる。

「その中にこれを入れたらさ、返ってくる時に最新機種になってたりするかな?」とヨハンが聞いた。「ぼくのは5年くらい前の古い機種なんだよ」と言いながら、それを入れる。

「ジェイソンが交換してくれるんじゃないかしら」と私は答える。

私はジェイソンに鋭い視線を投げかける。ジェイソンがにらみ返してきた。それでも渋々といった感じで、最新のiPhoneを箱の中に預けた。彼はハイテクには目がないタイプで、最新機種が発売される前日の夜から、Appleのお店の前に並ぶの。それから一晩中、まるでトライアスロンの競技でも進行中みたいに、SNSに状況を投稿し続けるのよ。そして朝方には、歩道に這いつくばっている写真をアップするんだけど、文字通り、何もしてないのよね。

カスピアンのところに来ると、彼が言った。「ボクはスマホを持っていません」

「文字を打ち込む指先の器用さがないんだろ?」とジェイソンが聞く。まったく、しらっと自分の凄さをアピールしてるんだわ。彼は子供の頃、親にせがんで連れて行ってもらった地域のお祭りで、タイピングの早打ちを競うイベントに参加して優勝したことがあるらしいから。

「ボクは直接面と向かって話す方が好きだからだよ!」とカスピアンが答える。でもフレディはスマホを持っているようで、箱の中にポイッとそれを投げ入れた。

私は他のみんなからもスマホを回収すると、金庫に鍵をかけ、玄関ホールに戻して来た。

「デザートの時間にする?」とサムが聞く。

「女帝のシャンパン・コレクションの時間がいいわ」とKKが言う。

「それいいね。賛成」とパーカーが手を挙げる。

サムがキッチンへ向かい、私はダイニングテーブルからリビングルームの方へみんなを誘導した。窓の外では雷鳴が轟いている。雲の上で神が大きな岩を使ってジャグリングをしながら、この街の住人を脅しているかのようだ。マンハッタンに岩を次々と落として、黙示録にあるような世界の終わりを見せてあげようか、と。

雷の音が大きくなるにつれて、リー・チャンの顔色がどんどん青ざめていく。「雷はおそろしいわ」

私は彼女を窓に面していない方の壁際に置いてある、女帝のお気に入りの最高に座り心地が良い椅子に座らせた。「デザートを食べたら、サムがみんなにピアノを弾いてくれるわ。そしたら、外からの雑音はかき消されるから。サムと私が10歳になった時の誕生日のことを今でも覚えているわ。女帝のこの家でディナーパーティーをしたの。彼のピアノの腕前がどんどん上達している時期だった。あの時も窓の外で怖いくらいに雷が鳴り響いていたんだけど、サムがピアノの前に座って、ざわめき立っていたみんなの心を和らげようと、心地良い曲を弾いてくれたのよ。って言っても、私は彼の演奏に集中してじっとしていられなくて、ピアノの周りで側転とか、とんぼ返りとかを始めちゃったんだけどね。そしたら、着地に失敗しちゃって、床にドシンと尻餅をついちゃったの。その衝撃でピアノも揺れて、鍵盤カバーっていうのかしら、―ほら、ピアノを使ってない時に鍵盤を覆う蓋みたいなのがあるでしょ、―あれが演奏中に閉じちゃって、サムの指が挟まれちゃったのよ。幸い、大怪我に至らずには済んだんだけど、―内出血して爪の内側に青あざができたくらいかな。―でも私は女帝の部屋に連れて行かれて、反省してなさいってパーティーの間中ずっと閉じ込められてたの。イルサのケーキはおあずけよって。

今夜はちゃんと、行儀良く彼の演奏を聴くわ。

パーカーが言う。「今夜のサムの演奏は今までで最高のものになるぞ。甘くて優しい極上の音を聴かせてくれるよ」私は彼を見遣って、目配せする。私たちのテレパシー的つながりがまだ機能するか確かめてみた。通じた! パーカーがリー・チャンの座っている椅子のそばまで来て、床に腰を下ろしてくれた。嵐で困惑している彼女を安心させようとしているのだ。私はジェイソン以外の他のみんなにも、同じようにテレパシーを送ってみた。

「誰かコーヒーを飲みたい人いる? お茶がいい人は誰?」とジェイソンがみんなに聞いた。彼は私の方を向くと、「こういうのは主催者のお前がゲストのみんなに聞いて、出すものだろ、イルサ」と言った。

KKが女帝の高級な漆塗りのチャイニーズ・キャビネットに手を伸ばす。「誰もお茶には関心ないわ、ジェイソン」

「ぼくはお茶がいいな」とヨハンが言う。

私は返す。「キッチンにサムがいるから、彼にお茶の場所を聞けば教えてくれるわ」本来なら、私がキッチンに取りに行って、彼にお茶を入れてあげるべきなんでしょうけど、そうね、私はダメな主催者なのよ。ヨハンがクチコミサイトのYelpに、〈イルサは最悪の主催者〉とかって書き込まなければいいんだけど、まあその心配はないわね。私は気まぐれなのよ。最初はヨハンいいかもって思ったけど、今は断然、私のお気に入りのゲストはカスピアンね。ヨハンは自分でお茶を入れて、まずいお茶でも飲んでてちょうだい。

KKがキャビネットからブランデーのボトルを1本取り出した。私たちが前回のディナーパーティーの締めくくりとして飲んでから、誰も手をつけていないブランデーだ。「さあ、今からパーティーの本番よ」とKKが言って、女帝のブランデーグラスを次々と取り出し、横長のソファの前にあるコーヒーテーブルの上に並べ出した。ジェイソンとフレディがそこに腰を下ろす。ジェイソンがソファの一方の端に座り、もう一方の端にフレディが座って肘を肘掛けに載せる。その上でカスピアンは直立のまま、だらんと休んでいる。「飲む人?」と、グラスにブランデーを注ぎながら彼女が訊ねた。

パーカーが真っ先に手を上げて、私の手も追随するように上がった。リー・チャンとカスピアンは迷っているのか、手を上げたり下げたりしている。「量はシングルにする? ダブルで二人分飲んじゃう?」とKKがフレディとカスピアンのコンビに聞く。

「ダブルで」とカスピアンが答えた。

彼女がみんなのグラスにお酒をついでいると、サムがリビングルームに入ってきた。「ジャジャーン!」と彼は口でファンファーレを真似て、コーヒーテーブルの一方の端にレモンタルトを置いた。みんなが感心するように見守っている。「デザートはレモンタルトにしたんだ」

「緑じゃないか!」とカスピアンが声を上げた。「この色はレモンじゃなくて、ライムのタルトじゃない?」

サムはしゅんとしょげた表情をして言った。「今日の午前中、スーパーマーケットの〈フェアウェイ〉に買い物に行って、食材を見て回ってたとき、レモンはそんなに新鮮には見えなかったけど、そこまで悪くないかなと思って買ったんだけど」

「すごく美味そう」とパーカーが言って、みんなに「なっ、美味そうだよな」と促すような視線を送った。

公平に見て、タルトは緑ではなかったけれど、正直なところ、レモンっぽくもなかった。

「すごくいい感じ」とリー・チャンが賛成した。

「美味しそうだわ」と私も言う。

「早く切り分けてくれ、もう待てない」とジェイソンが言う。

「アレルギーなんだよね」とカスピアンが甲高い声を上げた。

「マジか」とKKが言った。

突然、空が割れたかのような激しい落雷があり、みんなの背筋が凍り付いた。カスピアンが彼独特の金切り声で叫んだ。リー・チャンはおびえている様子だ。「こんなのなんでもないよ」と、パーカーがみんなの気分を落ち着かせようとする。

しかし、なんでもなくはなかった。直後に家の電気がすべて消えてしまった。私たちは真っ暗なリビングルームに取り残されたように座っていた。―外の街路灯や他の建物からの光も入って来ない。窓の外に視線を向けると、暗闇の中、車のライトだけがかすかにうごめているのがわかった。停電になったのは私たちのいる建物だけではないのだ。暗闇に包まれながら、この後どうなってしまうのか、頭の中で懐中電灯を照らすように思い浮かべた。真夜中にダウンタウンで予定されているダンスコンテストに、パーカーと出かける自分を想像してみる。おかしなことに、全然その姿がイメージできない。パーカーと踊りたくないわけではないんだけど、ダンスの腕前をアピールすることに必要性を感じられないのだ。

サムがボーイスカウト時代を思い出したのか、真っ先に声を上げた。「みんな、このままここで座って待ってて。たしか女帝の衣装部屋に防災用品が一式入ったボックスがあったはずだから、僕が取って来るよ」彼が廊下を玄関ホールの方へ歩いていく音が聞こえた。たしかに彼なら目隠ししても、女帝のアパートメントの中を難なく歩き回れるでしょう。―実際、彼が家具にぶつかる音もしなかったし、花瓶とか、他のこまごまとした装飾品が床に落っこちる音もしなかった。玄関ホールにたどり着いたらしい彼が大声を上げた。「イルサ、女帝の金庫の暗証番号は何番? 小さな懐中電灯は見つけたけど、光が弱くてちらついてるんだ。―たぶん電池がもうすぐ切れちゃう。でも、この明かりで金庫を開けて、みんなのスマホを取り出せば、スマホを懐中電灯代わりに使えるだろ」

「0-1-1-8よ!」と私は叫び返す。玄関ホールからぼんやりと、今にも消え入りそうな光が届いた。

「僕たちの誕生日ってことか、なるほど!」とサムが叫ぶ。1月18日は私たちの誕生日。「イルサ、ほんとにその番号で合ってるのか? 開かないぞ」

「絶対に合ってるわ。女帝があのディナーパーティーのあと、番号を変えてなければね。あの時パパがこっそり金庫からスマホを取り出して、バスケットボールの試合経過をチェックしたら、女帝が怒っちゃったでしょ」

「彼女が変更したんだな。馬鹿なパパのせいだ! なんでほんの1時間くらい、バスケなんか無視できなかったんだよ?」

「ほら、3月の全米大学選手権の準決勝だったじゃない!」と私はサムの記憶を促す。「シラキュース大学の試合でさ」

「その時期は男からスマホを取り上げちゃ駄目だな」とパーカーが抑揚をつけて言った。

「たしかに」とカスピアンかフレディが言った。どちらが言ったのか私には判別できなかった。

「やばい。懐中電灯が切れた」と言うサムの声が届く。

「怖いわ」とリー・チャンが言う。

私はカーペットの上に腰を下ろすと、パーカーのセクシーな匂いを頼りに、彼の隣にいるはずのリー・チャンのそばまで、カーペットを這うように進む。私のひざがパーカーのひざにぶつかった。ひざを通じて全身にトキメキがほとばしる。そのまま力が抜けて、よろめくように彼にもたれかかりそうになる。

「大丈夫よ」と私はリー・チャンに言う。「きっと電気はすぐに復旧するわ」

しかし雲の上の女神は執念深いようで、もう一発、ピカッと窓の外が光ったかと思うと、轟音が鼓膜を激しく揺らした。さっきの稲妻が予行練習だったかのような本気さを感じた。稲光がリー・チャンの恐怖におびえる表情を浮かび上がらせる。パーカーにも彼女の表情が見えたようで、彼が言った。「心配しないで。イルサも俺も、ちゃんとここに、君のすぐそばにいるから。俺たちが君の救命ボートになるから」

カスピアンが言う。「母なる自然は、ただエネルギーを放出しているだけなんだ。軽度の地震のようなものだよ。それって良いことだって、知ってるよね? そうやって少しずつエネルギーを放出することで、大規模な地震とかが起こらないようにしてるんだ」

「チョコレートってどこかにある?」とリー・チャンが聞く。「私には気を紛らわすものが必要みたい」

「僕がチョコレートを取ってあげるよ」とサムが答える。「たしかサイドテーブルに置いたと思う。ほら、やっぱりここにあった。ジェイソン、これをリー・チャンに渡して」

ジェイソンがチョコレートの箱を私に向けて、バスケのゴールを狙うみたいに、投げた。彼のシュートは見事に命中し、私の耳に当たって、ひざの間に落ちてきた。私はそれをリー・チャンに手渡す。

サムがリビングルームを横切って、再び窓の近くまで歩いて行く気配がした。「かつてここに住んでいたスタンウィック女史が、この建物を守ってくれているんだ。彼女が何も起こさせない。ここにいれば、僕たちは安全だよ」

「どうしてそんなことがわかるの?」とリー・チャンが聞く。

「また、サムとイルサのゴーストストーリーネタかよ」とジェイソンが愚痴る。

サムと私はこの話をするのが大好きなのよ。私は話し出す。「名女優だったスタンウィックはね、元々この建物に住んでいたの。それでここは彼女の名前にちなんで、スタンウィック邸って呼ばれてるのよ。彼女はここの最上階のペントハウスで暮らしていたの。今はKKがそこに住んでるわね」

「彼女がこの建物を守ってくれているんだよ」とサムが言う。

私はリー・チャンに、この建物の歴代の住人たちの証言をまじえて、みんなが彼女の保護の元で暮らしてきたことを伝えようとした。スタンウィック女史の亡霊が、この建物を火災や竜巻やハリケーンから守ってくれているということを話そうとしたんだけど、ここの住人の一人であるKKには別の考えがあるみたいで、KKが言った。「彼女って寝てる時におならをするのよ。本当よ。彼女が昔暮らしていた部屋で寝てる私が言うんだから、間違いないわ」

サムが彼女の発言を無視して言う。「スタンウィック女史の本名は、エセル・マエ・スタンウィックっていって、彼女には恋人がいたんだけど、生涯結婚することはなかった。彼にはすでに妻がいたからね」

私は言う。「その女たらしの彼は、建設会社の社長でね。彼がこの建物を建てて、彼女の名前から、ここをスタンウィック邸って名付けたのよ。当時はここニューヨークで映画産業が始まったばかりで、彼女はサイレント映画の女優だったの。映画業界はのちにカリフォルニアのハリウッドに移るんだけど、元はここから始まったのよ。彼女はサイレント映画でいつも、イギリス人の上流階級の貴婦人を演じていたわ」

サムが言う。「もっとも、実際の彼女は、すぐそこのシープスヘッド湾のほとりで育ったんだ。彼女の発言を聞けばわかるよ。ブルックリン訛りがきついからね」

「そこに関しては本当ね」とKKが言う。「彼女の亡霊がたまに出没して、昔を懐かしむように鼻歌まじりに廊下を歩いているんだけど、」と、―ここでKKは昔のブルックリン訛りを強調したアクセントに切り替えて言った。「いったい何様のつもりなの? ここの主にでもなった気でうろついてるけど、あんたはここに住まわせてもらっていただけの、ただの成り上がりでしょ?」

「助けて!」と、キッチンから叫び声が聞こえた。

「ヨハンだ!」とサムが言う。「彼がキッチンにいるのを忘れてた。誰か彼を助けに行ってあげないと」

「お前しかいないだろ、勇敢なサム剣士の出番だ」とパーカーが言う。そう言いながら、暗闇の中で、パーカーの手が私の手をぎゅっと握りしめてきた。私もそれを望んでいたところだったから、テレパシーが通じたってことね。ちょっと変態っぽい望みだけど、お互い様ね。彼が握りしめる手の力を強めると、私の心は締め付けられるように息苦しくなる。

「みんな静かにしていてくれないかしら?」とリー・チャンが頼むように言った。「この停電が終わるまで」

「俺たちが喋ってると落ち着かない?」とパーカーが聞く。

「落ち着かないわ。雷と同じくらい、私の耳に響くの。喋り声に圧倒されちゃって、私の意識が全部そっちに持って行かれるの。太刀打ちしなくちゃって思っちゃうのよ。なんとかして聞こえてくる声を制圧しなくちゃっていう気分になっちゃうの。本当は聞き流したいんだけど」

「じゃあ、みんな静かに黙っていることにしよう」とカスピアンが特徴的な声で言った。

静けさが暗闇を支配すると、なぜ彼女がこの状況を好むのかがよくわかった。外から聞こえてくる激しい雨のリズムは、うっとりしそうになるくらい魅惑的で、普段の街の騒音は一切聞こえない。普段の下から突き上げてくるような車のクラクションや人々が叫び合っているようなざわめきは、全て消えていた。停電と、しつこいまでに落ちてくる雨が、街をきれいに、―空気まで浄化しているかのようだ。なんだかこの「沈黙」が、一人の見知らぬゲストに思えてきた。―このパーティーに呼んだつもりはなかったし、沈黙なんてパーティーには必要ないって思っていたけれど、今はこの沈黙に感謝したい気分だった。ゲストとしての評価値は急上昇ね。

私たちのロマンチックな沈黙が、ジェイソンの耳障りな声でぶち壊された。「サムとヨハンは暗いキッチンで、黙って何やってるんだ?」

その時、パッと部屋の明かりが灯った。

KKがいつの間にかソファに腰を下ろしていて、隣のフレディの口と、彼女の口が重ね合わされている。そしてカスピアンが、彼女の体のある場所に入り込んでいた。普通の靴下では絶対に入り込めない領域だって私は断言できるけど、そこに差し込まれていた。



10

サム


僕は自分の目が愛おしい。

目の凄い能力に嫉妬するほどだ。僕が目に対して指令を出さなくても、勝手に調整機能が働く。

周りが暗くなった直後から、じわじわと周りの世界を自分の手中に収めるように、闇の濃度を薄めていく。

僕はヨハンを救うためにキッチンへ向かっている。彼の声を追い求めるように、でも焦らずに一歩一歩慎重に前へ進む。僕が一歩進むごとに、暗闇が背後で二の足を踏んでいるようだ。振り返らずに進んでいると、完全なる闇が段々と灰色を帯びてくる。気持ちも少しずつ落ち着いてきて、闇の中を進む航海の舵取りがしやすくなる。

僕が恐れているのは暗闇自体ではなく、暗闇の中で装飾品の花瓶とかを倒してしまったり、僕自身が怪我をしたり、あるいは、暗闇の中で自分がどこにいるのかわからなくなったり、闇の中から突然現れた誰かに襲われたりすること、そういったことが次々と頭に浮かぶから恐怖なのだ。

「ハロー?」とヨハンが叫ぶ。

「もうすぐそこにたどり着くよ」と僕は叫び返す。「ドアを開けるから、ドアから少し離れてて」

キッチンの扉を内側に押し開ける。彼にぶつかることはなかった。

「サム?」

オーブンの時刻表示も消えている。冷蔵庫は何か別種の、ただ置いてあるだけの大きな家具と化していた。ナイフが出しっぱなしだったことを思い出したけれど、どこに置いたのか思い出せない。

「君が見えたよ」と僕は言う。彼がカウンターに立っている姿が、暗い斑点のようにぼんやりと見えた。こんな状況でさえ、彼は僕の注目の的だ。彼が洋服を着ているのかも、彼の肌と洋服の境目も判別できないというのに、僕の目に彼は魅力的に映る。「僕はここだよ。こんなことになっちゃってごめん。みんなヒステリーを起こしたみたいに賑やかだから、君は呆気にとられたよね」

暗闇の静けさをさらに深めるような間があった。それから彼が、「告白しなければならないことがあるんだ」と言った。

僕は彼に近づく。「何?」

「賑やかなみんなを避けるために、ぼくはここに居残っていたのかもしれない」

「そっか」

「そして、ここから助けを呼べば、きっと君が応えて、助けに来てくれると思ったから」

さっきの輪郭しかわからなかった影とは違って、彼が実体として目の前にいる。なんだかおとぎ話みたいだ。僕たちは少年に頃に戻って、二つの影絵が重なり合うように、間近で話している。

「もちろん君が呼べば、応えるのは僕だろうね」と僕は言う。「っていうか、そういう役割はいっつも僕なんだよ」

僕は無意識に突き放すような言い方をしていた。彼の前でそんな言い方をする自分にあきれる。

「みんな生き生きしてるなって思った」と彼が言う。「躍動してるというか、ぼくの観察した限りでは、そう見えた」

彼が片足を広げるように動かして、僕の足の側面に触れた。僕はそれに気づいていないふりをする。その時、ふと別のことに気づいた。彼はこの2時間ばかりの間に、僕という人間を把握してしまったのだ。彼が僕や、イルサや、僕たちの人生のすべてについて、もうわかっちゃったよ、と思っていることが、軽く触れ合う足からひしひしと伝わってきた。

そして実際その通りだろう。彼は僕のすべてを把握したのだ、と僕も思う。

「僕たちはいつもあんな感じなんだよね」と僕は説明するけれど、まったく何の説明にもなっていない。

「いいんだ。べつにぼくは、彼女がそのドアを開けて、ここに入って来ることを期待していたわけじゃないし」

ちゃんと聞くべきだ。僕は彼からこういう話を聞きたかったはずだ。この瞬間に身をゆだね、暗闇を利用して彼の胸に寄りかかってしまおうか、とも思う。

でも僕は―

僕は―

彼は僕の何が間違っているのかを指摘できないし、何も間違っていないって僕に言うこともできない。何も言ってこないのは、彼が僕にキスしたいと思っているからだ。

僕は少し後ずさりする。澄んだ彼の目に映る僕が、ちょっとぼやけて見えるくらいまで離れる。

「僕は君に応えたかったんだ」と僕は彼に伝える。

「わかってるよ。優しいね」彼はカウンターに寄りかかるのをやめて、僕に近づいてきた。「君はとても優しいよ」

「いや、違うんだ。―そういう意味じゃない。君が助けを求めたとき、応えたかったっていう意味だよ。彼女が君のところに行こうとしないから仕方なく僕が代わりに、とかじゃなくて、君が生き生きしてるって言ってたみんなに、行けって指図されたから来た、とかでもなくて、たとえ彼女が君を助けに行くって言っていたとしても、僕は自分が行くって名乗り出ていたと思うよ。ちゃんと伝わったかな? まだはっきりしない? 僕ははっきりさせたいから。これだけははっきりさせとかないといけないって本当に思う。僕と彼女は独立していて、僕が君を気遣っているのは、彼女が君を気にかけないから、その穴埋めをしているわけじゃないってこと。もし実際、彼女が君を気にかけていないんだとしたら、―彼女には他に気にかけなくちゃならないことがいっぱいあるからだと思う。正直言って、これは本当にそうなんだ」

ああ、神よ。僕はいったい何を言っているんだ。彼はこんなことを聞きたいわけじゃない!

彼の手が僕の肩の真下に触れた。わかったよ、と言うような、少なくともわかろうとしてくれているような手の置き方だった。

「大丈夫だよ」と彼が僕に言う。

「いや」と僕は答える。「そんな簡単に片づくことじゃない。ひと言で済まさないでほしい」

彼が僕の腕に触れている手を肘の辺りまで下げた。「ぼくに話をさせてくれないかな、いい?」

完全に嫌われた、と僕は思う。彼は僕を嫌っているんだ。

彼は続ける。「君の言いたいことはわかるよ。ぼくにも同じような経験があるからね。―ぼくは一年近く、ある男性と付き合っていたんだけど、彼はぼくたちが完全に補完し合わないといけないって思っていたみたい。彼が意地悪くなる時は、ぼくが聖人になって、彼がパーティーの盛り上げ役をやる時は、ぼくは盛り下げ役、みたいな感じで演じ分けるっていうのかな、彼が社交担当を務める時は、ぼくはプライベート担当ってさ、馬鹿みたいだけど、ぼくはそういう役割分担をずっとこなしてた。そうしていれば、だいたいの事は上手く行くって思ってたから。補完し合うことで...他のいろんなことが上手く回り出すんだよ」

僕は耳を塞いでしまいたかった。こういうのって苦手だ。僕の知らない人を僕の部屋に、彼が勝手に連れて来たみたいで、そういう時って無視するわけにもいかないし。

でも、ただ突っ立っているわけにもいかない。彼は何か重要なことを僕に話している。それに対して、僕は何か返さなくちゃ。

「それで、どうなったの?」と僕は聞く。いくつか思い付いた中で、これが一番無難な返しだと思った。

「それが可笑しいんだけどね」

「僕たちのこのディナーパーティー以上に可笑しいことなんてあるわけないよ」と、僕はハードルを下げてあげる。

「本当に馬鹿馬鹿しくて笑っちゃうんだけどさ、っていうか、よくあることかもしれないけど、ほんの些細なことがきっかけで、それがとてつもなく大きな問題に発展しちゃった、みたいな。ぼくが彼と別れた理由、本当に知りたい?」

「うん」と僕は頷く。もちろん、少しためらいもあった。彼が元カレについて、たっぷりと時間を使って話すというのは、僕にとって悪い兆候だから。

ヨハンがため息をついた。「彼のスマホがきっかけで別れたんだ」

そこで彼は何かを思い出すように間を置いた。電話で別れ話をしたってことか、それともスマホがもっと重要な役割を果たしたってことか。「続けて」と僕は促す。

ヨハンは少し後ずさって、さっきまで立っていた辺りに戻ると、後ろ手でキッチンカウンターを探して、再び寄りかかった。それでも僕たちの距離はまだ近いと感じていた。

「そう、ぼくは彼の部屋にいて、演奏会のリハーサルをした後、二人でソファに座ってくつろいでいたんだ。テレビで〈ドラァグクイーン・コンテスト〉なんかを見ていた。二人で寄り添うように肩をくっつけて、居心地は良かったよ。そしたら彼が、『スマホを取ってくれないか』って言ったんだ。ぼくは彼にどこにあるのって聞いた。そしたら、彼が『寝室にあるから取って来てくれ』って言うから、ぼくは彼に自分で取りに行けるでしょ、みたいに返したら、彼はこう言ってきた。『それはお前の仕事だ』って。一瞬冗談かと思ったけど、冗談ではなかった。彼はぼくに対してどれくらい力を持っているか試しているんだってわかった。―ぼくに言うことを聞かせられるかっていうゲームみたいなものだよ。普段なら、ぼくは『いいよ』って言って、彼のスマホを取って来て、ゲームはおしまい、ってなるんだけど。でもその時のぼくは、嫌だって拒んだんだ。―それで彼を傷つけてしまった。彼は心から傷ついた様子だった。ぼくは、なんでこんな簡単な要求に応えてあげなかったんだろうって悔やんだよ。そしたら彼が、『お前は俺の役に立つのが好きなんだろ!』って言ったんだ。―一字一句そのままじゃないけど、そんなようなことを言われた。だから、ぼくは言い返したんだ。『スタン、はっきり言って、今は好きじゃない』」

「スタン?」と僕は聞く。

「そう、彼の名前。―ぼくはてっきり、彼が自分でその憎らしいスマホを取りに行って、ツイートかメールか、何がしたかったのか知らないけど、スマホをいじりながら戻って来て、ごめんとか言って、ぼくたちの関係を元通りに修復してくれると思った。でも違った。そして、ここがこの話の最も美しいところなんだけど、彼がぼくのことを自分勝手だって言ったんだ。笑っちゃうよね。もちろんぼくは言い返したよ。『どの口が言ってるんだよ。君がその形容詞を持ち出したら、もうおしまいだね』って。そこからはずるずると滑り落ちるように」

彼の話がハイライトを迎えたとき、パッと家のライトが点灯した。一瞬、僕たちは盲目状態になって、それから目がだんだんと明るさに馴染んでいった。話の途中で出てきた名前がスポットライトに浮かび上がるように、気にかかっていた。

「スタンって、ツイッター好きの?」と僕は聞く。

ヨハンが頷く。「そう、そのスタン・ボール。彼は君と同じ学校だよね?」

「でも彼は...彼がツイッターで君のことをつぶやいたことは一度もないけど」

「それが唯一、彼がしてくれた自分勝手ではないことだね! ぼくが彼に言ったんだ。彼の生活の実況中継みたいなツイートの中にぼくを含めたら、すぐに過去に流されるツイートみたいに、ぼくも消えるよって。それで彼はぼくのことをつぶやけなかったんだよ。ぼくたちが別れるまでね」

キッチンが元の生命力を回復していた。冷蔵庫の呼吸音も聞こえたし、オーブンの時刻表示もまばたきしていた。カチカチと時計が再び回り出したように、周りの空間が元の現実世界に戻りつつあった。

ヨハンが続ける。「たしか彼はここに来たことがあるって言ってた気がする。最近彼と連絡を取ってないから、ここでばったり会うかなと思ってたんだけど」

ヨハンが全くの他人ではなかったことに僕は戸惑う。べつにいいじゃないか、と自分に言い聞かせる。むしろ、共通の知り合いがいたことを喜ばしく思うべきだ。ただ、その知り合いが、よりにもよって#スタンタか。なんだかスタンタに、僕とヨハンの恋物語を台無しにされた気分だった。地下鉄でたまたま運命の人に出会ったという素晴らしいストーリーが破たんしてしまった。それでもたまたまには違いないが、もう運命の出会いだとは思えなかった。

電気が戻ったというのに、リビングルームがやけに静かなことに気づいた。―可能性は二つだ。状況が一段落して落ち着き払っているのか、それとも、カオス状態がブラックホールと化したか。

僕は思わずにはいられない。リビングで壊滅的な何かが起こったのだろうか。それとも今まさに、破壊力のある何かが起こりつつあるのだろうか。そうだとすると、僕が仲裁に入らなければ、収集のつかない事態に陥ってしまいかねない。

「僕たちもあっちに戻って、みんなの状況を確認した方がいいと思う」と僕はヨハンに言う。

彼はがっかりした様子だった。混乱している表情にも見えた。あるいは、いら立っているのか。

たぶん重要なことは、僕には彼の気持ちがぼやけて見えないってことだ。

たぶん重要なことは、僕には目のような自動調整能力がないってことだ。

たぶん重要なことは、そう、僕はいつも応えてあげる人だけれど、でも僕がそれにふさわしい人だっていう保証は、どこにもないってことだ。

僕が唯一得意なのは、間違っててもいいから、困難な道のりを乗り越えてでも、とにかく駆けつけてあげることみたいだ。―ヨハンと僕がリビングルームに駆けつけてみると、妙に静かな雰囲気の中を混乱の余韻が舞っているようだった。フレデリックとKKが不愛想な表情で、ソファに恋人のようにくっついて座っていた。リーは目を閉じながら、深く息を吸って、ふーっとゆっくり吐き出していた。パーカーは何やらニヤニヤと面白がっている様子で、逆にジェイソンはつまらなそうな顔をしていた。そしてイルサは―

イルサの顔は―

イルサの表情は―

空虚だった。ライトはすでに点灯しているというのに、彼女だけはまだヒューズが抜かれているかのように、ぼんやりしている。

調整機能に不具合か?

外からは激しい雨の音がひっきりなしに聞こえていて、僕たちの注意を引きつけようとしているかのようだ。この部屋自体が呼吸をしているように感じられ、その息はいくぶん酒臭かった。

「いったいどうしたんだ?」と僕は聞く。

イルサが一瞬我に返りかけたが、―まだ完全にこちらに戻っては来なかった。

答えてくれたのは、パーカーだった。「電気が消えてるすきに、KKがソファでセサミストリートごっこに夢中になってたんだよ」

KKが立ち上がって、フランス風メイド服の乱れを整えた。「真っ暗だったから、男性の近くにいたほうが安心だと思ったのよ。それに、一人二役って興味があったし、1回で2回分楽しめるっていうか、―これだけは言わせて、特別な意味はないのよ

フレデリックは彼女の説明を聞いて、岩を投げつけられたようにへこんでしまった。カスピアンは無表情で黙っている。

「窓の隙間から雨が入り込んでるわ」とリーが言った。

彼女は窓ガラスがきちんとフレームにはまっていない接合部を指差している。そこから薄い雨のしぶきが入り込み、壁をつたって床に流れ込んでいた。

「なんで今まで誰も気づかなかったの!?」と僕は叫び、ペーパータオルを取りにキッチンに駆け戻った。そして再びリビングに戻ってくると、スイッチを最強に入れた掃除機ロボットのように、僕は懸命に床を拭き出した。座っていたリーが脇へよけて、掃除スペースを空けてくれた。

「ぼくも手伝おうか?」とヨハンが申し出た。

「大丈夫! 一人でやれる!」と僕は言いながら、床に雨の染み跡がついてしまわないだろうかと心配になる。もしかしたら、フローリングが歪んでしまうかもしれない...

「全然大丈夫じゃなさそうだけど」とイルサが言った。彼女の方を振り返ると、僕がヨハンと一緒にここに戻ってから、彼女は全く動いていないことに気づいた。

「これくらい問題ないよ」と僕は彼女に言う。窓とフレームの隙間をペーパータオルでふさいで、ビニールテープを貼って、雨水が入り込まないように密封すれば、きっと大丈夫。

「私が言ってるのはそのことじゃない」とイルサが窓を指して言った。そして、その指を部屋全体に向けて、大きく回しながら言い放った。「私はこっちが問題だって言ってるの

「俺たちへのお褒めの言葉かな、ありがとう」とパーカーがおどけて見せる。

「あたしはちっとも問題なんて感じてないわ」とKKがあしらうように言う。

ジェイソンは微妙な感じで息を吹き出した。笑ったのか、もしかすると、憤りのため息を吐き出したのかもしれない。

「何を言ってる? どういうことか、ちゃんと説明してくれよ」と僕は言う。今回に限っては、本当にイルサの意図するところがわからなかった。

「私が言ってるのはね、いったい何のためにこのパーティーをやってるのかってことよ。みんながここにこうして集まってるのは、どうして? せっかくみんなで集まって楽しもうとしてるのに、なんでこんなふざけた茶番にしかならないの? 単調な日常から遠く離れることが目的だったはずなのに、こんなの、単調な日常のバージョン違いでしかないわ。みんなもっと、いつもの自分からはみ出すくらい、キラキラ輝こうとしてよ。―なんかみんな煮え切らない感じでさ、サムはうわべだけ愛想よく振る舞おうとしてるみたいだけど、内心くよくよしてるのが丸わかりだし、私はサムに同情するのも疲れちゃったわ。KKのご機嫌をうかがって、KKが望むことを望む時にしてあげるのも、もううんざり。パーカーは私が誰かとやり合ってるとき、どっちの味方なのかよくわからない顔してるし、いったいどっち陣営なのか、はっきりしてちょうだいって感じ。ジェイソンはなんだか裁判官みたいに全部お見通しだよって顔して、実際は私のこと何にも知らないくせに、いちいち知った風なこと言ってくるし、カスピアンは出オチがどれくらい長持ちするのかわかってないし、ヨハンは遊びと本気の区別がついてない。わかってないって言えば、フレデリックもはき違えてるわ。私が彼を呼んだのは、サム、あなたの世界を揺さぶってほしかったからなのよ。―これじゃ、私の計画がめちゃくちゃじゃない」

「かわいそうなイルサ」と、ジェイソンがすすり泣く真似をする。見れば彼の手には、お酒のボトルが握られている。

「サムのラザニアを食べて、そんなに気持ちがむかむかしちゃったのね」とKKが言う。「たしかにあれはひどかったわ」

僕は窓の隙間にペーパータオルを詰めてから、妹のそばへ歩み寄った。「そっか」と僕は声をかける。「色々気を回して大変だったね。少し横になった方がいいんじゃない? 僕らはデザートを食べるけど、君は寝室に行って...」

僕は声をかけただけで、彼女の手を引こうともしなかったのだが、彼女は「触らないで」と言わんばかりに僕をはねのけた。

「横になんてなりたくないわ! あなたは私の親じゃないでしょ、サム―あなたは私の兄よ。私ったら何を言ってるのかしらね。―ちょっと一人になってくるわ。心配しないで。横になりたいわけじゃないけど、少し一人になりたいの」

今度は彼女の気持ちを理解できたけれど、気づくと僕は「行っちゃうのか?」と聞いていた。

「うん。ごめんね」

それから彼女は、家の鍵とか財布とかを取りに行くことなく、コートも持たずにすたすたと部屋を出て、廊下を歩いて行くと、そのままアパートメントの玄関を出て行った。玄関のドアが開く音が聞こえ、彼女が出て行ったあと、バタンとドアが閉まった。

「彼女を連れ戻しに行ってくる」とパーカーが言う。

「いや」と僕は彼を制する。「僕が行くよ」

「一人にさせてあげなよ。彼女は溜まったうっぷんを外で吐き出したいんだから」とKKが忠告する。「ちゃんと戻ってくるわよ。どこにも行く場所なんてないでしょうし」

「良い友達を持ったな!」とジェイソンが感想を述べる。「君は彼女みたいな親友がいてラッキーだ! 要するに、彼女は君みたいな親友がいてラッキーだってこと!」

それでもパーカーは出かけようとした。しかし、そこにリーが体を張って立ちふさがった。

「だめ」と彼女は両手を広げて言った。「私が行く」

パーカーがぶつぶつと文句を言い始めたが、リーがピシャリとそれを遮って、彼を黙らせた。

「私だけなのよ! さっきの彼女の熱のこもった演説を思い出してみて。次々と名前を挙げて、不満をぶつけていったけど、私だけ標的にされなかったのよ。あなたもサムも気づかなかったでしょうけど、私にはわかったの。ここは私の出番なのよ」

「あたしじゃ役不足ってこと?」とKKが聞く。

リーはKKの全身をざっと眺めてから、言った。「あなたはここに残って、私が私の友達を探しに行ってる間、自分自身にその質問を問いかけてみたらどうかしら?」

そう言い残すと、彼女は出て行った。再び玄関のドアが開いて、バタンと閉まる音が、僕たちのいるリビングルームまで聞こえてきた。

「誰かお酒飲みたい人?」とジェイソンがボトルを掲げる。

カスピアンがソファの隣の空きスペースをポンポンと叩いて、KKがそのラブシートに戻った。

僕は視線を横にスライドさせ、パーカーのところで止める。

「俺を見るなよ!」と彼が言う。「俺は暗闇で何もしなかったよ!」

さらに視線をスライドさせ、ヨハンを見た。

彼はにっこり微笑んで、僕に聞いてきた。「デザートの時間でしょ?」



11

イルサ


「どうしたの?」とリーが私に聞いてきた。私は屋上に出るドアを開けたところだった。「ドアを開けたとたん、雷が落ちてきて、あなたのビッチな心臓を貫いたとか?」

私は笑った。リーも通用口を通って、私に続いて屋上に出た。私は屋上の隅にある物置小屋に行って、中から厚手の毛布を取って来た。そして、それをウッドデッキにかぶせて座れるようにした。ウッドデッキはひさしのついたあずまやの下にあって、ひさしの上にはびしょ濡れの葉っぱがいくつもくっついていた。ひさしから雨水がしたたり落ちている。でも嵐はすでに過ぎ去り、雨自体は止んでいた。周囲には、息をのむような摩天楼の絶景がくっきりと浮かび上がっている。湿気を帯びた新鮮な夜気が、私の頭の中に巣食った邪念も浄化してくれるかと期待したけれど、そこまでは無理みたいだった。

私たちは(ほとんど)湿り気のない毛布の上に並んで腰を下ろす。私は言った。「突発的なものよ。ランダムに雷に打たれたって感じ。兄がリビングに戻ってきて、彼があの表情で私を見てきたから、いたたまれなくなっちゃったの。何も間違ってないよって言ってるみたいな、彼らしい笑顔よ。実際は何もかもが間違ってるっていうのに。サムの馬鹿みたいに優しい表情を見たら、急にサムが憎らしくなったの。突発的な嵐に見舞われたみたいなものね」

「彼と一緒にいると、よくそういうことってあるの?」

「よくってことはないけど、一旦嵐に見舞われると、猛烈な暴風雨になるわ」リーはいつも極上のチョコレートを持って来てくれるし、彼女には敬意を持って接する必要があるわね。実際よりも良く思われようとか、飾った発言はできない。私は本心を打ち明けることにする。「雷に私のビッチな心を突然打たれたとかじゃないわ。常に私の中には、そういう邪念がひそんでいるの」

「信じられないわ。それはたぶん、心がビッチなんじゃなくて、表面的にビッチなふりをしてるだけよ」そう言ってくれる彼女も、私の中にひそんでいる別の貪欲な邪念―甘いものへの飽くなき欲求―についてはよくわかっているらしく、彼女は手に持っていたハンドバッグを開けると、中からチョコレートの箱を引き出した。きっと私を追いかけてくる時に、つかみ取るようにして持って来てくれたんだわ。彼女はその箱を開けると、私の前に差し出した。私はその中から、私の好きなモカ味っぽいチョコを選んで、つまむ。もし中に気持ち悪いレモンフィリングとかが入っていたら、(いったい誰がチョコレートの中にそんなものを入れようなんて考案したの?)半分かじっただけで箱に戻したくなるだろうけど、たぐいまれに心がきれいなリー・チャンには敬意を表さなくちゃだから、そんなことできない。

一口かじってみる。モカだ! 私は気を良くし、さらに心の内を打ち明ける。「あなたの言ったこと間違ってるわ。私は元々ビッチな心を持って生まれたの。良いDNAは全部サムが取ったのよ」

「ビッチな心って言っても、あなたの命を奪うほど邪悪じゃないでしょ? 共存して生きていけるわ」

「それこそ私が恐れていることなのよ。私は生き残りたくないの。黙示録にあるような世界の終末が訪れたとき、私は真っ先に死にたいの」

「そうとも思えないわね」とリーが言う。「大西洋の海水が溢れて、ブルックリンを飲み込んで、マンハッタンまで押し寄せてきたとして、私の知ってるイルサは、きっとエンパイアステートビルの頂上に立って、船員に向けて色目を使って船を引き寄せて、その船に積まれている救命用のゴムボートを、水面で助けを求める人たちに投げているわ」

「どうかしらね。私は高所恐怖症なのよ」私たちはスタンウィック邸の19階フロアの上にいた。実際は18階建てなんだけど、マンハッタンの古い建物のほとんどには、不吉な数字の「13階フロア」が存在しないから。先人たちはここに住む住人たちの魂に直接、迷信を擦り込む方法を知っていたってことね。何世代にも渡って、ゴーストストーリーが耳打ちされてきたのよ。18階にしろ19階にしろ、―私はこの高さで快適には暮らせない。でも、たまにこうして屋上に来て、恐怖心に立ち向かうのもいいのよね。それで恐怖心を打ち負かせるわけではないんだけど、そのせめぎ合ってる感覚が好きなの。「私はここに来たら、いつもこのあずまやの下に座るの。だって屋上の中央にあるから。端っこなんて歩いたらもう、足が震えて、気が動転しちゃうわ」

「私も端を歩いたら、どうかしちゃいそう!」とリーが言う。 「で、私たちってこんな高いところで、いったい何をしてるのかしらね?」

「私の場合は、女帝のマンションへの出入りが禁止されちゃった時、ここに上って来るのが好きなの。何年か前にね、このスタンウィック邸が分譲マンションとして売りに出されることになったんだけど、賃金統制を放棄したくない人たち、つまり立ち退きに応じないおばあちゃんたちは、屋上への出入りが禁止されちゃったの」

「ひどい話ね」

「それが不動産っていうものよ。って女帝が言ってた」

「でもあなた、この屋上デッキに出る扉の鍵を持ってるみたいじゃない。さっきあなたが鍵を差し込んで開けてるのを見たわ」

「女帝が、屋上の植木とかを手入れする造園業者の人と恋仲になったのよ。彼が彼女のためにこっそり合鍵を作ってくれたの」

「あなたのおばあちゃんって、問題解決プログラムの人間版っていうか、さきがけね」

「なんでそういうこと言うの?」

「このゆったりしたムームードレスを着てるからかな。すごく快適だから、気持ちも開放的になって何でも言えちゃう。うぬぼれてるって思われたくはないけど、このドレス、私にすごく似合ってると思うのよね」

「うん、似合ってる。それも女帝の手作りなのよ。彼女は裁縫に関しても、奇跡の腕を持ってるの。どんな布でもファッショナブルで、見違えるようなドレスに仕上げちゃうから、毎回驚かされるわ」

「そんなに才能があるのに、どうして彼女は自分で起業したりしなかったのかしら?」

「起業したわ。昔の話だけど、彼女の兄と一緒に衣料品店を立ち上げたの。でも倒産しちゃった。二人の間に何があったのかは知らないけど、二人の関係は最悪なの。女帝は、サムと私が生まれる前から今までずっと、お兄さんと話もしてないのよ」

「あらまあ」と言ったきり、リーは黙り込んでしまった。その沈黙は、私の恐れていることが彼女に伝わったことを物語っている。サムと私も、いつか女帝とお兄さんみたいな関係になるのではないか。名前さえ口にしない関係の兄と妹。お互いに死んだものと思って、無関心に生きる元パートナー。

二人の確執はビジネスの失敗だけが原因ではなかった。この賃金統制のかかった安く住めるマンションをめぐって二人は争ったのだ。元々は彼らの祖父母に賃貸されたマンションなんだけど、どっちが権利を譲り受けるか骨肉の争いを繰り広げた結果、女帝が勝ち、お互いに口も利かない、顔を合わせもしない関係になったらしい。

私は口を開く。「サムと私はそんな関係にはならないわ。私は年の離れた兄と妹がどんなものなのか知らないし、っていうか、双子の関係もさっぱりわかってないけどね。本当に同じ子宮の中で一緒に過ごしていたのかって信じられないくらいよ。おそらく彼はのらりくらりと大人しくしていたんでしょうね。中からお腹を蹴ったりしてママを困らせていたのは、きっと私の方ね。胎児の記憶までさかのぼっても、私はサムが憎らしいのよ」

過ぎ去った嵐は、風の尾ひれを残していった。屋上に吹きすさぶ風は冷たかった。紫のムームーを着たメリー・ポピンズみたいに優しいリーは、ハンドバッグから長めのショールを引っ張り出すと、私に片端を手渡して、私たちは肩からショールにくるまった。ハーフタイム中に円陣を組んで作戦会議でもしているみたいだ。「どうして彼がそんなに憎らしいの?」

「わかんないわよ!」私は怒鳴りはしなかったけれど、それに近い声を上げた。肌は寒かったけれど、体内では血が沸き立つようだった。

とは言ったものの、なんとなくわかっていた。

サムが憎らしいのは、彼がパーカーを今夜のパーティーに招待したから。私がパーカーを見た瞬間、どんなに私の心が傷つくのかを知ってて呼んだの。パーカーはもう過去のことは忘れて前を見ているからってことで呼んだんでしょうけど、私はまだ引きずってるのよ。サムと私でパーカーの気持ちを奪い合うみたいな闘いはもうこりごりだわ。サムとパーカーの友情の方が強いから、サムが勝つに決まってるんですもの。それをサムが当然のように思って、パーカーと仲良くしてるのも憎らしいわ。私はパーカーへの想いを断ち切ったつもりでいても、サムを通じてパーカーを思い出しちゃうのよ。―サムのスマホをちらっと覗けば、パーカーとやり取りしてるし、隣の部屋からサムとパーカーの楽しそうな笑い声が聞こえてくるし、彼らは私が隣の部屋にいるって気づいていないんでしょうけど。この女帝の家で行われる最後のディナーパーティーに彼を招待したのは、完全にサムの確信犯ね。そうやってサムが私にパーカーの影をちらつかせてこなければ、もっと簡単に私の気持ちは彼から吹っ切れたのに。―サムは残酷なのよ。パーカーがどっち陣営につくか、常に試してるんだから。そんな三つ巴の争いしたって誰も得しないのに。責任がサムにあることを証明できないのはわかってるけど、私はサムに責任を取ってほしい。

彼が憎らしいのは、女帝とママとパパが、愛情に関しては私たちを二人とも同じように愛しているんでしょうけど、好きかどうかで言えば、私より彼の方が好きだから。

彼が憎らしいのは、誕生日を毎年一緒に祝わなければならないから。

彼が憎らしいのは、サムがピアノのレッスンを受けて、私はダンスのレッスンだったから。彼はバークリーみたいな世界有数の音楽大学に合格するくらいすごい才能があって、私は全然ダメダメで、毎回レッスンから帰った後はベッドに突っ伏してへこんでいた。ダンスで有名な大学に入れるほどの才能なんて全くなかったし、私はさっさとやめちゃったわ。サムはバークリーに合格はしたんだけど、―入学を辞退したのよね。

彼が憎らしいのは、私たちは同じ子宮から生まれてきたっていうのに、全然違う人生を歩んでいるから。彼はたとえ何かドジを踏んでも、実質的な影響を受けることなく、白人男性の特権をまとってこれからものらりくらりと生きていくのよ。私は本音を隠さず自分の気持ちに正直に突き進むだけだから、私の心はどんどんビッチになっていくでしょうね。

彼が憎らしいのは、彼は何かに心が傷ついても、全部胸の内に秘めておくから。私は何か嫌な事があれば、彼を頼って彼に相談するのよ。なのにどうして彼は彼の問題を私に打ち明けてくれないの?

憎らしいのは、こういうことすべてにちゃんとした理由がないから。私はただ、怖いの。そして何もかもが変わって行く、たぶん良くない方向へ。

「きっとあなたはわかってるんでしょうね」とリーが言う。

「そうね。あなたの言う事はいつも正しいわ。私が彼を憎らしいと思うのはね、何か嫌な事があると、サムは流れに身を任せる感じで切り抜けちゃうからよ。私の場合は、カッとして居ても立っても居られなくなって、とにかく何か行動に出るのに、彼はそんな時でも平然と落ち着き払っているの。上辺だけ何でもないふりをしているのがバレバレなのに、本心を隠そうとするのよ。彼はどこか頭のネジが外れてるのよね」

「平然と穏やかでいるなら、何も気にすることないんじゃない? それって彼の良いところじゃないかしら?」

「彼が穏やかでいればいるほど、私のビッチさが浮き彫りになるからよ」

「自分でそんなこと言わないで。そんな単純なことではないでしょ」

もちろん単純な問題じゃないわ。私はいついかなる時でも、この不安感を胸に抱えて生きてるの。自分を演じることで、不安な気持ちを外に吐き出しているんですって。少なくとも、私がかかっているセラピストが言うにはね」

「あなたも処方されてるかもしれないけど、そういうのに効く薬があるわ。私はそれを飲んで、気持ちを落ち着けてるの。すごく効くわ」彼女は笑って言う。「って言っても、雷の時は全く効かないんだけど、―少なくとも私の場合はね」

ささやくように私は言う。「怖いわ」

「薬が?」

「そういうのを飲むと、私が変わっちゃう気がして。私の世界にフィルターがかかるっていうか、どんよりした曇り空みたいな絵の具で塗り替えられちゃう」

「私はそういう風には感じていないわ。今でも時々パニックになることもあるけど、前よりはずっとまし。薬を飲み始めてからは、うまく不安をコントロールできてる気がする。前はね、不安に襲われると、身動きが取れなくなっていたの。でも今は、少なくとも何とか対処しようとはするわ。薬を飲んでも何も状況は変わらないけど、屋上の端っこを少し広げてくれる感じかな。あなたが飛び降りても落ちないように」リーはそっと私の腕をさすった。彼女が私のすさんだ心を癒してくれている。「大丈夫よ」

それでもまだ、私の心は痛んだ。私はサムの元カレが大嫌いだし、サムが次から次へとキュートな男の子を好きになっていくのも、いけ好かない。私はパーカーだけにこだわってるっていうのに、彼はハーレムみたいに何人もの男子を周りにはべらせて、いい気なものだわ。時々私は、パーカーへの自分の気持ちがわからなくなる。自分の気持ちにまっすぐ向き合ってみると、パーカーにこだわってるというよりは、パーカーが私をふったという事実に、あの時の心の痛みにこだわってるのよね。「ジェイソン・ゴールドスタイン・チャンが、私はひどい女だって言ったの。その時、サムは私をかばおうともしなかったわ」

「ジェイソンは、KKもひどい女だって言ってたわね。彼女は実際そうだけど」

「私はKKのことが好きっていうか、好きなところもあるんだけど、それってやばいかな?」

「やばくはないけど、なんかイライラする」

私は少し笑ってしまった。最後の説明がツボに入ったというか、そう言うかなと思ったところだったから。「なんでイライラするの?」と私はあえてリーに聞いてみる。

「だって、私はもっとあなたと一緒に過ごしたいのよ。それなのにKKがあなたを独占しちゃうから」

「そっか、その問題はどうしたらいいんだろう」私は必死に抑えようとしたけれど、私の口元からぽろぽろと、笑みの切れ端がこぼれ落ちるのを感じた。「じゃあ、あなたも、私たちみたいにひどい女になってみるっていうのはどう?」

「そうね、なってみようかしら。じゃあ手始めに下に戻って、ドリー人形を何体か踏みつぶしましょ。それから、カスピアンを靴の中に突っ込むの。靴下は靴に入るって決まってるんだから。そしてサムを指差して、こう言うの。あんなくそまずいラザニア作ってんじゃねえよ

「わお、リーって野獣ね。私にはそこまで思いつかなかったわ」

「私たちはもっと一緒に過ごして、もっとお互いのこと知るべきね」

たしかに。でも、どうしてあなたはクイーンズ地区なんかに住んでるの?」

「クイーンズ行きの電車があるから」

「けど...すごく遠いわ」

「もう4年間、高校からずっとクイーンズからマンハッタンまで通ってるのよ。大学でも同じことを続けるだけだから、なんてことないわ」

「あなたが住んでるところって、インド料理が美味しいって聞いたわ」

「そうね」

沸き立っていた体内の血が鎮まっていくのを感じた。高鳴っていた心臓の鼓動もスローダウンしつつある。私は言う。「私には不安を抑える薬は必要ないみたい。あなたがそばにいてくれれば、私は大丈夫そう。またビッチな心が暴れ出したら、そばにいてね」

「不思議なんだけどね、あなたの心を落ち着けてると、私の心まで癒されるのよ。あなたの役に立ってるって思うと、私自身の不安感は完全に消えちゃうの」

「あら、ビッチな心を慰めてくれたのって、無償の使命感に駆られてとかじゃなかったの?」

「まあ、完全に無償ってわけじゃないわね」

「どっちでもいいわ。とにかくありがとう」チョコレートとショールと、それからリーのぬくもりに感謝した。「やっぱり屋上っていいわ、静かだし」

私たちは顔を近づけて、しばらく見つめ合っていた。そしてお互いの体に引き込まれるように、自然と抱き合う。それからふいに、リーの唇が私の唇に重なった。今までにしたキスの中で最も予期せぬ、そして最も甘いキスだった。柔らかいリーの唇から、私の全身に熱いものがぞくぞくと広がっていく。くらくらする頭で、これ以上気持ちのいいキスは、今後も経験できないかもしれないな、と思った。彼女の吐く息から、さっき彼女が食べたペパーミント風味のチョコレートの香りがした。

彼女が体を引き離す。「ごめんなさい! これはなんて言うか...してもよかった?」

「ちょっとびっくりしたけど。でも素敵なキスだった」

「本当?」

「うん」私はリー・チャンのことを深く知る前に、私の兄をちゃんと理解する必要がある。リーは、私が思っていた以上にやばい人みたいだし、彼女の魅力にはまり込む前に、身を引かなきゃ。私は顔をかすかにそむけて、もうこれ以上唇の関係を続けるつもりはないことを示そうとする。―それでもすぐそばにお互いの唇はあって、彼女が私たちのそういう関係に未来はないって気づいてくれるかは微妙な距離。―そうだ。「サムはまだ知らないんだけどね、私は今度、マディ・ホーグのお守り役をやることになってるの。ホーグ家が女帝のマンションの所有者になったら、私はここに住み込んで働くのよ」

「重大発表があるってそのことだったの? で、まだサムに言ってないわけ? 心配しなくても彼は怒らないと思うわ。あなたがここに住むのなら、彼は喜ぶはず」

「それが問題なのよ。私は彼に怒ってほしいの。カンカンに、怒らせたい」

「だったら彼にちゃんと話して、二人でとことん話し合いなさい」

「私たちは、女帝とお兄さんみたいな関係にはなりたくないの」

リーが私の目の中をじっと見つめてきて、言った。「大地震みたいな一大事があなたの人生に起こったら、その後どうなると思う?」

「すべてが変わってしまう」

「そうね。でもあなた自身は変わらないわ。あなたはそれが起こる前と同じ人のままよ。サムも変わらない。あなたの性格や心は今のまま、変える必要ないの。たとえ周りの環境が変化してもね。重要なのは、その時にどう対処するかってこと。大地震の後は、いろんなものが降りかかってくるでしょうけど、対応力で乗り切るのよ」

まあそうでしょうね、と軽く受け流すこともできるけれど、たしかに理にかなったことを言っている。「私はひどい人じゃなくて、もっといい人になりたい」と私は本心を言った。

リーが私の手を取って、そっと包み込むように握った。友達以上恋人未満の感触。どっちにも傾きそうな、危ういぬくもりが伝わってきた。「あなたの恐れていることに立ち向かうのよ。大丈夫。私もついてるから」と彼女は言って、私の手を握ったまま立ち上がる。私もつられて立ち上がると、肩からショールが落ちた。間近で見る彼女の髪は、今まで気づかなかったほどになめらかそうだった。絹のような黒髪がセクシーな曲線を描いて、ムームーの下に入り込んでいる。彼女も間近で私を観察しながら、私のドレスにたくさん描かれた猫ちゃんの中の1匹を指差して、言った。「カスピアンが言ってた通りだわ! ジェラルディンは本当に虚ろな目をしてる」

「今夜のパーティーの参加者の中で、あなたのお気に入りはカスピアン?」

「もちろん違うわ。私のお気に入りは、あなたよ」

彼女は私の手をしっかりと握りしめ、エレベーターの中へと私を連れ戻した。

女帝のアパートメントに戻ってみると、サムとイルサの最後のディナーパーティーは、最悪の展開になっていた。

サムがピアノを弾いていて、ヨハンが寄り添うようにバイオリンで伴奏している。あのバイオリンはたしか、女帝の3番目の夫(あのインチキ男!)がここに置いて行ったものだ。パーカーはマイクを口に当てて感傷的に歌っている。一方、カスピアンとKKとフレディが、ソファで仲良くいちゃついている。ジェイソンはサムにちょっかいを出したいのか、すっかり酔っ払った様子でふらふらとうろついている。

パーティーは良いムードで進行中じゃないか。

私がいなかったにもかかわらず。

てっきりみんなが私のことを心配してるんじゃないかって思っていたのに。私はグランドピアノまでつかつかと歩み寄り、鍵盤の上を軽やかに跳びはねるサムの指に、鍵盤カバーを叩き付けてやろうとしたのだが、間一髪のところでリーが私の腕を引き止めた。

音楽が途絶え、陽気な空気が一瞬止まり、みんなの視線が私とリーに向く。

リーが言う。「さあ、盛り上がっていきましょう。弾き続けて、サム」



12

サム


べつにお酒を飲むことについてとやかく言うつもりはないけれど、友達がめったやたらに飲んでいるのを間近で見るのは、楽しいとは言えない。

僕はピアノにすがるように指を動かす。弾き続けてさえいれば、誰も「全然飲んでないじゃないか」とか言って、僕にお酒を勧めてこないから。僕は陽気なリズムを刻み続ける。―ガーシュウィンとか、ラグタイムの曲を連ねてゆく。

誰も聞いていないことは薄々気づいている。

彼らは女帝がお酒をしまっているキャビネットを襲撃中だから。実際はキャビネットというより、クローゼット並みの広いスペースなんだけど、そこに女帝のコレクションが並べられていて、イルサがその中から適当に見繕って、みんなに分け与えている。さながら彼女がフローレンス・ナイチンゲールに見えなくもない。外では強風が吹き荒れている夜の女神だ。

僕はそれを横目に弾き続ける。弾くのを止めたら、僕が「そんなことしちゃまずいよ」とか言う役目を担わなきゃいけない。そんな役回りはもうこりごりだ。

誰か他にその役を引き受けてくれる人はいないだろうか。

誰かこの部屋に入って来てくれないだろうか。

僕の願いはむなしく、誰も入って来ない。

ヨハンがバイオリンを弾きながら、イルサにジン・トニックを作ってほしいと頼んでいる。ジェイソンは、マラソンの後のゲータレードのように、ウイスキーをがぶ飲みしている。あえてKKたちのいる方は見ないようにする。そこで何が繰り広げられているのか知りたくもないから。パーカーは窓の下枠のところにビールを7本並べている。リーはお酒を飲んでいないみたいだ。イルサも今は飲んでいない。ただ、女帝のコレクションからの略奪品をみんなに一通り配り終わったら、イルサも飲み始めるのではないか。

僕はヨハンにこのまま僕のそばでバイオリンを弾いていてほしいと願う。彼の伴奏はとっても気持ちいい。僕たちは一言も言葉を交わすことなく、息がぴったり合っている。彼のストリングスと、僕の鍵盤が奏でる振動が、重なり合って宙に舞う。

しかし今、ヨハンはイルサが言ったことに対して笑っている。

僕は負けじとピアノの音を強める。他の音が彼の耳に入らなくなるくらいに。

そんなの無理だ。

たぶんこれが、僕が人前でピアノを弾かなくなった理由なんだろう。周りにたくさんの人がいる中で弾いても、僕にはみんなをうっとりさせて、演奏に惹き込むことはできない。

そうして僕は自分以外の人に向けて弾くのをやめた。

でも、それが直接の原因ってわけじゃない。実際のきっかけはオーディションだった。僕は昔から行きたかったジュリアードの入試に落ちたんだ。ジュリアードはニューヨークで最高の音楽大学だし、この街に誇りを持ってるニューヨーカーとしては、この国で一番の音楽大学だと思ってる。準備は万全だったし、直前のリハーサルもノーミスで完璧に弾けた。しかし、控え室で自分の名前が呼ばれるのを待っていると、水かさが増えていくように、僕がこれから挑もうとしていることの重みがどんどん増していって、息苦しくなった。すっかり動揺してしまった僕は、試験室に入るように、と自分の名前が呼ばれている声も耳に入って来なかった。何度か名前を呼ばれ、ようやく我に返った僕は、慌てふためきながら演奏に突入した。今こそ輝くチャンスなんだと自分に言い聞かせていたら、頭の中で言葉ばかりが大きく鳴り響き、肝心の音楽は全然聞こえてこなかった。そして僕はミスった。大したミスではなかったけれど、僕を焦らせるには十分だった。なんとか立て直そうとバタバタもがいているうちに、演奏は終わった。ミスタッチの回数自体はそれほど多くなかったし、よく最後まで弾ききったと自分を納得させていたんだけど、―ジュリアードが求める水準はそんな程度ではなかった。

家に帰って、僕はそのことを胸の内に秘めておくことができず、すべてをイルサに打ち明けた。

彼女の反応? 彼女は僕にこう言った。「プレッシャーに耐えられないんだったら、プレッシャーの中に身を置かなきゃいいのよ」

彼女らしいアドバイスだなと思ったけれど、彼女のばっさり斬るような言葉に、僕の気持ちをつなぎとめていた一条の光は、その風圧だけでフッと消えた。

「リクエストしてもいいか?」

肩越しに聞こえた声は、ジェイソンのものだった。彼の酒臭い息が吹きかかってくる。もうだいぶ深いところまで酔っ払っているようだ。

「もちろん」と僕は返す。

「『How Can You Mend a Broken Heart?』(失恋のこの痛み、どうしてくれるんだ?)を弾いてくれないか?」

僕は首を振る。「その曲は知らない」

「じゃあ、『Guess I’ll Hang My Tears Out to Dry』(この涙が乾くまで、もうすぐだから)はどうだ?」

彼の選曲のテーマから、何が言いたいのかが伝わってくる。僕は言う。「ジェイソン、やめてくれ」

彼がピアノの側面を平手でバンと叩いて、「しけてんな」と言った。「しょうがない。『You Belong to Me』(あなたは私のもの)で手を打つよ。―スタンダードバージョンでも、テイラー・スウィフトバージョンでも、どっちでもいい」

「テイラー・スウィフトの曲は『You Belong with Me』(あなたは私とつながっている)だと思うけど」

「知らねえよ。お前は俺のものなんだよ」

僕はジャズのスタンダード『Smoke Gets in Your Eyes』(煙が目に沁みる)を弾いていたから、彼のリクエストには応えず、そのまま『Smoke Gets in Your Eyes』を弾き続ける。

「ジェイソン、君は相当酔ってるね」と僕は彼の顔をチラッと見る。

「お前はしらふみたいだな。つまんねえやつだ

「お二人さんの間に何か問題でも?」とヨハンが滑り込むように割って入ってきた。

「いや、なんでもないよ」と僕は返す。

「あんたが飛んで来るまでは問題なかったんだけどな」と、ジェイソンが吐き捨てるように言った。

「それはどういう意味?」とヨハンが聞き返す。

「そのままの意味だよ。感じたまま受け取ってもらってかまわない」とジェイソンが答える。「つまり、あんたが問題だって言ってんの。ぽっと出のくせして。そんな簡単に、サムをさらって行けると思ったら大間違いなんだよ。もっとじっくり時間をかけて、せいぜい頑張んな」

「いや、僕は誰にもどこにも、さらわれるつもりはないよ」と僕は指摘する。僕は二人のはざまで気持ちが速り、指の動きもつられて速まる。あからさまにミスタッチをしてしまうが、僕は弾き続ける。

ヨハンがジェイソンの手から、ラベルに〈Maker’s Mark〉と書かれたウイスキーのボトルを取り上げようとする。

「ほら」とヨハンが言う。「それをぼくによこせ。君は代わりにコーヒーでも飲んだほうがいい」

しかし、ジェイソンは抵抗して放そうとしない。二人はボトルを両側から握りしめて、引っ張り合っている。「彼女だろ? イルサがあんたを俺たちのところに送り込んだんだな。イルサ、俺はお前が大っ嫌いなんだ!

「お互いさまよ!」とイルサが叫び返した。

ジェイソンが急に力を抜いて、ボトルを手放した。勢い余ったウイスキーのボトルが、ヨハンがもう片方の手で持っていたジントニックのグラスにぶつかった。カシャンというグラスの割れる音がしたかと思うと、さらにくぐもった破裂音が続いた。ボトルとグラスが絨毯に落ちて割れたのだ。

「まったく!」と僕は叫び、演奏を中止して、ピアノの椅子から飛び降りる。「まだ他にも何か問題が起きそうなことある? 先に教えといて」

僕は返事を待たずに、急いでキッチンへ向かった。さっきの追加でペーパータオルと、それからほうきとちりとりを取って来るつもりだった。廊下に出た瞬間、ステレオから爆音でラップが流れ出した。僕がピアノの演奏を中止して、まだ2秒ほどしか経っていない。ケーキ1個分の価値しかないドレイクのラップが廊下まで鳴り響く。そういえば、さっきリーがステレオのそばで操作ボタンをいじっていた。リーはケーキが大好きだし、この曲を流したくて、僕が演奏をやめるのを待ち構えていたってことか。

僕がリビングに戻ると、ヨハンとジェイソンはまだお互いの体を小突き合っていた。下に落ちたグラスとお酒はほったらかしだ。絨毯に染みたお酒の臭いを隠すには、世界中の〈アルトイズ・キャンディー〉を集めて、この部屋に敷き詰めなくてはならないってのに。

「やめてくれ!」と僕は叫ぶ。なぜ誰も二人の仲裁に入ろうとしないのか不思議だった。二人が僕のために争ってるとか言ってるのではなく、一般的に言って、こういういがみ合いは良くない。イルサは何食わぬ顔で、リーのためにカクテルを作っている。

ヨハンは小競り合いをやめて体を離そうとしたが、ジェイソンはしつこくヨハンのパーソナルスペースに居残ろうとする。

パーカーが僕の手から、ほうきとペーパータオルとちりとりを取った。

「サムはジェイソンをどうにかしてくれ。こぼれたお酒は俺が片付けるから」と彼は言う。

こぼれたどころじゃないだろ、と僕は言い返したかった。これを元通りの状態に、きれいにするのは、絶対に無理だ。

すでに染みができている。

僕たちが残した汚点になってしまう。

しかし、ジェイソンをここから追い出さなければ、彼はさらに〈Maker’s Mark〉(染み作り)のウイスキーを持ち出して、もっと多くの染みを作ることになるのが目に見えていた。それで僕は彼の袖を引っ張り、ヨハンから引き離そうとする。

「なんだよ?」とジェイソンが怒鳴る。

「タイムアウトっていうか、一旦休憩しよう」と僕は彼に告げる。「ちょっとついて来て」

僕が強く袖を引っ張ると、彼はよろめくように転んだ。ちょうどKKが笑い声を上げたけれど、転んだジェイソンを見て笑ったのかは不明だ。見れば、カスピアンが指先というか顎の先を使って、KKをくすぐっていたから。

「どこへ行くって言うんだ?」とジェイソンが聞いてくる。

「僕の部屋だよ」と僕は答える。キッチンなんかに行ったら、それこそお酒に囲まれることになる。

「マジかーー。よく覚えてるよ、あの部屋

彼が覚えていることは、僕が覚えていることと同じではないと断言できる。それが原因で、彼と別れるのが大変だったんだ。彼が覚えているのは、キスとかセックスとか、そういう表面的なことで、僕がどれだけ孤独を感じていたのか、そういうことを彼は全く感知してくれなかった。彼がそばにいる時でも満たされない気持ちを抱え、僕はずっと、何かが足りない、と思い続けていた。そんなことを思っても不安感は消えなかったし、入り組んだ自意識の揺れは、どんどん僕の内側へと向かって行った。時には彼の存在が気を紛らわせてくれて、恐怖心が和らぐこともあったけれど...それは一時的なしのぎでしかないこともわかっていた。彼が帰るとすぐに、―というか彼が帰る前からすでに、―僕の心は、コンパスの針が北極を指すように、最悪のシナリオを探す方向へと向かい、ひどいことになりそうな火種を考え続けていた。

「君がこんなにたくさんお酒を飲むなんて、僕は初めて見たよ」と僕は彼を肩に抱き、廊下を歩きながら言った。「新境地を切り拓こうとか?」

「これから大学に入るからな、予行練習だよ!」と彼は答える。

意図的かどうかはわからないけれど、彼のその発言で、僕たちが別れ話をした時の場面が思い出された。僕が彼に、もう関係を終わらせよう、と言った時のことを彼も思い出しているようだ。彼が秋にボストンに行くから、一緒に行こうと言ったのに、僕はここに残ると言った。彼と別々の場所で暮らしたいから、なんて直接的なことは言わなかったけれど、彼はそう受け止めただろう。彼が僕の本当の気持ちに気づいていないとか、内面を打ち明けても仕方ないなと思ったし、僕が勝手に不安や物足りなさを感じていただけだから、それを彼にぶつけるのはフェアじゃない気がした。彼を内側に入れようとしなかったのは、僕の方なんだ。だから内面を理解してくれないとか、彼を責めることはできない。代わりに、僕は全部ボストンのせいにすることにした。

彼は僕の部屋に入るなり、一目散に本棚に直行した。「よし」と彼は言い、ネイサン・イングランドの短編小説集を本棚から引き抜いた。「これは俺があげたやつだよな」

僕はうなずく。

「サムにプレゼントしようって買って来たんだ。あの夜のこと覚えてるか?」

僕は覚えていなかったけれど、うん、とうなずいた。

彼はしばしの間、愛おしそうな眼差しをページのはざまに落としながら、その本をペラペラとめくっていた。まるで僕たちの歴史が書かれた本を眺めるみたいに。それから彼はそれを本棚に戻し、今度は僕をじっと見つめてきた。

「なんで俺をここに呼んだ?」と彼が聞いてくる。

「正直に言うと、あれ以上リビングを汚してほしくなかったから。ここに連れて来て何かしようっていう下心はないよ。単にインテリアを守りたかっただけ」

彼は頭を振る。「そうじゃない。この部屋じゃなくて、なんで俺を今夜のパーティーに呼んだんだ? ゲストリストから俺の名前は外されたんじゃなかったのか?」

「君に会いたかったからだよ」

ブッブゥーーーー」とジェイソンが、不正解の電子音を真似て、うなり声を上げた。「もう一度チャンスをやろう」

もう一度チャンス?

「君を招待したのは...もうすぐ、僕たちは離れ離れになっちゃうし、―」

ブッブゥーーーー。それじゃない」

「え?―だって、もうすぐ君はボストンに行っちゃうんだろ?」

ブッブゥーーーー

「どういうこと?」

ブッブゥーーーー

僕は段々とじれったくなってきて、「いったい何を言わせたいんだよ?」と少し声を荒げる。

「お前が俺をこのパーティーに呼んだ理由を言わせたいだけだよ」

「だからもう言ったじゃないか! 君に会いたかったからだって」

ブッブゥーーーー

「君は僕の友達だからだよ」

ブッブゥーーーー

「もうやめてくれ!」

ブッブゥーーーー

「君にそばにいて欲しかったから」

ブッブゥーーーー。正直に言え」

「正直に言ってるよ!」

ブッブゥーーーー。これがラストチャンスだ。お前はどうして俺を呼んだ?」と彼が叫んだ。

「むしゃくしゃしてたからだよ!」と僕は叫び返した。「これでいいかい? 僕はむかついてたんだ

ピンポン、ピンポン、ピンポーン!

「でも、君に会いたかったっていうのも本当だよ!」

「だめ、だめ。―もう取り繕ってもだめだよ。お前はむかついてたんだ。だから俺をここに呼んだ。そうすれば、むかつきが少しはおさまると思ったか? それは俺に対してフェアな行為か? 傷心パーティーに呼んでおいて、俺はお前をいい気分にさせる役割か?」

いや、傷心パーティーに呼んだつもりはないよ」

「お前は俺をふっただろうが!」

「関係がうまくいかなくなっただけだよ!」

「うまくいってただろ! 俺はいろんなことに立ち向かって、うまくいかせようとしてた」

僕の番が回ってきた。今度は僕がうなり声で彼を問い詰める番だ。「それがうまくいってなかったって言うんだよ!」

「たしかに、お前の妹とはうまくいってなかったな。彼女は俺たちの関係を終わらせようとしていた。でも、サム、お前は俺のことなんかそっちのけで、イルサの肩を持ってばかりだったな」

まあたしかに、イルサはジェイソンのことを退屈な安全パイだって見なして、うんざりしていたところはあった。僕とジェイソンが付き合ってるのを知っててなお、彼女は僕を他の男子たちに売り込もうとあれこれ画策していた。毎日のように彼と別れるように言われたし、朝、寝起きでトイレに入ると、鏡にポストイットが貼り付けてあって、こう書かれていたこともあった。今日はあなたがもっと素敵なボーイフレンドと出会う日になるわ!

でも、イルサが原因で僕は彼と別れたわけではない。

「それは違うよ」と僕はジェイソンに、今になって告げる。「イルサは一切関係ない」

ジェイソンが笑う。「はい、出ました。お前はいつでもそれだ。気づいているのかどうかは知らないが、お前の心の支えは、ハイヒールを履かない、身長165センチの妹だ」

「僕はちゃんと自分一人で考えられるよ、そうだろ?」

彼が僕に近づいてきて、軽くハグしてきた。僕は抵抗もしないし、かといって抱き締め返すこともしない。これが僕たちの関係なんだ。一つの行為に対してお互いに違うことを思っている。彼はこうすることで僕の支えになっていると思い込み、対して僕は、なんだかぎこちなく感じている。

「自分で鎖を切るんだよ」と、彼が僕の耳元で囁く。

そんなこと、―

そんなこと言ったって、―

そんな簡単にできることじゃ。

そう耳元で囁くってことは、彼には何か考えがあるのだろう。

イルサとつながった鎖を断ち切って、代わりに彼とつながれってことでもない気がするし。

というか、僕はもうすでに、誰ともつながってないじゃないか。

彼に抱かれながら、僕の思考はそこにとどまらず、別の世界へ向かう。彼や、イルサや、他の誰かと僕をつなぎとめていたはずの鎖。目を閉じてよく見ると、昔読んだ『ガリバー旅行記』の絵本の中に僕がいる。僕は何百もの様々なロープでぐるぐる巻きにされている最中だ。周りにはたくさんの小人たちがいて、僕の体をあちこちから縛っている。イルサが一部の小人たちに指示を出しているが、他の箇所を見ると、僕が普段気にかけている友人たちも、僕をもっと縛り上げるように、と小人に指示を出している。もっと良く見ると、見知らぬ人たちまで、ロープをくくり付ける杭を打ったりして、僕の縛り上げに参加しているではないか。そういえば、僕は普段から見知らぬ人たちのことも気にかけていた。ニュースを見るたびに、世界がどんどん悪い方向へと向かっている気がして。そうやって、ロープが次から次へと巻かれ、僕は地面に横倒しのまま、完全に張り付けにされた。それでもまだ僕を恐れているのか、さらにロープを持ち寄って来る人たちもいる。僕は少し抵抗してみたけれど、諦めて力を抜いた。ロープを切ろうとすると、なぜか自分の手首を切ってしまうからだ。僕はそんなこと望んでもいないのに。

ジェイソンは僕のこんな思いを全く知らない。イルサなら、きっと僕を一目見ただけで、すべてをわかってくれるだろう。パーカーは、僕の気持ちを理解してくれていると思う瞬間もあれば、なんだか彼自身の人生について思索にふけっている様子で、僕のことまで気が回らないといった時もあって、まちまちだ。

ジェイソンが段々と抱き締める力を強める。

「もうすぐ離れ離れになるなんて寂しいよ」と彼が言う。「これができなくなるのもつらい」

そのままの体勢でかなりの時間が経ち、ようやく彼は僕が抱き締め返していないことに気づいたようだった。それでも彼はそのことに気づいていない風を装って、あたかも二人が同時に力を緩めたみたいに、僕から体を引き離した。

「これから先、高校時代を振り返るとき、ここが俺の思い出の場所になる」と彼は言う。「ここでお前と一緒に過ごした時間を繰り返し思い出すだろうな。この先もずっとお前と、宇宙の中心にいたかった。わかってくれるか?」

「ここが宇宙の中心とは到底言えないよ」と僕は指摘する。

「お前らにとってはそうだろ!」と彼が返す。「お前とイルサにとっては!」

「前まではね。でも、もうすぐそうじゃなくなる。君が大学に行って、しばらくしてここに戻ってきたら、もうここはすっかり別の場所になってるよ。だから今のうちに、この家にもさよならを言っておいて」

ジェイソンが今にも泣きそうな表情をしている。それを見て僕は思う。ここは君にとって、泣くほど意味のある場所じゃないだろ。すると、彼がこう言ったから、彼は僕の気持ちを推し量って、悲しんでくれているんだと納得した。「ああ、サム―かわいそうに」

ひとしきり僕のために悲しんだ後、彼は彼自身の悲しみにもう一度目を向けた。

「お前はこれから先ずっと、俺の最初のボーイフレンドだからな」と彼は言い、再び抱擁を始めようとする。

僕は前に手を突き出して、これ以上の体の接触を拒む。

「僕は君の最初のボーイフレンドじゃなかったよね」と、僕は彼の記憶を突く。

彼は僕の手を取って、その手を彼の腰の側面に当てる。

「でも、本気度で言うと、お前が初めて本気になった相手だ」

彼は真剣な眼差しで僕を見つめながら、そう言った。思わず、僕は目をそらしてしまう。リビングから楽しそうな歓声が聞こえてきたけれど、何が起きているのかまでは、わからない。

ジェイソンはさらに体を寄せてくる。「俺たちにはまだ、あと数週間あるから...な」と彼がつぶやく。

「でも、もうしないよ」と、僕は身を引いて彼から距離を置き、きっぱりと言う。「ほんとに、もうしない」

またこの感覚だ。相手を傷つけているという実感がふつふつと湧いてきて、居ても立っても居られなくなる。人は一度誰かを傷つけると、相手がその痛みに無感覚、無関心になるまで、何度でも繰り返し傷つけ続けなければならない宿命なのかもしれない。今夜ジェイソンをパーティーに招待したのは、彼をこうして傷つけるためじゃないし、この会話はもう何ヶ月も前に終わっているはずだ。でも僕は今、はっきりとわかる。これから先何年もずっと、僕たちはこの種のせめぎ合いを続けるのだ、と。

「もうしない理由を言ってくれ」と彼が言う。

根本的な終止符を打つことはできなくても、とりあえず目先の問題を解決したかったから、僕は言った。「ヨハンが好きだから。彼とうまくやっていけるか、色々と試してるところだから」

これは終止符どころか、逆に火に油だったかもしれない。ジェイソンが噴き出すように笑い出し、後ろに転げるように尻餅をついた。

「ヨハン? #スタンタの後釜を狙う気か? あのツイッター中毒と、この間まで付き合ってたの知ってるのか?」

「知らなかったんだけど、さっき知った」

「マジかよ。びっくり発言の連続だな。お前、誰に手を出そうとしてるのかわかってるのか? ヨハンがスタンに何したか知ってて言ってるのか?」

「たぶん彼のツイッターで、僕も読んだことあるんだろうけど」

思いっきり読んでるよ、サム! わからないか? ヨハンは#暴君だよ!」

僕はぼんやりと彼を見つめていた。

「発音はほぼ同じだけど、」と彼はさらに明確にする。「スペルをちょっと変えて、わざとエロい意味を際立たせてた#暴君(TheDicktator)だよ」

「なんとなく、君の言ってることわかる気もするけど」

「おい、しっかりしろ、サム! #スタンタは、#暴君について、何ヶ月もツイッターで不満をぶちまけてただろ。

#ThePassiveAggressiveOlympics?(#受け手と攻め手のオリンピックか?)とか、

#TheDevilAteAllMyPringles?(#悪魔が俺のプリングルズを全部食べた?)とか、

#Couldn’tBreakHisHeartBecauseHeNeverHadOne?(#彼の心を打ち砕くことができない。彼は一度も本気になってくれなかったから?)とかさ。当然お前の目にも入って来てただろ?」

僕は首を振る。

「あれがヨハンだったんだよ。#暴君がヨハンで、彼は、言うなれば、飛行禁止区域を飛んでる飛行機みたいなものだ。付き合っちゃいけない相手と、#スタンタは付き合ってたんだよ。スタンの心にそっと灯りをともしたどころじゃない。―ヨハンはスタンに火炎放射器から炎を浴びせたんだ

「火炎放射器なんて大袈裟だよ。っていうか、恋の炎はいくら燃え上がったっていいじゃないか」

「そんなことはわかってるよ!」今度はジェイソンが首を振る番だ。「ただな、俺はお前が知ってると思ってたんだ。そのうち、#スタンタもここにやって来て、そうだな、Facebook Liveとかで実況中継を始めて、ヨハンを巻き込んで糖蜜みたいな甘ったるい時間を垂れ流すとか」

「なんか、さっきヨハンから聞いた説明と、ちょっと食い違ってる気がするんだけど」

「そりゃ、ヨハンは嘘つきだからな!」

「ヨハンはスタンの身勝手さに振り回されてたって言ってたよ」

「そんなの嘘に決まってるだろ!」

「どうして嘘だって言える? 君はそこにいたわけ?」

「いるわけないだろ。#スタンタがヨハンを友達に紹介しようとしても、ヨハンは#暴君だからな、それを許さなかったんだ。そうじゃなかったら、そんなに長い間俺たちに知られることなく、二人が付き合っていられたと思うか?」

「それはたぶん、スタンがちゃんと秘密を守っていたからじゃない?」と僕は主張した。

「馬鹿言え。#スタンタが秘密を隠し通せたことなんて、今までにあったか?!? よく考えてみろ。スタンは芝居がかったところはあるにせよ、嘘つきじゃないだろ」ジェイソンはポケットからスマホを取り出した。「ほら、これでもお前は俺を信じないって言うのか? #スタンタがこの数週間、なんてツイートしてるかを見れば、俺が言ってることが本当だってわかるよ」

「この数週間?」と僕は返す。「彼らはもっと前に別れたんじゃなかったの?」

「お前は失恋ってものを知らないんだな...ふった方はすぐに忘れてもな、―ふられた方はいつまで経っても、昨日のことのように思い返すものなんだよ」

ジェイソンの考え方は偏ってる。僕は自分自身に繰り返し言い聞かせなければならない。ジェイソンの見方は偏ってる。

彼は続ける。「お前は本当に、どれだけ彼を知ってるって言うんだ?」それから彼は再び体を寄せてきた。「俺の方が、お前のことをもっとずっと知ってるよ」

ブッブゥーーーー!」と僕は叫び、胸の前で腕を固く組んだ。一度言ってみたら、なんだか気持ちよくなって、何度も言ってしまった。「ブッブゥーーーー!ブッブゥーーーー!ブッブッブゥーーーーーーーー!

これは元カレを撃退するのに効果てきめんだった。ただ刺激が強すぎたのか、彼は青ざめた顔をして、よろめくように尻餅をついてしまった。それから彼はゆっくりと体勢を立て直したのだが...表情は青ざめたままだった。

「ちくしょう」と彼は言ったきり、口をつぐんでしまった。突然、彼が口を押さえるようにして、部屋を飛び出した。

「トイレに行って! キッチンの流しはだめ!」と僕は叫びながら、彼の後を追う。ギリギリ間に合ったみたいで、僕がトイレに着くと、彼は便器に顔を埋めるような体勢だった。そして、何度かオエッと言ってから、一気にゲロを便器の中に吐き出した。

「大丈夫か、ジェイソン」と僕は優しく声をかけ、彼の横に膝をついて寄り添った。彼は髪の毛がないので、ゲロがかからないように髪を押さえておく必要もなく、僕はただ横で見守っていた。そして彼が全部吐き終わるのを見届けてから、ウエットティッシュを手渡した。

「気分よく酔えなかったな」と彼がうめくように言う。

僕は彼の背中を軽く叩くと、トイレの水を流して、彼にタオルを差し出した。彼が僕の肩にしなだれかかってきて、僕はそのまま彼を受け止める。

「ヨハンはあくどいやつだよ」と彼がつぶやく。

「ああ、きっと全部ヨハンのせいなんだろうね。彼が今、ブードゥー人形に君の顔写真を貼り付けて、その喉元に針を打ち込んでるせいだ」

「あいつは暴君なんだよ!」

「わかったよ」

「今夜ここで、もう一回パーティーをし直さないと、俺は帰れないぞ」とジェイソンが言う。

「わかった、わかった」と僕は彼に言う。「今夜が最後だからね。もうこれっきり。それでおしまい」

そう言いながら、僕は不思議な気分に包まれた。僕はいったい何のことを言っているか、靄がかかったようにわからなくなる。

「今夜が最後なんてな。お前とここを切り離して考えるなんて無理だ」ジェイソンがドシンと倒れ込むように腰を下ろして、トイレの壁にもたれかかった。「この要塞と切り離して、お前を想像するのは難しいよ」

「ここは要塞じゃなくて、ただのマンションだよ」

「しかしお前ら二人は、ここを要塞にしちまった。そして二人とも、ここを去る気はないんだろ」

僕は言い返そうとしたが、ジェイソンが手を振って僕を黙らせた。

「いいんだ、いいんだ」と彼は続ける。「俺に話させてくれ。サムとイルサの周りには常に、なんこう...なんこうふ...」

「難攻不落?」

「それ! 難攻不落のとりでがあって、周りのみんなは、お前が合格したバークリーに行ったほうがいいと思っているのに、らちが明かない。そうだろ?」

これもまた違う。「そんなことない」と僕は言い返す。「君がタフツ大学に行くから、僕と一緒にいたいからって、僕までボストンの学校に行かなきゃいけない理由はない」

「サム、お前は本当に嫌味なやつだな! ちゃんと俺の話を聞け。俺がお前と一緒にいたいとか、そんな話をしてるんじゃない。バークリーは一流大学だろ。超がつくほど一流の音楽大学だろ。でも、お前はいざそこに出陣する時が来たら、コホコホ咳き込んだふりをして、行けません、と泣き言を言い出した。ちょっと違うな。咳き込んだふりじゃない。お前は自分で自分の首を絞めたんだ。なぜなら、お前はお前ら二人の要塞から出たくないからだ。お前ら二人に共通してるのはな、出口を見つけられないってことだ。お前らのすぐ目の前にある扉が、正しい出口だっていうのに」

ジェイソンがこんな風に僕に話してくれたのは初めてだった。というか、今まで誰も僕にこういう話をしてくれなかった。

「むかむかする!」と彼はうめき声を上げながら、再びトイレに顔を埋めた。何度かオエッとえずくが、口からは何も出てこない。

「思わせぶりな誤報だったみたいだな」と言い、彼は壁に寄りかかって座り直した。彼のまぶたはとろんと垂れ下がり、眠そうだ。「聞け」と彼は言う。「もう二度と、お前とよりを戻したいとか、そういう話はしない。俺とお前は近くにいるべきだとは思ってるが、重要なのはそこじゃない。肝心なのは、お前が外に飛び出せるかどうかだ。お前は外の世界に羽ばたく必要があるんだよ。もし今飛び出さなかったら、これから先もお前はずっと、この中に留まったままだ。酔っ払った元カレだって、それくらいはわかるんだよ」

「まあ、とりあえず今夜は僕はどこにも行かないよ」と僕は言い、彼の襟が汚れていたので、拭いてあげた。

彼は微笑んで、「かたじけない」と言い、それからそっと目を閉じた。

「おい、ちょっと」と僕は声をかける。「トイレは睡眠に最適の場所じゃないだろ」

「いいんだ、いいんだ」

僕は彼を抱きかかえるように起こし、僕の部屋のベッドまで連れて行った。彼は、砂の詰まったメイシーズ・パレードの巨大風船がくずおれるように、ベッドに倒れ込んだ。

彼は枕に顔を埋めた瞬間に眠り込んだ様子だったが、僕が電気を消して、忍び足で部屋を出ようとすると、僕の背中に向かって、もう一言、口を開いた。

「またお前の演奏を聴けて、最高の夜だった」と彼は僕に言う。「もう他人のために弾かないなんて、そんなの馬鹿げてるよ」

僕は彼に感謝した。その通りだな、僕は馬鹿だった。そう思ったら、なんだか力が抜けた。



13

イルサ


お決まりのパターン。

スパイダーマンが街のどこかで発生した危機を瞬時に察知する秘密道具を、サムも持ってるんじゃないかと疑うくらい、私が険悪なムードを醸し出した瞬間にそれを察知して、彼は気弱なイケメン気取りで、ニコニコしながらそそくさと逃げ出すのよ。性差がいろんな違いを生むのよね。同性の双子だったらよかったなって思う。そしたら生理の周期も同じだから、生理前にイライラしてビッチ化するのもわかってくれるし、きっと迅速かつ効果的にイライラを解消できるんでしょうね。つまり、サムみたいに逃げないで、姉妹で喧嘩してくれるはず。叫び合って、取っ組み合って、髪の毛を引っ張り合って、とことんやり合ったら、お互いにスッキリして、また仲良しこよしに戻るの。そして次の周期まで、親友のような双子でいるのよ。

サムのアヒルみたいにひょこひょこと逃げ出す作戦は、もう古いのよね。

私はサムに挑みかかる心の準備ができていたのに、彼はそれをビビッと感じて、ジェイソンと寝室に逃げ込んでしまった。

エロジェイソン・ゴールドスタイン・チャンめ。

私をないがしろにして、二人でよろしくやろうなんて。

なんでそんなにジェイソンに冷たく当たるのかって、彼のことを知らない人は思うでしょうから、理由を列挙するわ。


1. 彼はケチくさい。ジェイソンがサムを「サプライズ・デート」に誘って、ファイアーアイランドに行ったことがあるんだけど、サムに自分の分の電車賃を払わせたのよ。まあ、ランチ代はジェイソンが出したみたいだけど、それにしたって駅で買った味も素っ気もないサンドイッチだったんですって。彼がサムを引っ張って行ったファイアーアイランドは楽園みたいに綺麗な海岸が広がっていて、海を眺めながらランチを食べられる素敵なレストランがあるっていうのに。彼だってお金がなかったわけじゃないのよ。何しろジェイソンは12歳の時に自分でウェブサイトのデザイン会社を立ち上げて、その頃から収入を得ていたんですもの。彼は#身の程知らずのうざいやり手

2. 彼は変な臭いがする。自分の不安感をかき消すために、魔除けみたいに安いコロンを体に振りかけているのよ。

3. 彼はお年寄りへの礼儀がなってない。ジェイソンが私に食ってかかるのは気にしないけど、私の両親や女帝に対して礼儀を欠いた態度を取るのは許せない。それをしていいのは、私だけなのよ。私は後で謝り倒せばいいって心得ているからね。私たち家族の夕食にやって来て、〈不安感かき消しオーデコロン〉をぷんぷんまき散らすって、いったいどんなボーイフレンドよ?って感じ。―さらに彼は、おばあちゃんに向かって、このアパートメントはこういう風に飾り付けるともっと見栄えが良くなりますよとか、講釈を垂れ始めるの。それから自分がどれだけ数学の天才かっていう自慢に入るのよ。サムや私を大学へ進学させるにはこれだけの金額が必要になりますって計算を始めて、副業でもなさったらどうですか?とか言い出すわけ。そんなことをボーイフレンドの両親に言うなんて、どんな神経してるのかしら? 彼はまさに鼻につく存在ね。

4. 彼はミュージカル『ザナドゥ』の劇中歌の歌詞をすべて暗記してるのよ。

5. 今の#4は取り消すわ。それはジェイソンの唯一まともな特質かもしれないわね。


私の乳房は張っていて重く感じ、胃はキリキリとけいれんしている。生理前特有の張り詰めた気分が敵対心を強め、周りの誰かに冷たく当たりたくなっているんでしょうけど、―でもだからと言って、私が指摘した点が、まるっきり的外れってことにはならないわ。

「私にビールをちょうだい」と私はパーカーに向かって叫んだ。彼は私に未開封のビール瓶をひょいと寄越した。私はそれを開けると、瓶から直接ごくごくと、途切れることなく最後まで飲み干した。プファーと息を吐いて、ようやくパーティーに参加している気分になれた。なんてったって私がメインのパーティーなんですもの、楽しまなくちゃ。

誰もがほろ酔い気分で楽しい時間を過ごしている。サムの料理でこうなっていればよかったんだけど、それは叶わなかったから、信頼感抜群のアルコール類の力を借りて、やっとパーティーが華やいだわ。ヨハンはバイオリンで、プリンスの『She’s Always in My Hair』(彼女はいつも俺の髪の毛の中にいる(別れてしまってもいつも一緒さ))を奏でている。その調べに乗せて、パーカーが情感を歌詞に込めるように歌っている。歌いながら彼は、私に向かって渾身のセクシースマイルを投げかけてきて、私の胸がキュンと疼いた。KKとフレディはスローダンスを踊っている。カスピアンがKKのうなじの辺りに気持ちよさそうに頬ずりしている。リーは彼女にとってのいこいの場に腰を埋めている。彼女はいつも持って来ている編み物袋を取り出して、とっても綺麗な緑がかった青色の毛糸で、セーターの袖の部分を優雅に編んでいる。

パーカーはプリンスの曲を歌い続ける。「Whenever my hopes and dreams / Are aimed in the wrong direction(俺の夢や希望はいつだって / あさっての方向を向いちまう)」私がリクエストした曲だ。どうして2年も歌ってくれなかったのかわからないけれど、今やっと聴けた。ただ、かなり音程が外れている!

パーカーは、人差し指を私に向けてクイックイッと動かしている。こっちに来て一緒に歌おう、と誘っているのだ。

「やめときなさい、イルサ!」とKKが私に呼びかける。「またそうやって、彼の甘い歌声の罠に落ちる気? プリンス・トラップよ

あれは高校2年生の時だった。サムと私の誕生日パーティーでカラオケに行ったんだけど、きっかけはパーカーが歌ったプリンスの『パープルレイン』だった。それを聴いた私は、心のボタンが次々と外れるようにメロメロになって、その夜晩く、私は着ていた洋服のボタンを全部外すことになった。

私は肩をすくめて、「やめとく」とパーカーの誘いを断ると、グイッともう一口ビールを飲んだ。「わかったわ、KK」と私は言う。

もし私がひどい女よりも、いい女になりたいのなら、パーカーとの関係を見直すべきなんでしょう。彼に腹を立てるのをやめ、彼を求めるのもやめ、彼ともう一度付き合いたいと願った分だけ彼に傷つけられたと思うのも、もうよそう。心を解き放つのよ、イルサ。(ジェイソンの嫌なところ#6. ジェイソンは『アナと雪の女王』をこよなく愛しているんだけど、ところかまわず「Let it go」って歌い出すの。恥ずかし気もなく全開でよ。そういうのって、みんなみたいにこっそりと、浴室でシャワーを浴びながらとか、一人でやってちょうだいって感じ。)(しかも、アナ雪のエルサ(Elsa)は、私―イルサ(Ilsa)より、アルファベット的に4つも上なのよ)

歌が終わった。「この建物のロビーの向こう側に、誰も住んでいない空き部屋があるんだけど、行ってみない?」と私はみんなに提案する。KK以外のみんなが歓声を上げた。KKはみんなと一緒になって熱狂する、みたいなことを決して自分に許さないのだ。十分にアルコールも摂取したところだし、大した夜景は見えない味気ないワンルームの部屋だけど、今から空き部屋に忍び込むことは、みんなにも魅力的に響いたようだった。もちろん、KKを除く。

「つまんないわ」と彼女が湿っぽく愚痴る。

カスピアンが全身を使って彼女の頬骨をさすりながら、「そんなこと言わないで」と囁く。

「つまんなくないわ」と私は彼女に言う。「今夜が、あなたの人生で3本の指に入る魅惑の夜になるわ」

私はみんなを見渡して、言った。「さあ、行きましょ」

リー、パーカー、ヨハン、KK、フレディ、カスピアンが続々と立ち上がって、リビングのドアへと向かう。「バイオリンを持って行ったら?」と私はヨハンに言う。「いつインスピレーションが降ってくるかわからないでしょ」

私たちは女帝のアパートメントを出て、ロビーに出た。パーカーが「今から俺たちは、バーグマン氏の部屋に行くんだろ?」と聞いてきた。

「そうよ」と私は返す。

「とうとう彼は引っ越しちゃったか?」とパーカーが聞いてくる。バーグマンさんは、このスタンウィック邸に女帝よりも長く住んでいた、いわゆる「独身主義者」だった。

「あなたの言う『引っ越し』が、クイーンズ地区のフラッシングにあるマウント・ヘブロン墓地への引っ越しを意味しているのなら、そうね」と私は答える。「バーグマンさんは引っ越しちゃったわ」

パーカーは胸の前で十字を切ると、言った。「安らかなれ、ミスター・バーグマン。彼はいいおじさんだったな。毎年、年末のハヌカーの時期になると、俺とサムに映画の無料チケットをくれるんだよ。彼の実家から2枚送られてきたんだけど、私は行かないからって。なんか彼は、『画面に映ってる人物』を見るのが好きじゃない、とか言ってたな。彼の家族もそこは気を利かせて、生のオペラのチケットを送ってあげればよかったんだよ」

私は今になって、無性に腹が立ってきた。サムったら、あの気難しいバーグマンさんから、ただで映画のチケットをもらっていたなんて。

女帝の部屋の向かい側にある玄関前まで来た。私は泥棒みたいに鍵をこじ開けるなんてできないし、そんなことするつもりもない。単にドアノブを握って回すと、すんなりドアが開く。今朝、この建物の管理をしている人たちが、バーグマンさんの部屋を掃除し終えたばかりだと私は知っていた。どうせ鍵をかけていないだろうと思っていたら、案の定だった。彼らは自分たちがたまに休憩できる静かな隠れ家が必要なのだ。不動産の仲介人がバーグマンさんの部屋に目をつけて、売りに出されるまで、ここはそういう部屋になる。

私たちは中に足を踏み入れる。電気のスイッチを見つけて、カチャカチャと押してみるが、電気はつかない。天井の照明には電球がはまっていなかった。廊下から入り込むわずかな光を頼りに、パーカーが床に置かれていたスタンド型の小さなライトを見つけた。彼がスタンドライトのスイッチを入れると、部屋がぼんやりと明るくなった。私は玄関のドアを閉める。

サムとイルサのディナーパーティーの最大の見せ場は、サムがリビングルームに戻ってきたシーンになるわね。彼が招待したゲストたちを、私がさらって行ったことを知った彼はどんな顔をするかしら? ジェイソン・ゴールドスタイン・チャンを除く優良なゲストたちよ。サムがジェイソンと何をやってるのか知らないけど、のこのこと自分の部屋を出て来て、もぬけの殻になったリビングを見て、彼なしでもみんな凄く楽しい時間を過ごせるんだって思い知るわ。さっき私が味わった気分のお返しよ。

私は子供の頃に、この部屋の中を覗き込もうとしたのを思い出した。私が女帝の部屋の玄関の前で、彼女が私たちを中に入れてくれるのを待っていたら、バーグマンさんが部屋から出て来て、エレベーターへと歩いて行った。私は彼がドアを開け閉めしている一瞬の隙に、チラッと中を覗き込んだんだけど、その時はもっと大きな部屋だと思った。今、薄暗いライトに浮かび上がった部屋は、家具類が一つもないのに、思った以上にこじんまりとしている。「残念な眺めね」とリーが言った。彼女は窓際に立って、スタンウィック邸の片翼から、隣のビルとの隙間しか見えない通風孔のような窓の外を眺めている。

こんなじめじめした部屋で過ごしていたら、バーグマンさんがフレンドリーじゃなくなるのも無理ないわね。(って言っても、可愛い男の子たちにはフレンドリーだったみたいだけど。)「彼はたぶん50年くらい、あまり日光を浴びてなかったんだろうな」とパーカーが、いつものように私の心を読んで言った。

生きることが怖いのは、死ぬのを恐れているからよ」とヨハンが抑揚をつけて言う。

「深いね」とパーカーが言う。

「ドリー・パートンの曲だよ」とヨハンが返した。

「キッチンが見たいわ」とリーが言う。メインルームとつながる形で奥まった小部屋のようなキッチンがあり、彼女はそこへ入って行く。

「バーグマン氏が冷蔵庫にビールか何かを残してないかな」と言って、パーカーがリーに続く。

KKは言う。「知らなかったわ。アパートメント全体がこんなに狭いなんてこと、あり得るんだ。私の寝室より小さいじゃない。なんだか息苦しくて、窒息しそう」

「女帝のアパートメントに戻りましょう」とカスピアンが提案する。

KKが玄関の外へと駆け出した。フレディ兼カスピアンも彼女のお尻を追いかけて後に続く。「空気! 空気がないと死んじゃうよ!」

私はヨハンの方を向く。ついに彼と二人きりになれた。「あなたの意図が知りたいの? 私の兄をどうするつもり?」と私は聞く。

「そそられる」とヨハンが言った。そそられるなんて、そんな言葉がぽろりとこぼれ落ちて来るなんて、私はますますこの男性が好きになっちゃう。ヨハンは、言うなれば二人組コメディ・デュオ〈フライト・オブ・ザ・コンコルズ〉の3人目のメンバーって感じね。その素質は十分にあるわ。赤道のはるか南からやって来た、かっこよくて、ニューヨーカーに憧れを抱きつつも、困惑ぎみな彼。

私は唇がけいれんを起こした感じで、指で自分の唇の端をさする。ゴホンと大きく咳をして、心の声が漏れてるわよ、とヨハンに知らせたかった。「じゃあ...まずはサムとお話してちょうだい。わかるでしょ...彼はそういう話題になると居心地が悪くなって、あなたから逃げ出すわ。いきなり、そそられるんだ、とか言い出したら、サムは気兼ねなくあなたにお別れを言うわよ。お元気でって」

ヨハンは元々肌が白い上に、部屋がとても暗いので、私がそう言ったことで、彼は気まずい表情をしているのか判断がつかなかったけれど、彼がぎこちなく足を動かしているのを見て、私の意図がしっかり伝わったとわかった。彼は囁く。「ぼくはさっき彼にキスしようとしたんだ。でも唇が合わさる直前に、彼はのけぞってかわした。君が今言った通りだったよ」

もう? オーケー。言った通りだったでしょ!

私の任務は一旦終了ね。

もう兄に対するいら立ちは、ほとんど収まったわ。昔ながらの作戦で兄に仕返ししてやりたかっただけなのよね。性病とかの心配をしてアドバイスしているふりをして、本当は二人をくっつけたくなかったの。私自身のために。

パーカーとリーが奥の小部屋から戻って来た。パーカーは〈エンシュア〉を一缶、手に持っている。「ビールはなかった」と彼が言う。

「でもプロテイン・ドリンクがいっぱい入ってたわ!」とリーが付け加える。

ヨハンがバイオリンを構えた。「君たち二人は、社交ダンスの大会に出てたって聞いたけど」と彼が私とパーカーに言う。

「昔の話ね」と私は返す。

「俺たちはもう一度チャンピオンになるんだ」とパーカーが言う。「今夜晩くに、な? イルサ」

「どれくらいの腕前なのか、見せてよ」とヨハンが言う。

「ちょうどここが完璧なダンスフロアじゃない」とリーが言って、寄木張りのフローリングを指差した。家具のない板の間は、思う存分足を滑らせて踊れそうだった。

ヨハンが弾き始める。タンゴ調の曲だ。

パーカーが私の腰に腕を伸ばして、定位置に誘う。私は躊躇した。また、あの感覚に飲み込まれるように、元の鞘に戻りたくはなかった。

落ち着いて! 久しぶりにパーカーが馴染みのある立ち位置につくのを見て、私は気づく。これはダンス以上の何かではないわ。ダンスに集中すれば、他の感情に飲み込まれることはないはず。

サムといつも一緒だった幼い頃からずっと、サムは常に男の子たちに囲まれていた。彼を慕って寄って来る男の子を切らした時期なんてない。彼の人生って革命の連続だな、と私は時々思ったりした。彼を誘うふしだらなメッセージが次々届き、彼をもっと知りたいと願う可愛い男の子たちが絶え間なく押し寄せた。私に逆に、そんなこと全くない人生を送ってきた。男の子たちのほとんどは私を怖がるから。でも、パーカーはそうじゃなかった。私は徐々に、男の子の中でただ一人、パーカーだけに夢中になっていった。文字通り、クレイジーなほど夢中に。

ついに、私は思い至った。私は踊れる。もう一度パーカーと友達になれる。もう彼との恋愛関係は終わっているんですもの。いつくしみは感じるわ。でも色恋からの愛じゃない

「今晩はもう、ダンスホールに出かける気分じゃないわ」と私はパーカーに打ち明けてから、彼の腕の中へと足を踏み入れた。

「そうだろうなって感じてたよ。じゃあ、今ここで思い切り踊ろう」とパーカーが言う。「これっきりのラストダンスだ」

私は彼の手の上に私の手を乗せる。彼が腕を私の腰に巻き付けてくる。気持ちいいし、しっくりくる。もう二度とする必要がないからこその、清々しい感触だった。

私たちは踊り始める。



14

サム


念のためジェイソンの枕元にゴミ箱を置いてきた方が良かったな、と思い返し、僕はもう一度前かがみの姿勢で、そっと寝室に入って行った。彼はすでにいびきをかいていて、夢の中を忘却へと落ちて行っているのだろう。夢から醒めた後は、今夜のことを覚えているかあやしいものだ。

僕は再び部屋を出て廊下を歩きながら、やけに静かだな、と不思議に感じていたのだが、リビングも、それからキッチンも、がらんと静まり返っているのを目の当たりにして、立ち尽くしてしまう。

みんなは僕を置いて、どこかへ行ってしまった、らしい。

驚きの次に僕が感じたこと―

それは―

安堵感だった。

おそらくイルサはみんなを引き連れて、屋上に行ったのだろう。僕たちが主催のパーティーは大体いつも、締めくくりに屋上に行くのが定番だった。

僕も彼らを追って屋上へ、

行った方がいいだろうな。

でもなんだか、気が向かない。

僕は代わりにリビングをきれいにすることにした。まず絨毯の染みから取り掛かる。―パーカーが一応モップで拭いた感じはあったけれど、十分にはほど遠い。こぼしたバーボンが疫病のように広がりを見せるのは食い止めたみたいだけど、〈Maker’s Mark〉のウイスキーの染みは、「染み作り」という異名があるだけあって、落とせていない。僕は絨毯用掃除機を持って来て、できる限り、染みを落とした。それからお酒のボトルを集め、空いたお皿を重ね、グラスも一纏めにする。グラスにはまだ飲みかけのお酒が残っていて、誰かに次の一口を吸われるのを待っているようだ。僕を誘惑しているようなお酒から、目を逸らす。―皿洗いに集中すれば、余計なことを考えなくて済む。そうすれば、自分の考えを掌握できるはずだ。一つ一つ、目の前の作業をこなしていく。そうしてさえいれば、頭の中が段々と整っていくから。

僕を取り巻く壁はそんなに厚くない。人生が進んで行く足音はちゃんと聞こえる。だが、僕と人生の間に、少し距離があるのも確かだ。

疲れた。

すべてのキャップをボトルにはめ直す。すべてのボトルをキャビネットに戻す。氷が入っている容器の中を確認する。―氷は半分ほど残っていたが、それを流しに全部捨てる。容器にお湯を入れて、底や壁面にくっついた氷を素早く溶かす。

僕はいったい何をやっているんだ?

おそらく僕は、要塞の内側に留まっているのだろう。

ジェイソンの言葉にいらいらしているのは、彼が言ったことが全くの的外れってわけじゃないからだ。

ヨハンが一人でここに残って、僕を待っていてくれたらよかったのに。でも、彼がそうしなかったのは、当然だろう。パーカーがひとっ走りして、僕の様子を見に来てくれればよかったのに。でも、彼がそうしなかったのも、納得できる。イルサがメモを残すなりして、パーティーをどこでやっているのか知らせてくれればよかったのに。イルサのことだ、たぶん僕がどう思うかも折り込み済みだろう。メモを残さなかったこと自体が、彼女からのメッセージってことか?

考えれば、彼女のメッセージを読み取れそうな気もしたけれど、考える気力がなかった。

ロビーの向こうから音楽が聞こえてきた。バーグマンさんがパーティーをしているのだろう。ん? 待てよ。―あのバーグマンさんがパーティーなんて開くわけない。それに彼は熱心なユダヤ教徒だ。夜中に騒がしくすること自体、彼の主義に反するだろう。ということは、二つのうちのどちらかだ。彼の親戚たちは、そんなにユダヤ教の教えに忠実ではないのか、もしくは、イルサが彼のアパートメントに押し入って、乗っ取ってしまったかだ。

そういうことか、と僕は思う。彼女はそれを実行したんだ。ゲストのみんなをかっさらって、会場を移し、正式にイルサが主催のパーティーをし直しているってわけか。

あれこれ考えているうちに、いつの間にか洗い物が終わっていた

僕はお皿を一枚ずつ、ざっと洗い流してから食器洗浄機に入れていく、という作業を無意識でやっていた。洗浄が終わり、お皿を乾かすために一枚ずつ取り出していく。いつもならこれはイルサの役回りなのだが、今は僕が乾かし役も務めるしかない。

僕は両手でお皿を掴んでいる。でも心の中で掴んでいるのは、「終わった」という言葉だ。僕はいろんな意味で終わっているのかもしれない。お皿よりも、もろく壊れやすい僕の心は、そんな一言の扱いを誤っただけで、パリンと音を立てて割れてしまいそうだ。心の中で言葉を掌握し、操るのは難しい。僕の言葉のはずなのに。

僕は新たにコーヒーポットにお湯を注ぎ、コーヒーを淹れ、お皿に一口サイズのプチフールケーキを載せる。

単調な日常を忘れて楽しむことをうたった僕とイルサのパーティーだけど、イルサはいつもパーティーの締めくくりを大事にしていた。後味の良いパーティーになることを心がけ、ゲストが何か少しでも人間的に大きくなれて、気持ち良くさよならを言って家路につける。そしてその後も、それぞれのゲストが胸のうちで心地良い余韻に浸れるような、そんなパーティーをイルサはいつも望んでいた。このアパートメントで行われる最後のさよならパーティーでも、今それを実践しているのだろう。

僕も家に帰ろうと思えば、帰れる。厳密に言えば、この女帝のアパートメントは、僕の家ではない。でも自分自身に正直になってみると、(というか、自分に正直にならない理由もないのだが、)さらに厳密に言えば、僕がマイホームと呼べるのは、向こうの家より、むしろこちらの家だ。このアパートメントで、僕の人生は展開してきたと言っても過言ではない。逃げ込み寺が、いつの間にか終の棲家のようになっていた。

キッチンを見渡す。僕はここで、何度も至福の時を過ごし、そして僕はここで、何度も悲しい思いをして泣いた。

それこそまさに、ここがマイホームだったという証だ。

そして僕は―

僕は―

僕はここを出なければならない。

ここを出て行くのは僕たちの方なんだけど、なんだか逆に、僕はこのアパートメントに見捨てられた気がしている。ここで巻き起こった僕の人生が、もうすぐどこかへ行ってしまう。僕をぽつんと置き去りにして。

しかし今―

今こそ考える時なんだ。巣立つということについて真剣に。

僕は今まで外側に逃げ道を探したことは一度もなかった。これまでずっと、悲しいことの連続だったけれど、―僕は自分の内側に、何かスイッチが入っていない部分があるんだと思っていた。僕を取り巻く人生と上手に付き合えない不活性な何かが自分の中にあるはずだと、内側ばかりを探っていた。イルサは僕を良い子ちゃんだってなじってくる。間違ったことをせず、無理をしない手堅い生き方をしてるって。でも本当にそうだろうか? 僕にはそれしか道がなかったんだ。他に抜け道なんて見当たらなかった。たしかに扉はいくつも見えてはいたけれど、どの扉にも鍵がかかっていると思い込んでいた。開きっこないと思っていたから、ドアノブを握って回してみることさえ、僕は一度もしなかった。

ちょっと違うな。僕は少し思考の論理展開を誤ったみたいだ。

僕は今までずっと、良い人生を送ってきたように思える。でもよくよく考えてみると、良い人生なんて言えるものではなかった。僕は常に指が震えるような面持ちで生きてきた。一音符でも間違えたら、すべてが台無しになってしまうとびくびくしながら、慎重に進んできた。そんな生き方が良い人生なんて言えるはずがない。

そうじゃない―

というか―

さっきから僕は一人で何をつぶやいているんだろう?

僕はいったい何をごちゃごちゃと考えているんだ?

僕はキッチンを出て、リビングルームに戻る。ソファの上の枕の位置を直し、KKが椅子に座る時にひっぺ返したブランケットを椅子にかけ直す。ほとんどすべてのものが元の定位置に落ち着く。

キャビネットに並んだお酒のボトルをすべて叩き割ってしまおうか? その方が、きちんと元通りに戻すよりずっと簡単だ。照明も次々に叩き割って、世界に向かって「ファッーク!」と叫び、この家の中をめちゃくちゃに破壊してしまえばいい。―実は試しにやってみたことがあって、破壊している最中はそれなりに気持ちよかった。でも一通り壊し終えたあと、僕は壊れた物たちの真ん中で立ち尽くし、巨大な虚無感に襲われた。一瞬の解放感は僕をどこへも連れて行ってくれなかったのだ。それは解決策にならない。

腹いせに自分自身の体を傷つけてみたこともあった。その道も突破口にはつながっていないと学んだ。

けれど、きれいな部屋だって、解決口につながっている保証はない。

ロビーを通して聞こえてくる音楽が、ますます大きくなっていく。会話をしている声も聞こえるが、言葉までは聞き取れない。僕はソファの上に倒れ込むことならできるかもしれない。両親の家に帰って、僕の部屋とも呼べない僕の部屋で寝てしまおうか。表面レベルでは、僕は疲れ切っている。立っていられないほど、へとへとだ。でも僕の内側には、タコ糸で僕の体を引っ張り上げるような力が、まだ残っている。最後まで見届けるんだと促している。ほら、出口を見つけるんだよ、その向こうに何があっても。

僕は自分自身に言い聞かせる:疲れてるんだろ...でも、まだやるべきことが残ってるよ。

僕は自分自身に言い聞かせる:悲しいんだろ...でも、まだやるべきことがあるじゃないか。

僕は部屋の中を見回す。―すべてが整然としている。僕はダイニングルームに行き、テーブルの上にきれいなナプキンを敷き、その上にフォークを並べていった。シュガーボウルと人工甘味料も用意する。コーヒーがいい感じに焙煎された頃合いを見て、コーヒーポットを、女帝が長らくコーヒーを出す時に使ってきたカートに載せる。

準備完了。それから、やるべきことをもう一つ思い付く。ちょっとした味付けだ。グランドフィナーレを迎えるにあたって、ちょっとしたおまじない。

慎重に手を伸ばし、女帝がガラス製の棚の上にインテリアの一部のように載せている細長いシャンパングラスを手に取る。どのグラスも紙のように薄く、空気のように透き通っている。手に持つだけで割れてしまいそうで、緊張感が全身を貫く。―というか、緊張感を得るために、こうして手に持ってみたのだ。

僕はどうしても緊張してしまう性格なので、だったら、緊張しても大丈夫なように、緊張感に慣れるしかない。

僕は緊張感を体に馴染ませるように、シャンパングラスをテーブルに一つ一つ慎重に並べていく。すべて並べ終えて眺めると、シャンデリアがテーブル全体に広がったような壮観になった。

よし、いい感じ。僕はいくぶん満足感を得る。

このままの状態で留めておきたい気持ちが胸の内で湧き起こる。周りに誰もいない状況で、僕は見事に左右対称の模様を完成させた。こういう誰も見ていない条件下なら、緊張感は分散し、僕の指は震えずに済む。僕と、きれいにおめかししたダイニングテーブルの一対一なら。僕と、僕の内側の―

僕の中の僕の―

要塞。

違う。僕は自分に言い聞かせる。

扉を探すんだ。

きっと鍵はかかってない。

僕はロビーを横切って、バーグマンさんのアパートメントに入る。薄明かりの中、パーカーとイルサがタンゴを踊っていた。体を絡めるように情熱的にステップを踏んでいる。その横で、リーが編み物をしている。彼女は手を軽やかに動かしながらも、目は二人のダンスに釘付けといった様子で見入っている。KKは、本名バーグストロム氏の引き出しを次々と開けて、家宅捜索をしているようだ。フレデリックとカスピアンは、バーグマンさんが残したフラン・レボヴィッツのエッセイ本をめくって、覗き込んでいる。ヨハンは、僕が入って来てただ一人、こっちを向いてくれた。彼は微笑み、椅子の上で腰をずらす。僕のためにスペースを開けてくれたのだ。

「コーヒーとプチフールを用意したから。それから乾杯用にシャンパンも」と僕はみんなに伝える。「もし誰か、興味のある人がいたら、僕たちのダイニングテーブルに戻って来て。シャンパンのコルク栓を5分後にポンッと抜くから」

そう言い放つと、僕はさっさと振り向いて、反応が誰かから返ってくる前にその部屋を出た。まっすぐに女帝のマンションに入り、キッチンへと向かう。

それから1分間ほど、音楽は聞こえ続けた。その後、音楽が止み、続いてみんながロビーを歩いて戻って来る音が聞こえた。ほとんど全員がダイニングルームに直行したようだ。彼らが席につく時、シャンパングラスが倒れたりしないかと、心配が一瞬よぎったが、振り払う。

「何か手伝うことあるか?」と言いながら、パーカーがキッチンに顔を出した。

「いっぱいあるよ」と僕は微笑んで答える。

彼が僕の目の前まで近づいてきた。

「何も言わずにいなくなってごめん」と彼が言う。「お前も連れて行こうかとも思ったんだけど、またジェイソンと過去のある時点までさかのぼって、にっちもさっちも行かない状況になってると思ったから。で、進展はあったのか?」

「過去はもう手放したよ。これからは未来に向かって、手を伸ばすことにした」

パーカーが眉をつり上げる。「おお、マジか?」

僕はうなずく。

「何か計画はあるのか?」

「まあ、漠然とはあるけど、具体的にはまだ自分でもはっきりとしない」と僕は彼に告げる。「で、君はどうなんだ? イルサとまたダンスパートナー復活?」

彼は笑う。「俺たちはタンゴと相性がいいな、とは思った。けど、パートナー復活はないんじゃないかな。やっぱり俺を愛してくれる人と踊らないとさ、のちのち語り草にもならないからな。そして今夜、踊りながら感じたよ。彼女は俺のことを愛してないって。まあ、当然の成り行きというか、これが一番いいエンディングだよ。最悪の関係から脱して、少しはましな関係で終われたんだから。―お前たちも、そういうことだろ?」

「どうかな?」

パーカーが僕を冷めた目つきで見据えた。「いいか、要はこういうことだ。お前は俺たちより、ひどい別れ方をしたんだろう。たぶんイルサより、お前は深刻な痛みを抱えているんだろう。でも、もう過ぎ去ったことだ。青臭い時代の土産物ってことだよ。それをいつまでもうずくまって、大事に抱えてても仕方ないだろって言ってるんだ。まあ、俺はお前の妹とお互いにいがみ合うことで忙しかったから、お前のことを考えてやる余裕はなかった。―俺と彼女が二人で協力すれば、お前の手を引っ張って立ち上がらせることもできたかもしれない。でも二人別々では、無理だった。そういえば、お前とこういう話をしたことはなかったな。いや、べつに今ここで語り合おうって言ってるわけじゃない。―ただなんとなく、バーグマン氏の部屋で彼女と踊って、ここに戻ってきてお前の顔を見たら、そんなことを思ったんだ」

「青臭い時代」と僕は言う。今まで誰かが、このような言い方で僕に説明してくれたことは一度もなかった。パーカーとこういう真面目な話をするのも初めてだ。

「そうだよ」

僕はそこから抜け出すことができずにいる。もっと詳しく知りたかった。僕は聞く。「僕の青臭い時代について、君は何を知ってるの?」

パーカーは少しの間、考えを整理するように黙り込んでから、慎重に話を続けた。「サム、お前が思ってる以上に、イルサと俺は知ってるよ。でも、どうやって話を持ち出せばいいのか、きっかけがつかめなかった。お前が自分の体を傷つけてることも俺たちは知ってたよ。けど...それについて話し出すのは、お前からじゃないと駄目だと思ったんだ。何かを秘密にして隠しておきたい時は誰にでもある。でも、その何かを自分の外側にぶちまける権利があるのは、周りの人たちじゃないからな。それに、お前がそういうことについてイルサには話してるんじゃないかと、俺は勝手に思い込んでいた。たぶんイルサも同じだったんだろうな、お前が俺には話してるんじゃないかって。俺とイルサはお互いに口も利かなかったし、ノートを交換してお互いの考えを見比べる、みたいなこともしなかったからな。すれ違いってやつだ。今になってようやく同じ飛行機に乗れたっていうか、少なくとも同じ搭乗口の前まではたどり着けた。今まではお互い、全然違う方向に進んでいたからな、お前もそう思うだろ?」

どうやら僕が思い描いてきた僕の過去を、今になってすっかり書き直さなければならないようだ。知っているのは女帝だけだと思っていたのに、イルサもパーカーも知っていたなんて。女帝は僕を息抜きに連れ出してくれた唯一の人だった。彼女は嘘をついて、急に小旅行に行きたくなったから、僕を連れてロンドンまでちょっと出かけて来る、と言って家を出た。―実際は、このマンションから離れたマンハッタンの「ショッピング街」で、好きなだけ「衝動買い」をさせてくれた。

僕は本気で、みんながそれを信じたと思っていた。

特にイルサは信じたと。

ダイニングから、シャンパンの到来を待ち望む大合唱が沸き起こった。「シャンパン! シャンパーン! シャンパーン!」

「僕はここを出なきゃならない」と僕は目の前の親友に話す。彼は実際は、それほど僕のことを知らない。彼にはもっといろんなことを打ち明けるべきだった。

「みんな待ってるしな。じゃあ、俺がシャンパンのボトルを持つよ」と彼が申し出る。

僕は首を振る。「いや、今のこの状況のことじゃない。僕はもうすぐここを出て、どこか住む場所を探さなくちゃ。生きていく場所を」

あの笑顔がもう一度目の前に咲いた。「だったら、そんなの簡単だよ」と彼が言う。「俺と一緒にカリフォルニアに行こう」

「それもいいかもな。ただ、名立たるスタンフォード大学が、今の卒業シーズンになって、入学願書を受け付けてくれればいいけど」

「シャンパーン! シャンパーン!」(イルサの声が抜きん出て大きく聞こえたかと思うと、負けじとKKも声を張り上げる。)

「今持って行くぞー!」とパーカーが雄叫びを上げた。

僕は冷蔵庫まで行って、シャンパンのボトルを2本取り出した。―女帝は常にシャンパンを4本冷蔵庫に待機させている。急なお祝い事や、急な慰めの会がいつ生じても、あるいは同時に生じても対応できるように。彼女が帰ってきたら、シャンパンが消えていることに気づくだろう。僕は彼女に説明しなきゃならない。でもきっと、彼女はわかってくれる。

「俺は真剣に、カリフォルニアに一緒に行こうって言ってるんだ」とパーカーが、僕からボトルを受け取りながら言った。僕は空いた手でコーヒーカートを押して、キッチンを出る。

「君が真剣だっていうのはわかってる」と僕は言う。それが僕の言える回答のすべてだった。

僕たちはダイニングルームに向かう。パーカーは僕を先に歩かせ、ボディーガードのように僕の背後にぴったりとついてきた。ダイニングに入ると、KKが「遅いよ!」と叫んだ。

僕は彼女を黙殺する。―これは長年にわたる鍛錬の末、修得した技だ。鋭い視線で彼女を瞬殺した後、僕はイルサを見る。彼女は好奇の混じった眼差しで、パーカーが手に持つシャンパンを見て、ちょっと戸惑っている様子だ。―このパーティーの計画に、シャンパンをふるまうことは入っていなかったから。

「コーヒーが欲しい人?」と僕は聞く。

「カフェイン抜きはある?」とカスピアンが聞き返してくる。

「カフェイン抜きなんて、そんなのコーヒーじゃない!」と、イルサと僕は同時に答えた。

「この二人はカフェインマニアなんだ」とパーカーが説明する。

「いいから、早くシャンパン」とKKが命令口調で急かす。

「君が主催のパーティーじゃないだろ」と僕は彼女に言う。

「まあまあ、お兄ちゃん」とイルサが僕をなだめるように割って入った。「まず乾杯して、シャンパンを一口飲んでから、その後で、カフェインとスイーツを味わいましょ」

「シャンパーン! シャンパーン!」とカスピアンが再び煽り始めたが、誰も追随して声を上げる者はいなかった。靴下はしょんぼりと、しな垂れてしまう。

僕はテーブルを囲む面々を見回す。全員がシャンパンを飲みたそうな顔をしている。

僕はみんなを丁重にもてなすホストになろうと決めた。

「じゃあ、シャンパンにしよう」と僕は言う。「誰か、シャンパンの栓を抜く名誉にあずかりたい人?」

僕はシャンパンの栓を抜く時の、ポンッという音にいつもびっくりするくらい、びびりだから無理だ。イルサはコルク栓を抜くのが下手すぎて駄目だ。

「ぼくがやろうか」とヨハンが志願する。

彼が難なく最初のボトルを開けて、みんなのグラスにシャンパンを注いでいくのを見守っていると、KKのグラスに注ぐ時、勢い余ってちょっと溢れ、こぼしてしまう。彼が今にもKKに襲われるんじゃないかと、びくついている様子に、僕はますます彼のことが好きになる。

彼に見惚れながら部分的に火照った僕を、内側からもう一人の僕がなだめる。おい、サム。落ち着け。

それから僕は気を紛らわすように、女帝との会話を思い出していた。彼女は僕に、「誰かのために一つの場所に留まっていても、何にもならないのよ」と言った。彼女自身のことを言っていたんだと思う。―彼女は僕のために、というか僕とイルサのために今までここに留まっていたんだ。そうじゃなかったら、何年も前に彼女はパリに移り住んでいたはずだ。―彼女が僕に、「二人だけの秘密よ」と念を押してから、パリに引っ越すつもりだと打ち明けてくれた時、彼女はあえて、僕とイルサが大学に進学するまで待っている、とは言わなかった。でも僕にはわかったし、同じように、僕がそのことに感謝している気持ちも、彼女に伝わっていただろう。特に感謝の言葉を口にしなくても。たとえ僕が大学に進学しても、この街を出て行くつもりがなかったとしても。

女帝は僕を巣から追い出すような真似はしない。でももうすぐ彼女は黙って巣を取り上げてしまうから、僕は結局すぐ近くに、また新しい巣を作る羽目になる。それなら、そうすればいい気もする。

だけど―

考え込んでしまう。僕はまた巣を作りたいのだろうか?

作るべきなのかどうかさえ、もはや確信が持てない。

「サム、あなたが乾杯の挨拶をするんでしょ?」とイルサが聞いてきた。彼女はみんなが手に持っているグラスを指差す。みんなグラスを掲げる準備万端といった様子だ。

「ああ」と僕は言って、深呼吸をした。緊張感が湧き出す前に、―僕はさっと行動に移す。僕がグラスを高らかに掲げると、みんながその動作を真似た。

「巣立ちの時に! 乾杯!」と僕は言う。

「巣立ちの時に! 乾杯!」と、ほとんど全員が声を上げた。

しかしイルサの口は動いていなかった。

それってどういう意味? と彼女がきょとんとした目で僕に訴えかけている。

彼女は理解していない。

もう他のみんなはすでにシャンパンを飲み始めていたが、僕はもっとはっきり言おうと、もう一度グラスを持ち上げた。

「僕はこのマンションから巣立って行くわけだけど、―ニューヨークの街からも巣立って行くことにしたよ。自分の要塞というか、居心地のいい安全地帯から抜け出て、世界を見つけに行くんだ」

僕は細長いシャンパングラスを口につけ、グイッと一気に飲み干した。パーカーが、よくぞ言ったと拍手しようとして、手に持っていたシャンパングラスから、シャンパンが飛び散った。ヨハンは興味津々といった感じの眼差しでこっちを見ている。KKはあやしむような目つきだ。フレデリックの目には何の感情も見えないが、隣のカスピアンは僕を応援してくれているみたいだし、リーも好意的に受け止めてくれたようだ。

ただ、イルサはまだシャンパングラスに口をつけようともしない。

「あなた、いったい何のこと言ってるの?」と言って、彼女は手に持っていたグラスを置いた。

「僕はたぶん、カリフォルニアに行く」と僕は告げる。

KKが甲高い声を上げる。「ちょっと、カリフォルニアのどこへ行くのよ? そんな大雑把な言い方しないでちょうだい。北カリフォルニアと南カリフォルニアは、全く違う場所よ。ロサンゼルスに行かないのなら、そうね、たとえば、実際はニューヨーク州のロチェスターに行くのに、『ニューヨークに行く』って言ってるようなものよ」

「それって、いつ決めたの?」とイルサが聞いてくる。

「2分前かな?」と僕は答える。

もっと僕の門出を喜んでよ、と僕は彼女に言いたくなる。笑顔で送り出してよ、と。

「それって、あれね、計画というより、衝動的な気の迷いって感じね」と彼女が言う。

「素晴らしい考えだとぼくは思うよ!」とヨハンが褒め称えるように言った。僕はちょっと混乱して、顔が引きつってしまう。彼が僕の背中を押してくれるのは嬉しい反面、彼が住んでるこの街から遠く離れた場所に行くって言ってるのに、そんなに熱狂的に喜ばれると、悲しくもなる。

「ボクは南カリフォルニアよりも、北カリフォルニアが好きだな」とカスピアンが手を挙げる。

「私も」とリーが賛成の声を上げる。

「まあ、あんたたちはそうでしょうね。―あんたたちは二人ともなんちゃってニューヨーカーだから」とKKが凄みを利かせて、食ってかかる言い方をする。彼女の憤りは底なしだ。

「ってことは、お前は違う意見か?」とパーカーがKKに尋ねる。

「あたしはここニューヨークで、時間を潰しながらチャンスを待つわ」とKKが答える。

「誰もカリフォルニアに行かないで」とイルサが懇願するように言った。

「俺はもう決まってるから、絶対行くよ」とパーカーが指摘する。

「あなたはいいのよ

パーカーが参りましたと言わんばかりに両手を上げた。「了解。でもさ、これって俺に関係あるんだけどな」

イルサは、両手を上げて降参している彼に向かって、さらに撃った。「いい、あなたはこれには何の関係もないのよ。わかった? 彼の気の迷いの原因は、あなたじゃないの。いいわね?」

「わおっ!」とパーカーが驚きの声を上げる。「お前の兄想いは凄いな。告白してるみたいなものだぞ」

「お兄ちゃんはどこにも行かないの! 私たちはみんな、それくらいわかってるんだから」

「ぼくはわかってないよ」とヨハンが言う。

「ボクもわからない」とカスピアンも同調する。

「あんたたち二人はなんにも知らないんだから、いいの」とイルサが言う。

「その言い方、ビッチっぽくていいわ」とKKが手を叩いて笑った。

「イルサ、―」とリーが話し始めようとする。

「僕はどうかな?」と僕はすかさず割り込んだ。「僕は僕自身のことわかってるのかな?」

「もういいわ」とイルサが言った。それから彼女はシャンパングラスを掲げる。「今度は私が乾杯の挨拶をする番よ」



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〈キャラクター紹介 part 2〉


サム:一人称は「僕」。イルサと二人きりの時はやや強気で「俺」

イルサ:一人称は「私」


ドリー・パートン:『I will always love you』などを歌っていた往年のシンガーソングライター。ヨハンが好きすぎて、ドリーのフィギュアを何体も作り、バイオリンケースに入れて持ってきた。

バーバラ・スタンウィック:無声映画時代の名女優。女帝が長年住んできたマンションは、昔スタンウィックが最上階に住んでいたことから、「スタンウィック邸」と呼ばれている。彼女の亡霊の目撃情報あり。


カービー・キングスリー(KK):「スタンウィック邸」の最上階に住んでいる。父親が銀行家でお金持ち。フレディ(カスピアン)とラブラブな感じ。一人称は「あたし」

リー・チャン:たまに予知夢を見る。イルサのことが好き。一人称は「私」

フレデリック・ポダランスキー(フレディ):イルサがフレディをサムの恋人にしようと招待したのだが、フレディはKKを気に入ってしまった。一人称は「俺」

カスピアン:フレディが達人技で操る靴下の人形。一人称は「ボク」


パーカー:イルサの元カレで元ダンスパートナー。サムの幼なじみで親友。一人称は「俺」

ジェイソン:サムの元カレ。イルサと敵対関係にある。一人称は「俺」

ヨハン:サムが地下鉄で一目惚れした〈地下鉄の彼〉。南アフリカ出身の白人で、サムが落ちたジュリアード音楽院に通っている。ツイッター好きの#スタンタの元カレだったことが判明。ジェイソンが言うには、ヨハンは嘘つき。女帝の元夫のバイオリンを弾いて、イルサとパーカーのラストダンスの伴奏をした。一人称は「ぼく」


マデリーン・ホーグ(マディ):女帝のアパートメントの隣に住んでいる家族の7歳の娘。もうすぐ女帝のアパートメントは彼女の家族のものになり、女帝が出て行ったあと、リビングルームの壁を取り壊して、ひとつづきにする計画。イルサは現在もホーグ家で子守役として働いているが、女帝が出て行ったあとは、現在のゲスト用の寝室(兼サムの部屋)に住み込んで、働く予定。

バーグストロム(バーグマン):最近亡くなった独身主義者で熱心なユダヤ教徒。女帝のアパートメントのロビーを挟んで向かいの狭い部屋に住んでいた。イルサには無愛想だったが、サムとパーカーには映画のチケットをあげていた。訳者(藍)に一番近いキャラクター。笑


女帝:サムとイルサのおばあちゃん。登場はしないが、サムとイルサの言及を通じてキャラが立ち、亡霊のように存在感あり。

サムとイルサの両親:言及も少なく、存在感は薄い。KKが思っているように、すでに存在していないのかもしれない...(急にホラー。笑)


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15

イルサ


乾杯の挨拶をしたい気持ちがある一方で、私は怖かった。

サムは、女帝がコレクションしている19世紀製のバカラ・クリスタルのシャンパングラスを取り出していた。彼女がキャビネットの一番上の棚に並べている観賞用のフルートグラスで、女帝の誕生日以外、めったに取り出すことはない。(彼女の誕生日は2月29日だから4年に1度しか来ないんだけどね。)金で縁取りされたクリスタル・ゴブレットは、私たちの家族の歴史にとって非常に重要な品である。女帝の曾祖母と彼女の妹がアメリカに持ち込んだ物で、その姉妹は、20世紀初めに東ヨーロッパで行われた民族大虐殺から逃れてきたんだけど、その際に、スカートの中に隠して持ってきたっていうから凄いわ。女帝が最も大事にしている貴重なグラスよ。

もちろん、その聖杯伝説は嘘でしょうね。実際、8本のクリスタル製のシャンパングラスを姉妹2人で分けたら、1人4本ずつ。それをスカートの裏地に挟み込むようにして、山を登ったりしながら、割らずに逃げ通せるなんて、。歩くたびにグラス同士がカチャカチャぶつかって、その辺に潜んでいるかもしれない兵士の耳に聞こえたらどうしようって、それだけで神経をすり減らして、ストレスで死んじゃうわ

私の先祖ですもの、驚異的なスキルでそれを成し遂げたっていう可能性も十分にあるわ。ただ、ちょっと出来過ぎてるというか、ストーリーに穴があるなと思ったの。それに女帝は、彼女の祖母からこのグラスを受け継いだ後、『サウンド・オブ・ミュージック』を繰り返し何度も観てるのよ。彼女って昔から、事実とフィクションの境界線があいまいなところがあるから。まあ、そういうところも、私が女帝を尊敬してやまない特質の一つではあるんだけど。

とはいえ、彼女の最大の特徴は怒りっぽいことで、―私は過去最大級に怖くてたまらない。ちょっとしたことでチクチク嫌味を言われるくらいなら、なんてことないわ。たとえば、女帝が帰って来て、彼女が保存しておいたお酒がすっかり飲み干されていることに気づき、見れば、ペルシャ絨毯にお酒をこぼした染みができている、とか。もっとレベルを上げて、サムがみんなにふるまっちゃったお酒が、彼女のコレクションの中で最上のシャンパンだった、とか。それはもの凄く高価な本物のフランスワインで、まばたきしてる間に過ぎ去る閏日に、彼女が自分の誕生日を祝ってちょこっと飲んだり、あるいは大晦日に他のお酒を飲みすぎちゃって、元日に「二日酔い醒まし」としてちょびっと飲んだり、そうやって彼女が少しずつ大切に飲んでいるもので、そのワインがすっかり空になっていたら、彼女はそれなりに怒りを爆発させるでしょう。怒りの矛先はいつも私に向かうわけだけど、そのレベルならまだ、私もなんとかやり過ごせる自信がある。でも、このシャンパングラスを誰かが割ってしまったら、と思うと、私は怖くて仕方ない。他に替えがきかない代物だから。ディナーテーブルを取り囲む酔っ払いたちの誰かが1本でも割ってしまったら、女帝の核爆弾級の怒りが落ちてくる。そんなもの、私には受け止められないし、受け止め役を引き受ける気もさらさらないわ。

私は18年間、サムが問題を起こしたり、私の友達がどんちゃん騒ぎをした後の、怒られ役をいつでも務めてきたわけだけど、―今回ばかりは、もしそんなことが起こっても、私は責任を取るつもりは一切ない。このグラスを取り出したのはサムだし、1本でも何かあったら、それはサムのせいよ。

っていうか、彼がカリフォルニアに行くなんて、そんなの誰も信じないわ!

私は乾杯の挨拶をしようと、この聖なるゴブレットを掲げたわけだけど、その神聖さが怖すぎて、握る手が震えてしまう。ちょっと力を抜いたり、手が滑っただけでも命取りになるから、否が応でも手に力が入ってしまう。「太陽が光り輝く州に行っても、サムの未来が希望に満ちたものでありますように!」とは言ったものの、握り締めているグラスに意識を全部持って行かれて頭が真っ白になり、この後、何を言ったらいいのかわからなくなる。

私が少しの間黙っていると、カスピアンが言った。「太陽が光り輝く州ってカリフォルニアのこと? だったら太陽じゃなくて金、ゴールデンステートって言ってよ」

ああ、バスケのチームのことか。靴下くんはバスケ好きだったんだっけ。

「ゴールデンステートね!」私は続ける。「そして、干ばつで干上がる州、車ばっかりで排気ガスが立ち込めるステート、―」

「それは南カリフォルニアの問題よ」とKKが口を挟む。「サムはもっと北の方で暮らす自分の姿を思い描いてるんじゃない?」と彼女は笑う。「どうせすぐに嫌気が差すでしょうけどね、サム」と彼女はサムに話を振った。「北カリフォルニアはあなたが暮らしていけるようなところじゃないわ」

サムは言う。「KK、君がそう言ってくれて、ますます自然溢れる北カリフォルニアに行きたくなったよ。これが心の琴線に触れたって言うのかな、今、心のベルがキュンと鳴った」

リーが言う。「私はサンフランシスコの〈ベイエリア〉が、どうして北カリフォルニアと呼ばれているのか、よくわからないの。地図を見ると、あの辺りって、北というより真ん中でしょ」

ヨハンが同調する。「たしかに! ぼくはシスキユー郡にハイキングに行ったことがあるんだけど、あそこは真の北カリフォルニアって感じだったな。北カリフォルニアの本場と〈ベイエリア〉は、全くの別世界だよ。別の国って言ってもいいくらい」

パーカーが歌い始める。「I left my heart in San Fran―(私の心にはいつでも、あの時のサンフランシスコが―)

「ちょっと、今は歌うのやめてもらってもいい?」と私は言う。私の挨拶中に失礼すぎでしょ。見れば、みんなはグラスを掲げたまま、私が乾杯!って言うのを今か今かと待っている。うざったい挨拶をさっさと終わらせようとしているらしい。

テーブルを取り囲む邪魔しい達が、しんと静まり返った。グラスを持ち上げたまま、一斉に私を見る。私が何か深いことを言うのではないか、とみんなして期待する表情を向けてくる。(私はサムに言いたいことがあるだけなのよ。祝福じゃなくて、嫌味だけどね。)私は言う。「サム! 眩しすぎる太陽の下では、さぞかし快適な暮らしが待っていることでしょう―」

「ほら、また。あなたがイメージしてるのは、南カリフォルニアなのよ」とKKが言う。さっきから彼女は論点がずれてるのよね。黙らせるために殺そうかしら。

It never rains in Southern California(南カリフォルニアでは雨なんて降らないはずなのに)」とパーカーが別の曲を歌い出す。

「イルサの挨拶を聞きましょ。聞かないと終わらないでしょ」とリーが言う。「腕が痛くなってきちゃった」

「早くシャンパンを飲みたいよ。喉がカラカラだよ」とカスピアンが言う。

私は深く息を吸ってから、もう一度乾杯の挨拶をし直す。「マンハッタン島を離れたら10日間も生きていけないサムのために―」

今度はサムが茶々を入れてきた。「それは7年前の話だよ。タイコンデロガ砦にキャンプに行ったんだけど、骨折しちゃって! どうしても帰らざるを得なかったんだ!」

あの程度の怪我だったら、絶対最終日まで残れたはず。それなのに彼は私を置いて、そそくさと帰っちゃったのよ。それから5日間、私は蚊に刺されながら、かごを織ったりして、思春期直前のレズビアンの女の子たちに囲まれて過ごしたのよ。大体みんな、年上の世話係の女の子たちに憧れを抱いていたわ。

私は彼を無視して続ける。「カリフォルニアに夢を抱きながらも、リンカーンセンターを中心に半径20ブロックの範囲内でしか生きていけず、そこから一歩でも出ると、じんましんが出ちゃうサムに」

「乾杯ね?」とリーが言って、掲げていたグラスを傾け、シャンパンを口の中に注ぎ込んだ。

「乾杯!」と他のみんなも続いて、グラスを口に運ぶ。サムだけは黙ったまま目を細め、私をじっと見つめていた。それから彼もシャンパンを飲む。それを見て、私も飲んだ。

「極上のシャンパンだね!」とカスピアンが声を大にして言った。

「ほんとに? あなたにシャンパンを味わう舌ってついてたっけ?」とリーが聞いて、フレディに目を向ける。

KKが唇を舐めた。「ああ、最高。イルサが親の家の冷蔵庫からパクって来る〈トレーダー・ジョーズ〉とかで買った安物とは、格が違うわ」

「うちの親が冷蔵庫に保管してあるワインも、スーパーとかで売ってる安物じゃないよ」とサムがKKに言う。

KKが私を見て言う。「じゃあ、イルサといつも飲んでたやつも、高級ワイン?」私は頷く。KKがハッと息をのんで、サムをにらみつけた。「そんなこと、わざわざ知らせてくれちゃって」

「勘弁してくれよ。せっかくの気分が台無しになるじゃないか」とサムが返す。「怒るほどのことでもないだろ」

たしかにシャンパンは美味しかったけれど、私は落ち着いて味わうことができなかった。サムも私と同様に気持ちがそわそわしている様子で、グラスを置くと、私に聞いてきた。「それで、僕がカリフォルニアでは生きていけないって思う理由は何?」

私は答える。「ちゃんと計画を立てて、しっかり心の準備もできてから行けば、まあ生きてはいけるんじゃない? でも、一時の気まぐれで行ったって、ね? 無理に決まってるでしょ。生きていけるかどうかの以前に...たどり着けないんじゃない。っていうか、行きたい気持ちもすぐに冷めるわ。その程度の小さなことなのよ、そうでしょ?」

「冷めないし、大きなことだよ」とサムが返してくる。

「じゃあ、好きにすれば。あなたの空想を邪魔するつもりはないわ」と私は兄に言う。「ファンタジーがそんなに大事なら、行ってらっしゃい」

「大きなことだって言ったのは、イルサのことだよ」とサムが言う。「君が僕のことをわかっていないっていうのが、大きなことなんだ。場所はどこだっていいんだよ。それより、僕にはどこへも行けないって君が思ってることが」

Whoomp, there it is(ウーーン、それは言えてる)」とパーカーが歌う。

私以上にサムのことをわかってる人なんていないでしょ。彼は何をむきになってるの? 彼も月経前なの?

「もちろん、行けるんじゃない?」と私は言う。「飛行機もあるし、電車もあるし、車でだって行けるでしょ。私がちゃんと計画を立ててって言ったのは、交通手段のことじゃないわ」

「こっちだって、そんなこと言ってないよ」とサムが言い返す。「僕が言ってるのは、君が僕を居心地のいいっていうか、都合のいい巣の中に閉じ込めてるってことだよ。勝手に僕はこういう人間だって、君の頭の中で作り上げた虚像の巣の中にね。本当の僕を知ろうともしないで。僕はちゃんとカリフォルニアに移り住めるよ。ここではない場所っていう以外は特別な理由がなくても、そこで何が僕を待ち受けているのか見当もつかなくてもね」

「カリフォルニアがそういう場所だっていう考えは、なんか、フェリシティとは逆の考え方だね」とヨハンが言う。

「フェリシティって誰?」と、テーブルを囲むみんなが一斉につっこみを入れた。

ヨハンが答える。「君たちアメリカ人は、自分たちの国のポップカルチャーなのに知らないんだね。外国人のぼくの方が詳しいってどういうこと? フェリシティっていう女の子が主人公のドラマだよ。彼女はカリフォルニア州パロアルト出身で、高校時代から好きだった男子がいて、彼を追いかけてニューヨークの大学に行くんだ」

「ストーカーっぽい」とKKが言う。「あたしはそういうの好きだけど」

ヨハンは言う。「ぼくはそのドラマを見て、ニューヨークの大学に行きたくなったんだ。それだけが理由じゃないけど、一つのきっかけだね」

「ってことは、君も高校時代から好きだった男子を追いかけて?」とパーカーが聞く。

「男子というか、これまでの人生とは全く違う体験を追い求めて、ここにやって来たんだ!」とヨハンが歓喜の声を上げた。彼の顔は、お酒を結構飲んだため、赤く火照っている。彼は人差し指と親指で架空の指揮棒をつまむようにして、マエストロさながらに腕を振り上げ、叫んだ。「音楽を追いかけて! 夜の遊びを追い求めて! 危険な遊びを!」

「ピザを追い求めて!」とカスピアンが言う。

「炭水化物のことは言わないでちょうだい。あなたったらそうやって、すぐグイグイ割り込むんだから」とKKが言う。さっきの停電の時、暗闇でグイグイ割り込まれたことを言っているのかしら? KKが皮肉めかして、二重の意味を込めるとも思えないけど。

「炭水化物と言えば、さっきあなたの年下の友達、隣の子が持って来てくれたクッキーはどこ?」とリーが聞いてくる。私は〈ジャンクトランク・クッキー〉が入った缶を取って来て、テーブルの中央に置き、ふたを開けた。まず自分が食べる用に一つ取ってから、その缶をリーに渡す。彼女はクッキーを取り出し、一口かじった。「これは、なんていうか、おぞましい見た目とは裏腹に、私が今までに食べた最高のクッキーかもしれない」

彼女はその缶をパーカーに手渡す。彼はそれを受け取ると、クッキーを一つ取り出して、かじった。「すぐには何とも言えないな。なんか危険な味がする、病みつきになりそうなやばい味」

彼はその缶をサムに回し、サムがそれをすぐにヨハンに回した。「今夜は僕は遠慮しとく。糖分の取り過ぎで、糖尿病が悪化して失神するといけないから」とサムは言う。

ヨハンにはサムみたいな気の迷いはないようで、彼はすかさずクッキーを口に入れた。「これってポテトチップスも入ってない?」

私は言う。「ええ、入ってるわ。それからチョコチップ・クッキーと、バタースコッチ・チップと、モルトミルクボールと、ピーナッツと、それにプレッツェルも―」

「やめてくれ」とヨハンが言う。「このクッキーを食べ終わったら歯が全部抜けてる、なんて悪夢を見させないでくれ」

「ジェイソンはサムの部屋で寝てるんでしょうけど、彼の魂が抜けてないといいわね」と私は言う。「このクッキーを食べさせて、彼の息の根を止めちゃったとか」

「やめろ!」

サムが声を荒げて絶叫した。私はぽかんと彼を見つめる。聖人のサムが、そんな言い方をするなんて信じられない。

「やめろって何を?」と私は彼に聞く。

「ジェイソンのことを悪く言うのはやめろ。僕に干渉するのはやめろってことだよ」

「干渉?」私はあっけに取られて、目を丸くする。「私が何を言ったって、どうせあなたはジェイソンと、したいことをするでしょ」

「だから、何も言わないでくれるか? 君の意見は胸にしまって、僕には僕の人生を生きさせてくれないか? 僕が好きになった人が、どうしようもないやつだったとしても、僕はそれを自分で確かめたいんだ。君の助けは要らないんだよ、イルサ」

彼は私の助けが必要に決まってるじゃない。私は彼より、8分早くこの世に生まれたんだから。うぶで世間知らずのサムより、私はほんのちょっとだけ、世の中のことを知ってるはずよ。

「いいわ」と私は言う。

ほんとはよくないけど。

私の胸が痛んだのは、私がサムのことをわかってないってサムが思っていたことよりも、私が何か言うたびにそんなに彼の心が傷ついていたのなら、そう言ってくれればよかったのに、彼が胸の内を打ち明けるほどには私を信頼していなかったってこと。そのことに私は裏切られたと感じ、胸の痛みが増した。彼が何も話してくれなかったことは、私が妹失格だって突き付けられたようなものだ。私は、彼が私の助けを必要としているかどうかを聞くことさえできなかった。勇気がなかったのね。女帝もそんなことを彼に聞いたりはしないでしょうけど。―彼女の場合、聞く前に行動に移して、彼を助けちゃうのよね。サムと女帝は、あうんの呼吸で共鳴し合う名コンビだから。サムと私は双子なのに、以心伝心も働かないし、つい同じことをしちゃうみたいなシンクロニシティもない。私たちはただ、同じ子宮から出て来て、同じ(二つの)マンションで育てられたってだけ。マンションは同じだけど、部屋は彼の方が良い部屋を与えられたのよ。―この女帝のマンションでもそうだし、それから彼女の心の中でもね。

「誰かがひそかに胸の内で憤りを募らせているね」とカスピアン教授が心理分析を披露する。

「君の秘訣を教えてくれないかな?」とヨハンがカスピアンに尋ねる。イライラしている様子なのはサムなんだけど、ヨハンはサムからみんなの注意をそらしてあげようとしているみたいだ。「ぼくが聞きたいことわかるよね? カスプ、君が女の子を簡単に手なずけちゃう秘訣だよ。いつの間に仲良くなってたんだい?」―ヨハンはKKをチラッと見る。―「どうやって、なんていうか、合意を得るんだ? 何か特別なスキルがあるとか―」

「それはセコンドっていうか、裏方のなせる技だろ?」とパーカーが指を動かして、操り主を指し示しながら言った。

フレディとカスピアン以外の全員が口を大きく開けて笑った。カスピアンはそもそも口が縫い合わされているから、笑えないのかもしれないけれど、フレディの表情には、殺意がにじみ出ているような、暴動を起こそうとしているような不穏なかげりが見えた。そこでKKが彼の誇りを取り戻そうと、声を上げた。「信じて。カスピアンとフレディには秘訣も秘密もないのよ。ちゃんとすべての手順を踏んだわ」そう言うと、彼女は私を見遣った。KKのあの表情、彼女が私をいともたやすく裏切る時にする顔だ。「サム、秘密があるのは誰なのか、ご存知? それはイルサよ。彼女に聞いてごらんなさい。あなたがカリフォルニアのどこかに移り住んでいる頃、イルサはどこで暮らすつもりかって。とは言っても、あなたはカリフォルニアのことをなーんにもわかってないみたいだから、決心がつかないんでしょうけど」

サムが言う。「君が言ってるのは、ホーグ家がこのアパートメントを引き継いだあと、イルサがマディの世話係として、僕の部屋に住むっていうイルサの計画のこと?」

「あなた知ってたの?」と私は言う。やっぱりというべきか、彼は知っていたのだ。いつでもそうだ。誰も口には出さない家族の秘密を、彼はいつの間にか共有している。女帝があやしいわね。女帝が一番いいゲストルームをサムに与えたのだって、彼女がサムを一番大事な子だと思っているからであって、私はその他の家族の一員に過ぎないのよ。

サムは言う。「もちろん知ってたよ! ずっと君が言ってくれるのを待ってたんだ。それなのに君は、いつものやり口だ。ひそかにボードをゆすって波を立てて、だんだんと揺れを大きくしていって、ボードが旋回してみんなが慌てふためいたところで、実はって言い出す作戦だろ」

「イルサが子守なんて、そんなの馬鹿げてるわ」とリーが言う。「よく考えてごらんなさい。そんな、あなたが望んでもいない仕事をして時間を無駄に使うなんて、しかも、あなたがよく知ってる場所でなんて、そんなのつまんないでしょ」

「じゃあ、私は何をしたらいいわけ?」と私は彼女に聞いてみる。

パーカーが口を出してくる。「大学に行けよ。それか、放浪の旅に出ろ。羨ましかったサムの部屋を最終的に自分のものにしたいんだろうけど、それだけのために、ここに残ったってしょうがないだろ」

それだけのためじゃないし。

ほんとにそれだけじゃない?

私はなぜここに残ろうとしているんだろう?

KKが言う。「あたしはこれからも、この後先考えない子にとことん付き合ってあげるけど、そんなベタな意地を張って、自分の人生を棒に振るのはやめなさい、イルサ」

「でも、後先考えずに突っ走るのがイルサなんだよ」とサムが言う。「みんな知ってるだろうけど」

「うるさい!」今回ばかりは、私の頭の中で導火線がプチンと切れる音がした。「子守のどこが、人生を棒に振る仕事なのよ!」

リーが言う。「たしかに子守は立派な仕事よ。ただね、あなたの年齢で、人生のこの時期にやる仕事かしら?」

ヨハンも言う。「その仕事を本当に必要としてる人が他にいるはずだよ。君がそれをやることで、その人から仕事を奪うことになるんじゃないかな」

みんなで寄ってたかってボコボコにされている気分になった。そんな私を優しくなだめるように、リーが言った。「そんな簡単に、自分に見切りをつけたらだめよ」

「他に何をやったらいいかわからないの」と私は正直に打ち明けた。

私は自分自身について言ったつもりだったんだけど、なんだかリーは、もっと広い世界の大きな問題として受け取ったようで、こう返された。「これからは恐ろしい時代になっていくわ。とにかく行動すること。立ち上がるのよ。立ち向かうの。どんどん表に出て行きなさい。スタンウィック邸のお金持ち連中から、おこぼれを恵んでもらって生きていこうなんて、そんなつまらないこと考えてないで、もっと大きな夢を見なさい」

「ちょっと!」とKKがすかさず問い詰める。「それはあたしへの当てつけ? あたしもここの住人なんですけど」

「もちろんそうよ」とリーは平然と返す。「それより、イルサ、あなたはどんな人になりたいの?」

「たぶんね、君はパーカーとサムと一緒に、カリフォルニアに行くべきだよ」とヨハンが提案する。

「だめ」と、パーカーとサムが二人して声を上げた。

「ただ」とパーカーが私を見て、付け加える。「俺は君に感謝しなきゃいけないことがあるんだ。スタンフォード大学の学費に、5千ドルの奨学金をもらえたから」

「それってなんで?」と私は尋ねる。

「俺たちの最高のダンスが認められたからじゃないか?」と彼が答える。

「メレンゲ・ダンス」と私は言う。

「そう、それ。大学の奨学金ガイドブックっていうのがあって、そんなガイドブックが存在することすらほとんど誰も知らないだろうけど、中身は小難しい用語がずらっと並んでるんだ。わかりにくいったらありゃしない」

「あっそ」と私は言う。大学に関する分厚いガイドブックが何冊もあるのは知ってるけど、そのうちの1冊だって私は開いたことないし、あんなの読む気もしないわ。大学に進学するのに必要な手続きとか面倒くさいことは全部、親に任せっきりだったから。

そんなんじゃだめ、イルサ。

パーカーが言う。「〈ニューヨーク市メレンゲ協会〉が奨学金制度のスポンサーになってるんだ。それで彼らのお眼鏡にかなって、俺が選ばれたってわけ」

「どうやって選ばれたの?」と私は聞く。「メレンゲについての小論文を書いたとか?」

パーカーは答える。「そう、メレンゲについての小論文を書いたんだ」

私は冗談のつもりで聞いたんだけど。

「恥を忍んで書いたよ! でも決定的な要因になったのは、ビデオのほうだった。大会での俺たちの雄姿を提出したんだ。君と一緒に数々の大会に出たけど、君のおかげで俺は輝けた。うちの親も君に感謝してるよ。何しろ、毎年5千ドルも節約できるんだから」

「すごいじゃない、パーカー。あなたは奨学金を受けるに値するわ」と私は本心を言った。

彼との別れは、だいぶ痛みは引いたとはいえ、まだ胸の内でくすぶっている。サムは親友と私の別れを知って、板挟みになった感じで戸惑っていた。もちろん、サムは私を責めた。責められるのはいつも、後先考えないビッチの私って決まっている。でもサムは知らないし、知る必要もない。パーカーと私が別れた理由は、二人だけの秘密にしてある。

あの時、生理が一週間遅れていて、私はパーカーにそう話した。彼はいつものように親身になってくれた。彼は薬局に行って、検査薬を買ってきて、私に手渡した。私はその検査棒におしっこをかけた。私の心は震え上がり、結果が出るまでの時間をただ待っているのがいたたまれなくなった。私はパーカーにお願いして、二人でセントラルパークに行ってアイススケートをした。あの日は冬で、雪が降っていた。なにもかもが魔法にかかったようだった。私は永遠にパーカーの腕の中にもたれていたかった。

二人で家に帰って、私の寝室で結果を見た。ポジティブだった。妊娠していたというのに、どういうわけか、パニックになることはなく、私はどこかしらほっとしていた。恐れていたことが現実になったわけだけど、今までに私の身に起きたことの中で最悪という感じはなかった。たぶん逆に、最高の瞬間だったんだと思う。そのポジティブを示す棒が、私に未来をくれる気がした。私にはパーカーを束縛したいなんて気持ちは全くなかったし、彼には大学に行って、夢を実現させてほしいと今も願ってやまない。だけど、これから先、私たちに何が起ころうとも、私はあの時の彼の表情を思い出してしまうんだわ。

パーカーは黒人だから、顔色の変化はそんなに目立たないんだけど、あの日の午後、彼は確かに青ざめていた。「君が決めることだよ」と、口ではそう言ってくれたけれど、彼がどちらを望んでいるのか、はっきりと伝わってきた。

それから3日間、私たちは誰にも言わずに縮こまっていた。私の中で気持ちが固まるまでは、家族に打ち明けたくなかった。私たちは〈プランド・ペアレントフッド〉に行って、相談に乗ってもらった。家族に話す前にそこに行くことで、私たちがどれだけ責任感を抱いているかを示したかった。

そこで受けた検査では、今度はネガティブだった。医者は、薬局で買った検査薬が誤ってポジティブを示したのだろうと説明してくれた。検査薬の箱に書いてある時間内に、結果を見なければいけなかったらしい。その時間が待ち遠しくて、私たちはアイススケートに行ってしまった。検査棒にかけた尿が乾いて、試験紙に蒸発ラインが浮かび上がることは、珍しいことではないと医者は言った。推奨時間が過ぎた後に検査結果を見た人が、尿の蒸発ラインを妊娠を示すラインだと混同することは、よくあるそうだ。

それから一週間後、パーカーから別れ話が出て、私たちは別れた。彼はそのような深刻な関係に身を置く覚悟はまだできていなかった。私も覚悟はできていなかったけれど、―私は覚悟より先に行動しちゃうタイプだから、妊娠していたら産んでいたでしょう。

サムがグラスを持ち上げて、「パーカーと彼が勝ち取ったメレンゲの奨学金に、乾杯!」と言った。

それに合わせて、みんなもグラスを掲げ、パーカーに向けて「乾杯!」と言った後、グラスに口をつけて、もう一口すすった。KKだけは乾杯とは言わずに、それでもシャンパンをごくごくと喉に流し込んだ。

すると、サムが空になったグラスを持ち上げた。

彼の表情から、私は彼の気持ちを読み取る。—

—何かをためらっている表情だ。

私は—

ああ、神様、私はどうしたらいいの?—

ただ—

—私は怖くて、もどかしくて、混乱している。

サムが意を決したように目を細める。—

—そして彼は、女帝が何より大事にしている家宝を、手吹きで作られた貴重なクリスタル・シャンパングラスを、壁に向かって思いきり投げつけた。



16

サム


だって、もううんざりなんだよ。女帝が僕を大のお気に入りだって思ってることに。―女帝だけじゃない。イルサも僕を大事な子だって思ってることにもううんざりだから。だって、今日でおさらばだから。だって、今夜で終わりだから。だって、どうせいつか壊れるものを大事にしていることに嫌気が差したから。だって、この衝動の本質を底まで見てみたかったから。だって、みんながどういう顔をするのか見てみたかったから。だって、僕の中でずっとくすぶっていたことを吐き出したかったから。そうすれば、僕が今までどんなことを胸の内に秘めていたのか、みんなに知らしめることができるから。だって、女帝がパリにイルサを連れて行かないみたいだから。女帝が僕に、パリのことはイルサに言っちゃだめって言ったから。そして僕は女帝の言いつけに従ってしまうから。だって、僕は本当にカリフォルニアに行きたいのか、自分でもよくわからないから。今までの僕とは違うんだってことをみんなに信じさせたいってだけで、僕はカリフォルニアに行くって言ってるのかもしれないから。だって、さよならパーティーの締めに飲み干したグラスを壁に投げつけるのって、お祭りって感じがするから。もう現状には戻らないっていう決意表明になると思ったから。だって、イルサが僕を精神的に病んでる人みたいに見てるから。しかも実際、僕の精神はねじ曲がってるから。僕はイルサと僕の関係を二人で一人みたいに思ってるふしがある。僕が心配しない役を取れば、彼女が心配する役を務めてくれるって、僕はイルサに負んぶに抱っこの状態なんだ。だから、そうじゃないんだって、それを覆したかったから。それに、これって地球の彼方からこっそり持ち込んだものでしょ、そんなものを何十年もばれないようにびくびくしながら隠しておいたって心労が溜まるだけだよね? だって、こうすればパーカーが笑ってくれると思ったから。だって、ヨハンはどうせそのうち僕を怖がって逃げて行くから、だったら、さっさと彼を怖がらせたかったから。だって、僕が何かを達成しても、イルサはどうでもいい感じで、それは良かったわね、みたいに言うから。

グラスを壁に投げつけた直後の心境は、不思議と落ち着いていた。もっと恐れおののく気持ちになると思ったし、後悔の念に駆られて、グラスを元通りにしようと急いで破片を寄せ集めにかかると思った。

でも僕はそうはせず、ぽかんと僕に注目しているみんなに向かって、質問を投げかけた。

「君たちならどうやって抜け出す?」と僕は尋ねる。「要塞から抜け出す方法を教えてくれないかな?」

イルサはショック状態で固まったまま、僕を凝視している。彼女が口火を切るは無理そうだった。率先して最初の1打を放ったのはヨハンだった。

「わかってると思うけど」と彼は言う。「これはぼくの場合ってことだから。ぼくが経験したことが、そのまま誰にも当てはまるわけじゃないし、正しい方法があるとか、間違った方法があるとか言うつもりもない。それでもよければ話すけど...えっとね、ぼくの場合は、いつも頭に目的地を思い描いていたかな。―そこにたどり着けるチケットをどうやったら手に入れられるか、いくら貯めればいいのかを考えるんだ。もちろん実際にお金の計算をするわけじゃないけど、―というか、そこにはお金の計算も含まれるわけだけど、もっと広い意味で道筋を思い描くんだ。行き詰まってる場所から、行きたい場所へ連れて行ってくれる乗り物は何なのかを考えるんだよ。誤解しないでほしいんだけど、―行き詰ってるっていうのは、何も親や友達に縛られてるって意味じゃない。ぼくは周りのみんなが大好きだったよ。みんな親身になってぼくのことを考えてくれたからね。だけど、ぼくは抜け出したかった。ニューヨークに行きたい気持ちの方がずっと大きかったんだ。そして、そこへぼくを連れて行ってくれるチケットは、音楽だって気づいたんだ。その時、ぼくはまだ12歳とか13歳くらいだったけど、音楽を頑張ればニューヨークに行けるって確信した。家族や友達より音楽が好きだったかというと、そこまでじゃなかったけど、―幼心に長く付き合っていくものだとはわかったよ。人生を通して愛情を深め合いながら、音楽とともに旅して行くんだろうなって」

そう言われてみれば、僕も音楽に対して、以前同じような感情を抱いていた。我を忘れるくらい音楽にのめり込んでいく感覚が大好きだった。―でも、それって現実からの逃げだよなって思った時から、僕の中で何かが変わった。我を忘れないように自制をかけ始めたんだ。逃げの道具に使うなんて、音楽に対して失礼だと思ったし、自分に対してもフェアじゃないと思った。

ヨハンは続ける。「ぼくは自分に言い聞かせたよ。抜け出すっていうのは、逃げるわけじゃないって。それに昔とは違って今は電子機器もあるからね。ぼくは故郷を離れて、地球を半周してここまで来たんだよ。わかる? でも毎日電話できるし、ぼくが望めば、毎日ビデオ通話だってできる。大事なポイントはね、『ぼくが望めば』ってところだよ。自分で選択できるんだ。ぼくは抜け出したけど、完全には抜け出していない。つながりたいと思えば、いつでもつながれる」ヨハンが少し間を置いた。「これは君への答えになってないね。どうやって要塞から抜け出すか、だよね? ぼくの場合は、いつでも必要な時に家に帰れるって自分に言い聞かせること。それから長く付き合っていける愛すべき何かを見つけること。他の誰かになろうとしてみるっていうのもありだね。べつに過去の自分に背を向けるって意味じゃないよ。窮屈な自分という殻に囚われすぎないってこと。心を広げる感じで、新たな風を入れるんだ。そうすると、ずいぶん呼吸もしやすくなるはずだよ。ぼくの故郷ケープタウンから、ここニューヨークシティまではるばるやって来なければ、心は広がらないのかって言われれば、ケープタウンに残っていても可能だったでしょう。方法なんていくつもあって、チケットだってたくさんある。ぼくが握り締めたのが、このチケットだったんだ。ぼくは手放さないよ。夢を追いかけてここまで来たんだし、手に持っている限りチケットは有効だからね。だから君も夢を追いかけたらいいと思う」

「そういうのって素敵ね」とリーが言う。「でもね、夢を追いかけるって、実は自分を煙に巻くのに最適な方法なのよ!」

「どういう意味?」とヨハンが聞く。僕も同じことを聞こうと思ったところ、先を越された。

「そうね、考えてみてほしいの。夢を追うってみんな言うけど、夢は自分の外側にあって、それを追いかけなさいって言ってるように聞こえるのよ。実際はそうじゃなくて、頭の中で考えていることに従えってことでしょ。―でも、そんな直接的な言い方はできないわよね。自分の考えに信頼を置けるかどうかもあやしいし。それでみんな、夢を追えって言うんだけど、―そこには見事なほど、すっかり抜け落ちてる前提があるのよ。想像してみて。夢っていうのは私たちの内側にあるものなの。宇宙から降り注ぐ光みたいな夢を、心の受信アンテナで察知するようなものじゃないでしょ。―夢って完全に自分の心から湧き出てくるものなのよ。だから、夢を追いかけようって自分に言い聞かせるのって、自分の気持ちに従ってもいいよって言ってるのと同じなの。自分の気持ちに従う、大いに結構ね。―それじゃあ、一つ例を挙げるわね」

彼女はイルサの顔を見た。「私の場合、夢を見るっていうのは、あなたのことを考えることなのよ、イルサ。あなたともっと仲良くなりたいなって本気で思ってる。今までの私たちの関係より、もっとずっと素敵な関係を築きたいって。その夢を追いかけた結果、私はあなたにキスしちゃったの。本心を言えば、私の中にはいつでもあなたにキスしたい気持ちがあって、ついに、その気持ちに突き動かされちゃった。自分でも抑えられなかったわ。勝手に扉が開いちゃった感じ。でも、開いた扉に入って行くかどうかは、―私たち次第よね」彼女の視線が僕に戻ってきた。「どうやって抜け出すかでしょ? そのうち自然に扉が開くから、そこから抜け出ればいいの。頑張らなくても自然に開くから大丈夫」

彼女がもう一度イルサを見る。僕もつられてイルサを見る。二人はキスをしてるのか? また僕の中で意見が割れた。それなら応援しよう、と思う一方で、僕と同じ領域にイルサも足を踏み入れるっていうのは、正直止めたい気持ちもあった。

自然にって、ちょっとふさわしい言葉じゃない気がするな」とカスピアンが言う。「もちろん、自然に変化していく人もいるけどさ、それって全ての人ができることじゃないよ」

「あなたも〈人〉の部類に入るわけ?」とKKが聞く。「だとしたら、お値打ちものね」

カスピアンは彼女を無視して、ボタンでできた目を僕に向けた。

「君はこっそり手を貸してくれる仲間を見つけないとだね。抜け出すって結構...大変なんだよ。周りの人って、この子はこういう子だって簡単に決めつけちゃうところがあるからさ、周りの期待に外れたことをすると、うちの母さんみたいに混乱しちゃうんだ。あるいは、うちの父さんみたいに、激怒する。ボクの生い立ちを話すのは結構、つらいよ。なにせ、こんな立派なマンションで育ったわけじゃないからね」

「タンスの引き出しの中で育ったとか?」KKはどうにも抑えが効かないらしい。

「そのだらしのない口を開くな!」とカスピアンがKKに向かって怒鳴った。それから彼は僕たちの方に向き直って、言った。「謝るよ。彼女と関わりを持ったのは、いろんな意味で間違いだった。なんて言うか、ボクが育った家はもっとずっと...質素だったんだ。ボクの父は建物の清掃員で、母は100円ショップでレジをやってる。当然、両親はボクも働いて家計を助けてくれると期待した。ボクは働いたよ。家にお金も入れた。でもね、ある時気づいたんだ。この状況って...なんか違うよなって。両親はわかってくれなかったよ。何度か父さんに掛け合ってみたけど、取り合ってもらえなかった。ボクは何年もそんな状況から抜け出したいって思っていたんだ。でもさ、抜け出すって大変なんだよ。お金もいるし、ボクはまだ中学生だったから、お金なんてあるはずもない。っていうか、今だって、そんなにないんだけど」

彼はそこで一息入れてから、続けた。「けど母さんがいてくれたから、―母さんがこっそり手を貸してくれたんだ。秘密の仲間って感じかな。こそこそ隠れて、情報をもらってさ、―内通っていうのかな、家を出る準備を着々と進めてくれた。抜け出すには、ちゃんと秘密を守ってくれる口の堅い同志が必要なんだよ。あそこがボクのいた要塞に他ならないね。君ならわかってくれると思うけど」

僕は頷く。

「君は一人じゃないよ、サム。世の中には、まるっきり一人って人もいる。ボクも最初は一人ぼっちだと思ってた。でも周りをよく見たら、そうじゃないってわかったんだ。君はすでに仲間がこんなにいるじゃないか。中には、理解するのに時間がかかりそうな人も混じってはいるけど、ごく一部に」―そう言うと、彼はKKを見遣った。―「時間をかけてもわからないかもしれないね。君のことをわかってくれない人は放っておいて、前に進めばいいんだよ」

あたしは全然わからないわ」とKKが言う。「ってことは、あたしを除け者にするってことかしら?」

カスピアンが大きく頷く。「その通り」

KKがため息をついた。「靴下に足蹴りされるみたいに、見捨てられるなんてね! まあいいわ、そのうちこうなることはわかってたし」彼女がイルサを睨み付けた。「さてと、―あたしもあなたとそういうこと、したことあったわよね。あなたはどうなの? 幸せ? なわけないか」

「ふられた腹いせに、私に八つ当たりしないでよね」とイルサがきっぱりした口調で返す。

「あら、どうして?―あなたの大切なお兄ちゃまがお尋ねなさってるのよ。応えてあげないなんて、そんなの失礼でしょ」

イルサは何も応える必要ないって言おうとしたんだけど、その前にKKの荒々しい声がほとばしる。

「しょうがないわね! みんな興味深いこと言ってるなって聞いてたけど、みんなの話を聞いていて、あたしがどう思ったかわかる? 抜け出すって馬鹿じゃないのって思ったのよ。だってそうでしょ、抜け出すもなにも、みんな好きな時に好きな場所へ行けるじゃない」

「おお、天からの啓示のようだ! 目から鱗が落ちたよ」とパーカーが割って入る。「おそらく君が、そのことに気づいた歴史上初めての人、かもしれない」

「あたしが言いたいのはね、サム。問題はここじゃなくて、―問題はあなたなのよ。あなたが欲しいものを言ってごらんなさい。あたしはこの街で必要なものは何でも手に入るわ。どこへも行く必要ないの」

「そりゃ、お前はお金があるからだろ」とパーカーが指摘する。

「そうよ、あたしはお金持ちだからよ」

「他のみんなはどうすればいいんだよ?」とパーカーが聞く。

「そうね、もっとお金を稼げばいいんじゃないかしら」

「そんなの何のアドバイスにもならない」とパーカーが言う。

「私、思ったんだけど」とリーが間に入る。「どうしてみんな自分の要塞から抜け出したいって、そんなに頻繁に思うのかわかったんだけど、そうしないと、ここが全世界だって簡単に思い込んじゃうからよ」

「なあに?」とKKが何も知らない子供みたいな言い方で言う。「ここが全世界じゃないの?

「壁を作ろう!」とパーカーが言う。「それがいい! 安全地帯の周りに壁を作ってしまえば、もう二度と抜け出したいなんて思わなくなるから! 自分自身と自分が最も恐れているものの間に壁を作るんだよ。そうすれば、見たくないものを見なくて済むだろ。そうだ、内側に壁を作るっていう手もある。表に出てきたらまずいって最も恐れている自分をそこに閉じ込めてしまうんだ。―そうやって壁を作ってしまえば、嫌なものは目に入らなくなる! 自分の好きな友達だけを囲って、お気楽に過ごしていける。―KK、お前の狙いはそれだろ。―ただ、そううまくはいかないよな、みんなすぐに抜け穴を見つけちゃう、だろ?」

KKはいつもの調子で反撃を開始しなかった。彼を笑い飛ばしもせず、弾が切れたかのように、黙って彼を睨んでいる。痛いところを突かれたのかもしれない。KKは援護射撃を求めるように、イルサの方を見た。

パーカーが振り返って、僕を見る。「これは君にとってチャンスなんだ」と彼が言う。「自分の道を切り拓くんだよ。こんなチャンス、今まで一度もなかっただろ。君の目の前には白紙の未来が広がっている。勇気を振り絞って、踏み出すんだ。さっきできたじゃないか、そのグラスを壁に投げつけたみたいにさ。―君は18歳で、まだ見ぬ世界へ突き進むんだ。割れたグラスは元には戻せないけど、君は引き返すことだってできる。ちょっと進んでみて、なんかこの道は合わないなと思えば、また違う道を探せばいい。とにかくここから出発することが肝心だ。あとは即興演奏みたいに、帳尻を合わせながら進めばいいんだ。家を出なければ、演奏自体が始まらないってことだよ」

グラスのことは言わないでほしかった。グラスはもう元には戻せないんだよな。後悔の念がふつふつと胸の内で湧き上がる。

僕はイルサの方を向く。「君はどう思う? この問題に関して、君の考えを聞かせてほしい」

今のイルサの頭の中には、凄くたくさんの考えが駆け巡っている。僕はそう感じたから、今だと思って、彼女の意見を聞いた。彼女が黙っているのは、決して上の空で他のことを考えているからじゃない。むしろ真剣に議論に参加し、いろんなことを考えているからこその沈黙なんだ。それが僕にはわかったし、彼女の考えていることを知りたかった。それから、彼女にも抜け道を見つけてほしいというのもある。僕と同じ抜け道じゃなくたっていい。―というか、違う道を歩むことになるだろう。それはわかってる。でもとにかく、彼女も一緒に巣立たなくちゃ。

「あなたは私に巣立ち方を教えてもらいたいの?」と彼女が聞いてくる。

「そうだよ」

彼女は首を振る。「そんなこと、私が知ってると思う? サム。私が家を出る時はいつだって、あなたと一緒だったじゃない」

衝動的に、そんなことない、と言い返したかったけれど、思い返してみると...いつも一緒だった場面しか思い浮かばない。例外は、キャンプで僕が先に帰っちゃった時くらいだな。―ということは、僕たちはお互いに手と手を取り合って、この要塞の外へ出ていたのか? 僕に関して言えば、一人で遠出したことも1回か2回あった。―でも女帝は、イルサが一人で出かけることは絶対に許さなかった。(僕には一人旅が「救い」になると思ったのだろう。)ニューヨーク市内を遠足みたいに見て回った時も、女帝はイルサの付き人として僕も同行させた。ある時、市内のクラブで(僕の好きな)ルーファス・ウェインライトのライブがあって、イルサを連れて行ったことがあった。アーサー・ラッセルのチェロ曲を彼なりに解釈して、歌詞をつけて歌っていた。ライブの途中、男女共用トイレに入ったとき、個室の壁に書かれたイルサからのメッセージを見つけた。サム、なんかすごく遠くまで来た気がする。ヒューストンとかまで来ちゃったみたい。早くアップタウンに帰って、ピザでも取りましょ。僕が彼の歌に心酔しているのを横で見て、彼女は直接言えなかったのだ。別の時、イルサがクイーンズ地区に行って、クリスマスの壮大な飾り付けをしている家々を見たいと言った。それなのに、僕は家でディナーパーティーをやった方がいいよと提案した。みんなにクリスマスの飾りを持ち寄ってもらって、自分たちで飾り付けをしようと言って、彼女を納得させた。イルサはライブに付き合ってくれたのに、僕はクイーンズ地区は遠いし、外は寒いという理由で、彼女の気持ちをないがしろにしてしまった。

マディが口を滑らせて、イルサが住み込みのお手伝いさんになると言ったとき、最初僕は羨ましかった。―マディと長い時間一緒に過ごせていいなとか思ったわけではなくて、イルサがここに留まる術を見つけたことを羨んだ。でも、それについて考えれば考えるほど、なんだか気が重くなっていった。イルサを呼びつけて、「過去にしがみついてると、未来を犠牲にすることになるぞ」と言ってやりたかった。だけどその時、僕は同じことをイルサに言われたら...と想像した。僕はうまく反論できる自信がなかった。音楽を勉強するためにマンハッタンに残るんだよって言えば、それらしく聞こえるかもしれない。でも実際は、他に行くところも思いつかないから、僕はマンハッタンに留まろうとしているだけなんだ...そんなことを考えていたら、イルサを非難するのは得策ではないと思えてきた。

このさよならパーティーを開こうと思ったのは、最後にみんなでパーッと騒いだら、ここを出る覚悟ができるかもしれないと、心のどこかで期待したからだ。自分でも気づかなかったけれど、たぶん僕がジェイソンを招待したのは、過去へさよならを言うためだったのだろう。それから、僕がパーカーを招待したのは、イルサにも過去へさよならを言ってほしかったからだろう。そしてヨハンを招待したのは、何かしら未来の兆しが見えるかもしれないと思ったからだ。ただ...そんなに単純でもないな。ただの靴下がカスピアンに変身する姿が体現している。―物事は、そこに込める感情に比例して、単純にも複雑にもなるんだ。

「僕たちは新たな世界への扉の前にいるんだ」と僕はイルサに言う。「向こう側に広がっているはずの、今とは違う景色を見たくないか?」なんか、これから二人で死後の世界へ行こうって言ってるみたいだな、と不安になって、具体的に言い直す。「僕はこのアパートメントが好きだよ。―本当に、心から、狂おしいほど大好きだよ。僕たちはここを豪華絢爛なお城みたいに使ってきた。多くの人ができることじゃない。女帝がそうさせてくれたから、やってこれたんだ。何度もディナーパーティーを開いて、僕たちはこの世界にいるんだって粋がってきた。だけど、いつまでも虚勢を張ってここに留まっていることが、答えになるとは思えない。君もそうは思わないか?」



17

イルサ


「私たちはどこへ行けばいいの?」と私は聞き返す。

サムが女帝の神聖なフルートグラスを割ってしまったからには、私たち兄妹はこの街から逃げ出す以外に選択肢はないでしょう。彼まで壊れちゃって、私たちは二人して見境のない双子ってこと? 女帝は、もちろん私を問い詰めるでしょうね。でも、結局は裏でサムと私を平等に𠮟って、私だけを責めたことの埋め合わせはしてくれる。ただ、女帝の憤りが収まることは、おそらく永遠にないわ。彼女って一旦何かにつかみかかったら、それはもうしつこいのよ。長きに渡って恨み続けるわ。彼女は実の兄と、それこそ何十年も口を利いていないんだから。サムと私が生まれる前からずっとよ。そういうのを頑固者って呼ぶのかもしれないけど、私に言わせれば、よくもまあ、そこまで熱心に憎めるわねって感心しちゃう。

「一緒に行くべきじゃないよ」とサムが言って、私は間髪入れずに「わかってるわ」と返した。私も、一緒に同じ場所へ行くのは良くないと思っている。正直に言って、私はちゃんと覚悟もできている。今夜が明ければ、明日からすごく長い期間、兄と遠く離れて暮らすことになっても平気。私たち二人のために、それがいいのよね。

1月の誕生日だけは一緒に過ごしたいわ。今まで18回も一緒に誕生日を祝ってきたんですもの。あれは11歳の誕生日だった。両親の勧めで、私たちはこれからずっとこの日だけは一緒にお祝いするって契約したの。両親が契約書を作ってくれて、二人でそれに署名したわ。―その契約書は額縁に入れて、両親の家のキッチンの壁に今でも飾ってあるのよ。―親の目から見ても、サムと私が誕生日だけは仲良くしているように見えたんでしょうね。実際それ以外の日は年がら年中、つまらないことで罵り合っていたから。契約書には、ケーキは一人一つずつ与えること、これから生涯に渡って、現実にどんな問題が起ころうとも、約束の日には必ず兄妹のもとに駆けつけることって書かれている。私もできるだけ長く、二人一緒の誕生日が続けばいいなと思っている。ただ、契約書のこの部分は何とかならないかしら? 毎年誕生日には二人仲良くセントラル・パークに1月のホッキョクグマを見に行って、サムと私が短パンとTシャツとスニーカーだけでボート乗り場の周りを走り回ることって。

「誕生日だけは一緒に過ごそう」とサムが言った。想いが通じて、私はすぐにまた彼が大好きになる。「僕たちはどこへ行ったらいいか、あの帽子に聞いてみるっていうのはどう? イルサ」

「帽子があったわね! そうしましょう!」と私は言って、椅子から跳び上がり、玄関ホールへ向かった。そしてコート類をかけてある小部屋から、頭の先が尖った長くて黒い帽子を取り出した。その間にサムはキッチンに行ったようで、インデックス・カードとペンを人数分手に持ち、私たちは同時にダイニングテーブルに戻って来た。さらにサムの手には、新たにシャンパンボトルも握られている。

「それってカクテルベースのシャンパンでしょ? あたし好きじゃないのよね」とKKがぼやく。

「女帝はカクテルベースかどうかなんて気にして買ってないよ」とサムが返す。「僕は女帝の大切なシャンパングラスを故意に割っちゃったから、そのお詫びとして、今度はシャンパンのグレードを落として、Cランクのボトルを冷蔵庫から持って来たんだ」ちょっとしゃっくりしながら彼は言う。いい感じで酔いが回っている様子だ。「カリフォルニア・ブリュのシャンパンだよ」

両親がワイン愛好家のパーカーが、驚いたように言う。「女帝は冷蔵庫に国内もののシャンパンも入れてるのか?」

サムが答える。「そうだね。でも、たまにしか出さない。彼女の顧問弁護士が来た時とか、あとは、スタンウィック邸の管理組合の人が来た時に出す用みたい」彼が私を見る。「帽子の説明はイルサがする? それとも僕がしようか?」

KKがしゃしゃり出てくる。「あたしが説明するわ。あんたたちだと話が長くなるから。ある年のハロウィーンのことでした。サムがハリー・ポッターで、イルサは組み分け帽子に扮しました。組み分け帽子ってハリーポッターの登場人物ね。そして、その時の帽子を取っておいて、家族パーティーでゲームをする時に使うようになりました。〈世界旅行〉っていう、すごろくみたいなボードゲームで、アニメの『ドーラといっしょに大冒険』みたいな、子供向けのしょうもないやつよ。実際はどこにも行かないんだけど、気分だけは世界中を冒険しながら旅して回るっていう空想ゲーム。すべては魔法の帽子の思し召しでね」

「ギュッと濃縮した熱い説明ありがとう、KK」とサムが言う。「ゲームのやり方も君が説明する? それとも、そんなにしょうもないゲームなら、僕の部屋に行って寝ててもいいよ。ジェイソンも添い寝仲間ができて喜ぶと思うから」

KKは、その提案を鼻であしらうように一蹴した。私もそれだけはお断りだわ。それから彼女は言う。「あたしはここに残るわ。もし女帝が今にも帰って来て、その時にいなかったら、修羅場を見逃すことになっちゃうじゃない。あんたが彼女のグラスにしたことを見たら、女帝はどうなるでしょうね、サム」ああ、それを言っちゃうんだ。親愛なるKK、あなたを敬愛する理由はどこにも見当たらないけど、私が慕ってあげなかったら、誰もあなたに見向きもしなくなっちゃう。KKはインデックス・カードにペンを添えて、テーブルを囲むみんなに配りながら言う。「いい? この緑のカードにどこでもいいから、場所の名前を書くのよ。そしてピンクのカードには、そこで手に入れたいものを書くの」

ヨハンが言う。「なんか、〈マッド・リブス〉みたいなゲームだね。カードで運命づけられちゃうみたいだけど」

「パステルカラーの淡い運命だから」とパーカーが、ピンクと緑のカードを見ながら言う。

「ペイストリーの運命、パン屋さんになる運命ってことね!」とリーが言う。「うちの両親は私を医者にさせたいんだけど、私はパン屋さんになりたいの。親は耳も貸してくれないから、とりあえず今は親に従って、将来的にはパン屋さんを開きたいなって思ってる。ねえ、ここに職業を書いてもいい?」

「素晴らしい考えだね」とサムが言う。「だけど、それはだめ。その場所にちなんだものとか、その場所でしかできないことを見つけようっていうコンセプトのゲームだからね。それに、自分が書いたものが誰に当たるかわからないんだ」

リーが少し眉を寄せる。

「でも、リーはすごく上手にパンを焼く職人さんになると思うけどな」と私はフォローする。「それから、場所の名前は、世界地図に載ってる現実の場所にしてね」

サムが続ける。「つまり、こういうのはだめ。歌のタイトルから取った『敗れた夢が転がった大通り』とか、『遠い遠い銀河の彼方』とか、『サロメ嬢の脇の下』とか、わかった? KK

私は言う。「手に入れたいものは、大体なんでもOKなんだけど、―」

カスピアンが言う。「そんなに制限があったら、なんでもOKってことにはならないよ」

彼の頬をぴしゃっと平手打ちしようかとも思ったんだけど、靴下がふにゃって曲がるだけで、手ごたえがなさそうだったのでやめた。

私は続ける。「スマホとかパソコンとかの電子機器以外なら、何を書いてもOKよ」

「私が腕にはめてるウェアラブルの〈フィットビット〉は?」とリーが聞く。

「それってどういう腕時計?」とサムが聞く。

「腕にはめて行ってもいい?」とリーが言う。

「あんたね、実際にどこかに行くわけじゃないのよ。座ってるだけなのに、歩いた歩数計ってどうするのよ?」とKKが言う。「いいんじゃないの、書きなさいよ。フィットビット:ムームードレスにぴったりのアクセサリーで、腕にはめてるだけで瘦せるリストバンド。目指すは夢のランウェイって」

私は答える。「フィットビットは堂々と腕にはめてて。だけど、魔法の帽子に入れるカードには書かないで。テクノロジーが導く選択肢はなるべく少なくしたいの」

「あ!」とヨハンが紙にペンを落としながら言った。「いいこと思いついた」

私も自分のチョイスを紙に書く。―パリと野良猫。(私のドレスに描かれている虚ろな瞳のジェラルディンが、パリの道端に佇む姿が浮かんだから)

「このジェルペン、夢のような書き心地だわ」とリーが言う。「手がすごく気持ちいい。性的興奮に近いかも」

サムが言う。「女帝はペンの収集家なんだ。それは彼女のお気に入りの一つで、東京のオフィス用品店で買って来たものだよ。彼女は東京にもよく行くからね。そのたびに何十本も、違うスタイルのペンを持ち帰って来るんだ」

「なんてこと!」とリーが声を上げる。「ちょうど今、私の行きたい場所として、東京って書いたのに。他の場所にしなくちゃじゃない」

そのまま東京にしておいても問題なかったと思うけど、そうやって声に出して宣言しちゃったら、もう無理ね。リーは書いたばかりの単語に横線を引くと、もう片方の手で見えないように隠しながら、空きスペースに別の地名を書いている。

みんなすっかり酔っているからなのか、それとも、みんなすっかりカスピアンに慣れきってしまったのか、そこまでの器用さを持ち合わせていないカスピアンに代わって、フレディが文字を書いているのを見ても、誰もつっこみを入れない。みんな優しいな、と一瞬思ったけれど、フレディが、くだらないジョークでも言えるものなら言ってみろ的な目を、チラチラと周りに振りまいているからだとわかった。

みんなが各々選んだ地名と物を書き終わったところで、私は帽子を抱えながらテーブルを回った。次々とインデックス・カードが帽子の中に落ちていく。「最初に引きたい人?」

カスピアンが体全身を空中に突き上げる形でアピールした。私は彼に歩み寄る。フレディが空いている手を帽子の中に突っ込んだ。

「緑のカードとピンクのカードを一枚ずつ取ってね。もし自分が書いたものを引いちゃったら、それは帽子に戻して引き直して」

引いたカードを見た瞬間、カスピアンがうめき声を上げた。「これはどっちもボクが書いたものじゃない。こんなのボクが書くはずないよ」

「何を引いたの? カスプ」とKKが彼に聞く。

「北朝鮮と、肉厚のパストラミ・サンドイッチ。で、ボクはこれをどうすればいいわけ?」

「ニューヨークのデリカテッセンでパストラミを買って来て、北朝鮮の抑圧されてる人たちに配るのよ」とリー・チャンが言う。「明らかに、ヒューマニズムに基づく人道的なことをせよっていう思し召しね」

「パペットニズムに基づく人形的なことじゃなくて?」とヨハンがカスピアンに視線を向けながら言う。

「っていうか、その国の人たちはプロレタリアートだろ?」とパーカーがさらに言い換える。

「うるさい」とカスピアンが声を荒げる。「ボクは北朝鮮なんか行きたくないんだよ」

「その前に靴下パペットが一人でパスポートを取れるかな―」とパーカーが言う。

「黙れ!」とカスピアンが、シーッと口に指を当てたつもりのジェスチャーをする。

「彼は『靴下パペット』って呼ばれるのが好きじゃないのよ」とKKが言う。

「黙れ!」とカスピアンが繰り返して、今度はKKに向かって、シーッのしぐさをする。

「卑下しないでっていうか、自分を嫌うのはやめてさ」とヨハンがカスピアンに助言した。「自分のアイデンティティを受け入れようよ」

「靴下を受け入れても、中身は空っぽだしね」とKKが言う。

このゲームは、こんな集中砲火を意図したものではなかったはず。私は次の人に移って、カスピアンを矢面から解放してあげることにした。「北朝鮮から出ましょう。大勢の恵まれない人たちが、パストラミ・サンドイッチを待ち望んでいるでしょうけど。そして、カスピアン、あなたがサンドイッチを分け与えれば、あなたは神として、彼らの目に映るでしょうけどね」そう言ってから、私は帽子を次の人に差し出した。KKがピンクのカードと緑のカードを引く。

「おお、マイアミ!」と彼女が叫んだ。

「よく見て」とサムが言う。どういうわけかサムは、このゲームでカードにどう書けば、KKの興味をそそるかを心得ていて、あえてKKに選ばせるように書いているふしがある。

KKがカードの下隅を見ると、もう一つ単語が書かれている。「マイアミ...オハイオ?」彼女はカードをサムの前へ放り投げる。「何よ、これ? フロリダのマイアミビーチかと思って喜んだら、オハイオのマイアミ?」

「オハイオにあるマイアミ大学だよ」とサムがしたり顔で答える。KKはもう一方のカードを見る。「今度はメトロノームですって。そんなもの現実にあったかしら?」

「あるでしょ」とヨハンが言う。「そのカードもよく見て」

KKはカードに顔を近づけて見る。「ねじまき式メトロノーム? ちょっと、あなたがでっち上げた想像の産物じゃないでしょうね。風力発電の風車を回すのにメトロカードが必要ってこと?」

ヨハンとサムが笑った。サムは言う。「それはミュージシャンがテンポを保つために使う道具だよ」

KKが言う。「それってどこで使うわけ?」

パーカーが答える。「オハイオ州立マイアミ大学のタイムトラベル研究室で使ってるらしい。トップシークレットだけどな」

「タイムトラベルですって!」とKKが興奮気味に言う。「ちょうど今、私たちが話してることと関係あるじゃない。じゃあ今度は、どこへ行くかじゃなくて、いつの時代に行くかも組み分け帽子に聞きましょ」

「あなたはどの時代に行きたいわけ?」とリーがKKに聞く。

KKはためらう様子も見せず、即答する。「魔女狩りが行われていた時代のセイラムに行って、魔女裁判を見たいわ」

テーブルの周りにしばしの間、沈黙が訪れた。みんな彼女の意図を咀嚼するのに時間がかかっている様子だ。仕方ない。「なんで?」と私は聞く。

「セイラムの魔女裁判の絵を見たんだけど、彼女たちが被ってた帽子が素敵だったの」とKKが答える。「小さめの白い帽子で、あごの下でリボン結びしてるのよ。すごく実用的だし、超かわいいわ」

もう次の人に移るしか彼女を止める術はないわね。私はヨハンの前に立つ。彼が帽子に手を沈めて、カードを引き抜いた。

「ノバスコシア。そして野良猫」

「ジェラディン!」とカスピアンが興奮した猫みたいな声を出して、「それって君が書いたんでしょ」と私の方を見た。カスピアンに超能力も備わったらしい。

ヨハンが言う。「正直言って、ノバスコシアってどこにあるのか、ぼくにはわからないな。小説の中に出てきそうな地名だけど」

リーが返す。「ある意味、小説の中の地名でもあるわ。『赤毛のアン』シリーズの舞台になった場所だからね」と彼女は歌うように言う。「あのシリーズは人類史上、最高傑作だわ!

サムがヨハンに聞く。「君はアメリカ人だって思われようとしてる?」

「全く!そんな気持ちはないよ!」とヨハンが大声で答えた。

「カナダはすぐ北の隣国だからね。カナダの地名くらい知らないと、アメリカ人じゃないってすぐにばれる」とパーカーがヨハンに言う。

「ってことは、ノバスコシアってカナダの地名?」とヨハンが聞く。

「その通り」と、みんなが声を上げた。

ヨハンは言う。「じゃあ、ぼくはそこで野良猫と一緒に楽しく過ごすよ。その猫はぼくにとって、音楽の女神かもしれない。猫が跳ね回ってる中で、ぼくはたくさんのメロディーを作曲するんだ。バイオリンケースの中で気持ちよさそうに昼寝してる猫を横目に、路上で演奏もするよ。究極に愛らしい寝顔に、道行く人たちが立ち止まってくれる。それでぼくの奏でるメロディーに引き込めば、何ドルかコインを投げ入れてくれるってわけ」

「なんか、猫をバイオリンケースに入れて外出するのって、ドリー人形と付き合ってるのに、こっそり浮気するみたいだね」とカスピアンが指摘する。

ヨハンが返す。「大丈夫。ドリーはきっと野良猫を住まわせることに賛成してくれるよ。猫がぼくの相手をしてる間、彼女は作曲に専念できるし」

「今度は俺の番だな」とパーカーが言う。

私は彼のところに行き、彼がカードを2枚引いた。

「ブータン...それから、スランケット? スランケットって何?」

リーが言う。「あれ最高なのよ! 長いブランケットっていうか、パジャマみたいなものね。全身をすっぽり包み込んでくれるの。ファスナーで締めることもできて中は快適、着心地抜群よ」

「ブータンってどこ?」とカスピアンが聞く。

「インドの近くかな?」とパーカーが首をかしげて、確認するようにリーを見た。彼女がアジア人だからというよりは、彼女がこの部屋の中で一番賢い人だからだと思う。

しかし、リーは肩をすくめた。「名前は聞いたことあるけど、詳しくは知らないわ」

私たちに詳しい情報を教えてくれたのは、KKだった。「そうよ。ブータンはインドの近く、ヒマラヤ山脈の高地にある国で、ネパールとチベットの国境辺りね。仏教の王国で、修道院とか砦がたくさんあって、山と谷が入り組んだ地形は目を見張るほどの絶景よ。贈り物としてスランケットを持って行くといいわ。あそこの人たちはすごく貧しいんだけど、世界で一番優しい人たちなのよ。彼らにとっては贅沢品だけど、西洋の物なら喜んで使ってくれる。スランケットのポケットに鉛筆をたくさん詰めて贈れば、子供たちも喜ぶわ。―あの子のキラキラした満面の笑みが目に浮かぶわ。鉛筆を贈るだけなんだから簡単でしょ」

再び、テーブルの周りに沈黙が訪れた。今度は彼女が示した意外な慈悲の心を咀嚼するのに時間がかかっている様子だ。「君はブータンに行ったことがあるのかい?」とサムが彼女に尋ねる。

「あるわ」とKKは答える。「私はリハビリに行ってるってことにしてるの。うちの両親は周りの人たちにそう言ってるはずよ。だけど実際は、私は魂の探求に行ってるの。それからね、あそこで山登りすると、ふくらはぎが鍛えられて、自分でもうっとりするくらい脚線美になれるのよ」

「たまに思うんだけど、君ってお気楽に生きてるよね」とサムがKKに言う。

「うるさい、ボケ」と彼女が言い返した。

サムが魔法の帽子に手をうずめる。「僕が今から行く場所は...プラハ! そして持って行く物は...ボウリングのボール? ボウリングは大好きだけど、あの重い球を持ったまま、プラハの街を歩いてボウリング場を探し回るのか。一緒にボウリングをしてくれる人も見つけないと―」

「カスピアンと一緒にボウリングをすればいいじゃない」とKKが言う。「きっと見事な投球を見せてくれるわ」

「逆に、球に押しつぶされちゃうかも」とヨハンが言い足す。

「それが狙いよ」とKKが言う。

「ボクの右側に座るこの怪物は、もはや人間の情というものを持ち合わせていない」とカスピアンがKKを指して言う。

「あたしの左側のこの怪物は、靴下人形のボケには、最初から人間の情なんてないってことを、感覚だって微々たるものだってことを思い出した方がいいわね」

「もっとシャンパンちょうだい」と言って、パーカーがグラスを持ち上げる。「こうして飲んでれば、じきにここにいる全員の感覚がなくなるよ」

サムが彼のグラスにシャンパンを注いでいる間に、私はリーのそばに歩み寄って、帽子を差し出す。彼女がカードを引いた。「カリフォルニアのサン・ホアン・バティスタ。そして、一輪車。サン・ホアン・バティスタってどこかしら?」

サムが言う。「中央カリフォルニアだよ。中央で合ってるよね? KK。あそこでヒッチコック監督の映画『めまい』の重要なシーンがいくつも撮影されたんだ。教会の多いミッションタウンだね」

「それより重要なのは、」とパーカーが言う。「カリフォルニアのギルロイが目と鼻の先にあるってこと。ギルロイっていえば世界一のニンニクの聖地だからな。あの辺りは香ばしくて甘い匂いに包まれているんだ。一度行ったら、また行きたくなること間違いなし」

「ペンシルベニア州のハーシーよりいい匂い? そこにはチョコレート工場があって、町全体がココアの香りに満ちてるんでしょ?」とヨハンが尋ねる。

「そりゃ、ギルロイの方がいい匂いだよ!」とパーカーが言う。「今までに食べた極旨のパスタが全種類並んでるような匂いがするんだ」

「あたしの前で炭水化物の話はしないでちょうだい!」とKKが叫んだ。けど、誰も取り合おうとはしない。

「じゃあ、私はサン・ホアン・バティスタからギルロイまで、一輪車に乗って行くわ!」とリーが嬉々として言った。「きっとギルロイに着く頃には、すっごくカロリーを消費してるでしょうから、思う存分スパゲッティを食べられるわ。めっちゃニンニクを載せて食べるわよ。ああ、私、この〈世界旅行〉っていうゲームが気に入っちゃった」

私のお気に入りのゲームを彼女も気に入ってくれた。ますます彼女が好きになっちゃう。

さてと、残るは私だけね。私は自分の席に戻り腰を下ろしてから、中に残っている2枚のカードを取り出した。「アンダルシア、そして編み糸」なるほど。最初のカードはパーカーが書いたものに違いないわ。そして、2枚目のカードはリーが書いたものでしょう。この組み合わせで、魔法の帽子は私にどんなメッセージを伝えようとしているのかしら?

「アンダルシアって実在の場所じゃないでしょ」とKKが言う。「誰かさんが適当に作った地名ね。妖精の国みたいな響きだし」

「アンダルシアは実在するよ」とパーカーが言う。「スペインの最南端にあって、海の向こうはアフリカ大陸のモロッコだよ。アンダルシアはフラメンコダンスの発祥の地なんだ」そう言うと、彼が私を見て、にっこりと笑顔を投げかけてきた。ああ、その笑顔で見られたら、私はまたとろけちゃいそう。「イルサのフラメンコは最高なんだ」

私は社交ダンスの大会ではそんなに抜きん出たダンサーではなかったけど、私が最高に私を表現できたのは、フラメンコを踊っている時だった。フラメンコは、官能的でパワーがみなぎっていて、何といっても女性が主役のダンスだからね。サムが言う。「それ、悪くない考えだよ、イルサ。しばらくスペインに行ってさ、君が愛してやまない芸術、フラメンコを学んで来たらいいよ!」

リーが言う。「それとも来月、夏休みに入ったら、私と一緒に台湾に来る? 編み物留学っていうのはどう?」

台湾! なに、その編み物留学って? 私みたいな人がじっと縮こまって編み物なんて、そんな姿を誰が想像できるっていうの?

ヨハンが聞く。「台湾って編み物の学校で有名だったんだ?」

リーが答える。「いいえ。でも私のひいおばあちゃんが編み物の家元で、編み物教室をやってるのよ。私は毎年夏休みに彼女の家に行って、数週間みっちり編み物を習ってるの。だからイルサも一緒に行きましょ。マンハッタンの外側の世界にはどんなものがあるのか、自分の目で確かめるのよ。あなたが全く知らない異国の地に、思い切って足を踏み入れるの。そして、マフラーの編み方を習いましょ」

マンハッタンは、それ自体で完結している巨大な宇宙みたいなものだから、私は旅行でさえ外に出ようなんて考えたこともなかったし、ましてやどこか他の場所で生活するなんて。いや、それは違うわ。真剣に考えてみたことはある。ただ、―具体的にその望みを実現するにはどうしたらいいのか、現実的な構想を巡らせたことはなかった。つまり、私をどこか他の場所へ連れて行ってくれそうな外国の大学にいくつも応募してはみた。だけどそれって、実際に行くつもりのない、ただのはったりだったの。私ができた精一杯の思い切った行為だったんでしょうね。気まぐれってわけじゃなくて、私はこの地にすっかり根ざしてしまったみたい。安全策ばっかり取ってるサムを私は非難してきたけど、もっとよく自分自身の内面も見た方がいいわね。

「私は飛行機代を払えないわ」と私は言う。ベビーシッターをしてお金を貯めてきたとはいえ、そこまでの貯金はない。

「きっとママとパパがかなりのマイルを貯めてるよ。女帝も頻繁に外国に行ってるから、イルサにマイルを譲ってくれるんじゃないかな」とサムが言う。「だけど、もし君とリーが、なんて言うか、友達以上の関係になろうとしているのなら、衝動的に彼女の実家を訪ねるっていうのは、結果として賢明な判断にならないかもしれないよ」

賢明な判断って、私が今までに賢明な判断なんてしたことあった?

っていうか、リー・チャンと私は友達以上の関係なの?

私たちの唇は重なったけど、ほんの一瞬の出来事だった。

だけど、その一瞬が私の知ってるすべてを一変させてしまった気がする。私自身も知らなかった別の自分が顔を出したような。

でも、私は急にレズビアンになったとかでもないと思う。

私は自分で思っていたほど、性的に真っ直ぐではなかったんでしょう。

このパーティーが始まる前、まだ外が明るかった時よりも、私は自分を開放したっていうか、心の受け皿が広くなったのね。

その時突然、ピアノの鍵盤が無造作に叩かれる音がした。私たちは首や腰を回して、そのずさんな音階が聞こえてくる方を振り返る。ジェイソンが、サムのピアノにもたれかかるようにして、鍵盤を叩いていた。彼が顔を上げて、こちらを向く。サムに演奏を命じていいのは私だけだって、ジェイソンは知ってるくせに、あえて言った。「この曲を弾いてくれ、サム」



18

サム


ジェイソンが(ひどい)演奏に歌詞を乗せて歌い出す。「キスはただのキス、ため息もため息でしかない、時が流れても、根本的なことはそのまま。」映画『カサブランカ』の曲だ。僕へのメッセージか? 僕たちはキスも、そしてため息もついてきた。振り返ってみると、キスはいつもわかりやすかった。ラブストーリーの定番だし、キスはロマンスを加速させる。だけど、ため息はいつでも僕を戸惑わせた。彼のため息は、喜びの吐息なのか、それとも失望の吐露なのか? どちらがより根本に近いのだろう?

僕はジェイソンの指にきつく叩かれている鍵盤を彼から解放してあげようと立ち上がるが、同時にヨハンも立ち上がって、「踊ろう」と僕を誘ってきた。

みんなが注目しているし、ジェイソンの手前、僕はイエスとは言えない。だけど、もう一方の理由から、ノーとも言えない。

どうしたらいいのかわからずに黙っていると、ヨハンが僕の手を取った。彼に連れられるように、僕は砕け散ったグラスの破片をまたぐ。僕が(壁との共同制作で)手がけた『割れたシャンパングラス』だ。するとヨハンが、モロッコのカサブランカで過ごす最後の夜のように、僕の体に腕を回してきた。ナイトクラブにいる誰もが、僕たちがこれから何をするのか見守っているようだ。最初、僕は段ボールでできた等身大パネルのように固まっていた。気もそぞろで落ち着かなかった。でも次第に、僕は音楽に合わせて、体を動かしてみる。演奏は相変わらず下手だったけれど、音楽に身を委ねるように、僕は自身の体をヨハンにあずけ、踊り出す。

寄りかかる彼の肩越しに、イルサがリーに手を差し出すのが見えた。リーがその手を取って立ち上がると、すぐに二人も踊り出す。それからパーカーが、きっとKKを困らせるためだろうけど、フレデリックに手を差し出した。そしてカスピアンが、こちらもKKへの当てつけだろうけど、パーカーの誘いを受け入れ、手を取った。

ジェイソンはもう歌っていない。僕たちはみんな頭の中で歌詞をつないでいる。こうしていれば、他の言葉が入り込む余地はない。言葉を交わす代わりに、僕たちは指先や体の動きに意識を委ね、ステップを踏み、腰を揺らす。

この曲は長い曲ではない。演奏が終わったので、僕は動きを止め、腕時計に目を遣る。もう夜中の12時を過ぎていた。

ヨハンが僕に言う。「これからもこういうこと、定期的にやろうよ」

それもいいかもね、と僕は思う。これもまた根本的なことの一つなのだろう。世界には葛藤やパニックが満ち溢れ、四方八方から欲求をかき立てられる。だけど、こうして二人寄り添うように、古き良き歌に合わせて踊っていれば、しばし世界に平穏が訪れる。―今までベールに包まれていた大事なことが、ふわっと目の前に立ち現れたようだ。これは後退ではなく、はっきりと前に進んだ実感があった。

鍵盤の執拗な要求に耐え切れなくなったのか、ジェイソンは椅子から立ち上がると、ピアノを離れ、レコードプレーヤーの方へ向かう。彼がスイッチを入れると、レコードの針がレコード盤にすっと落ちる。エラ・フィッツジェラルドとルイ・アームストロングが「やっと私たちの出番が来たわね」と言わんばかりに、ジャズの定番『The Nearness of You(あなたのそばに)』を歌い出し、トランペットを吹き鳴らした。

「なかなか、いい夜だったね」とヨハンが言う。―その言い方は、もうそろそろお開きにしよう、とみんなが思うような雰囲気にしたいみたいだ。

「そういえば、君にまだ屋上からの夜景を見せてなかったね」と僕は彼を誘う。

「それいいね、見たい」と彼が応える。「じゃあ、素晴らしい夜景を見に屋上へ繰り出しましょう」

パーカーとフレデリックがレコードを近くで聴こうと、ジェイソンのいるリビングへ行った。一方、KKはぽつんとダイニングの椅子に座ったまま、ふくれっ面をしている。即席のダンスホールに残っているのはイルサとリーだけで、二人はお互いのそば(Nearness)から離れようとしない。そのままそっとしておいて、僕とヨハンは部屋を出ることにした。

「ちょっと屋上に行ってくるよ」と僕はパーカーに告げる。「すぐ戻って来るから」

ジェイソンは気に入らないようだったが、不満を抑え黙っている。カスピアンが応援口調で、楽しんで来てね、と言った。

「ちゃんと要塞を抜け出ような」とパーカーが檄を飛ばす。

そうだ、と僕は思い出して、キッチンへ向かった。ヨハンは、そんなにお腹空いてないよ、と僕の背中に言ったけれど、いいから、ちょっと待ってて、と返して、僕は買い物袋を取って来た。玄関を出てエレベーターに向かうと、エラとルイの歌声が段々と消えてゆく。歌声は消えても、彼らの熱い精神は消えずに、僕らとともにエレベーターに乗り込んだ。

ロマンチックな気分にならなきゃ。僕たちはキスをするために屋上に来たんだ。ため息をつきに来たわけじゃない。だけど―

そんな気分にはなれなかった。

ただ時が過ぎてゆくことだけが感じられる。

この夜の根本的な真理にたどり着かなきゃいけないことはわかっている。

ただ、ヨハンを好きだと思う気持ちとは裏腹に、僕が見つけなきゃならない真理が彼だとは思えない。

「素敵な眺めだね」と彼が言う。幸いにも、彼は真夜中の摩天楼に釘付けで、僕を見ていない。

「悪くないでしょ」と僕は返して、袋からシャボン玉用の液体が入ったペットボトルを2本取り出す。ジェイソンが主催者への手土産に持って来てくれたものだ。1本をヨハンに手渡した。

「ああ」と、彼は僕のやりたいことを察して顔をほころばせる。

僕たちは蓋を開けて、ペットボトルに吹き棒を差す。夜にシャボン玉を吹くのは奇妙に感じられた。シャボン玉は夜の闇に溶け込んでほとんど見えない。―だけど、ちゃんとそこにあることを僕たちは知っている。

僕はマンハッタンの街路をめがけて、シャボン玉を吹き飛ばした。ヨハンの方を見ると、彼はシャボン玉に注目していなかった。―彼はじっと僕を見つめている。

夜の闇を吹き飛ばす目力があった。ヨハンが別人になったかのようだ。

「君はすべてを残して、ここを去る覚悟ができているのか?」と言って、彼は両腕を広げ、ニューヨークの街を包み込むジェスチャーをした。夜の街は、そんなジェスチャーには目もくれず無表情だ。

僕は彼に言う。「僕はずっと、君みたいにニューヨークに初めてやって来る人たちが羨ましかった。僕とは違って、この街のいろんなことが新鮮で、驚きに満ちているんだろうなって。ここが途方もなく桁外れの街だっていうのはわかってる。だけど、僕にはずっと日常の風景でしかなかった。言ってる意味わかるよね? こういう高層マンションに住んでるとね、―慣れちゃうんだよ。高地で暮らす人は肺が鍛えられるって言うけど、この街で暮らしてるとね、全身の組織が街の空気に順応しちゃう。全臓器がこの街仕様にチューニングされちゃうんだ。僕は他の場所のことは知らないからね。他の場所で暮らす方法も知らない。だけど、たぶん今だって思う。今を逃すと、この街が生涯に渡って僕の知ってる唯一の場所になってしまう気がする。僕と同い年くらいの若者たちが、みんな必死になってこの街にたどり着こうと頑張ってるのは、―十分過ぎるくらい理解してる。でも僕には、逆のベクトルが必要なんだと思う」

「どうして?」とヨハンは聞くと、吹き棒をくわえ、僕の方へシャボン玉を飛ばした。泡のパレードが迫ってくる。異議の唱えようという意図ではなく、好奇心から聞いたんだろう。

僕は自分の吹き棒で、シャボン玉の一つを受け止めた。「今までの人生ずっと、イルサと僕はこのストーリーの中で暮らしてきたんだ。悪くないストーリーだよ。むしろ上出来の物語だね。でもね、―いつも同じお話で、代わり映えがしない。それに、18歳はまだ若すぎて、自分のストーリーの決定版を書けるような歳じゃないから。もし18歳で自分のストーリーを書き上げたと感じたら、それは錯覚だよ。誰かが書いたストーリーを自分の物語だと思い込んでる。―少なくとも、部分的には誰かの受け売りだよ。君もドラマを見て、ニューヨークに行きたくなったって言ってたじゃないか。―君は、なんていうか、19時間飛行機に乗って、この街にやって来たんだよね? 君がそれまで一緒に過ごしてきた人たちから遠く離れて、昼と夜の時間帯も逆の、地球の反対側で暮らしてる」

「ぼくは巣を飛び立ったんだ」とヨハンが笑みを浮かべて言った。シャボン玉が一つ、まだ僕たちの間で漂っていた。

「そうだね。―君は巣を飛び立った。君は自分のキャラクターまでは変えてないかもしれないけど、巣立つことで、君のストーリーを変えたんだ。はっきりとね。そして僕も、―僕だって、そうする必要がある。そう思わない?」

彼はさらにシャボン玉を飛ばそうとしたけれど、棒の先で泡が弾けて、輪を描いて消えた。彼はもう一度、吹き棒を液体に浸す。今度は、泡の列が弧を描いて、かすかに煌めいた。

「やってみたらいいよ、自分の人生なんだし」と彼は言う。「結局失敗だったって後悔することになるかもしれないけどさ。君もすぐにわかるよ、知らない場所で一人暮らしをしてるとね、ふと強烈な寂しさに襲われることがあるんだ。ああ、こんなに遠くまで来なければよかったって。この街は大好きだよ。だけど、ぼくは起きてる時間の半分くらい、間違った選択をしたかもしれない、ああしておけばこうなっていたかもって、人生のバリエーションばかりを考えて過ごしてる。これから先もそれは変わらないだろうね、そういうバリエーションも人生の一部だから。でも、君が言ったように、ぼくは人生のこの段階で落ち着いてしまうよりも、外へ飛び出して冒険する方を選んだ。ちゃんと、冒険のお供っていうか、一緒に持ってきたものもたくさんあるよ。音楽でしょ、今まで練習してきた譜面とか、それからドリーもね」

「この街には同性愛の匂いがしたんだろうね」と僕は言ってみる。彼に向かって、お返しにシャボン玉を吹きかける。泡の一つが彼の髪に埋もれるように消えた。

「そうだね、同性愛の匂いがした。ぼくのそういう資質が根を生やせる土壌っていうか、生きていける酸素をくれる場所を求めて、この街にやって来たっていう面もある」

「ここはドリーが望んでいた街でもある」

「たしかに」

僕たちはまだ触れ合っていない。だけど、いつそうなってもおかしくない雰囲気はあった。

「君にキスしたい」と僕は打ち明けた。「でも、したくない気持ちもある。一旦キスし始めてしまったら、そのうち必ず、キスをやめなければいけないから」

「ぼくもまさに同じ気持ちだよ。もし君がこの街に残って、ぼくたちが付き合い始めたら、そのうち必ずっていうか、いつかたぶん、ぼくは君以外の相手を見つけてしまうから。でも君はこの街を出る気でいる。なら君自身の気持ちに従った方がいいし、それに、ぼくは君を引き留める要因にはなりたくないからね」

「そこまで気を回すなよ」と僕は言う。「僕らはまだ、そこまで大人じゃないだろ?」

彼が笑った。「いえてる」それから彼は身を乗り出してきて、僕にキスする。僕も彼にキスを返す。一瞬の口づけだ。手にシャボン玉用の液体を握りしめながら男の子とキスをしたのは、生まれて初めての経験だった。

「わかったよ、そこまで大人じゃない」と彼は言う。「ぼくは単に我慢できなかっただけ。気持ちに抗うこともできただろうけど、そこまで大人じゃなかった。大人になるためにも飛び出そう」

「新しい時代へ」と僕は言う。

「そう、新しい時代へ」と彼が同意を示す。

僕は無意識に、ため息をついていた。喜びの吐息ではなく、失望感がため息となってこぼれたわけでもなかった。酸素の薄い高層マンションの屋上で、僕は息苦しさを覚え、空気を大きく吸い込み、吐き出していた。こういう瞬間に、単に呼吸をして生きているだけの存在なんだな、と気づかされる。

僕は周りの建物をぐるりと見回す。ヨハンも僕につられて、ニューヨークの摩天楼を見渡す。爽快だった。暗闇の中にこんなにもたくさんの光が灯り、僕たちを囲んでいる。見る角度によって、光は様々な形に変化する。震え上がるような怖い気持ちもあったけれど、それ以上にすがすがしかった。

この摩天楼から離れて、新たに暮らす場所にも、すがすがしい気持ちになれるものがあるといいな、と想像を巡らせた。

女帝がパリの新居から窓の外を眺めているところを想像する。この夜景とは似て非なるものを見ているのだろう。慣れ親しんだ景色のようでいて、よく見るとどこか違う。通りから聞こえてくる街のざわめきも、耳をすませば、根本を流れる音楽は違っているはずだ。

イルサはここに残るのだろうか? 女帝も僕もいなくなった後のイルサを想像してみる。それは―

ああ、そんな彼女を思い浮かべると胸が痛くなる。

KKはここに居るだろうけど。

というか、KKと一緒だと余計に心配だ。

ヨハンの口から吹き棒が突き出ている。彼は夜の闇の中へとシャボン玉を吹き出した。まるで映画『カサブランカ』で、ハンフリー・ボガートがニヒルにたばこの煙を吹き出すようだ。

「黙り込んじゃって、何を考えているんだい?」と彼が聞く。

「ちょっと妹が心配で」

「妹のことも、君のこともよく知らないけど、なんとなく感じたのは、―たぶん君たちは、ちゃんと話し合った方がいいんじゃないかな? 君の選択は君が決めたことだから、そうすればいいけど、―彼女もそれに乗っかりたいなら、連れて行くっていうのも有りだよ。ぼくは友達を連れて来なくて失敗したんだ。ぼくの実体験から言って、あとから妹を取り戻そうとするより、今一緒に連れて行く方が断然楽だよ」

「失う前に知れて良かったよ」と僕は言って、妹を恋人みたいに言ってるな、と気まずくなり、慌てて付け加える。「君のことも知れて良かったよ」

「ぼくもだよ」と彼は言う。「これでさよならじゃないから、いい? ぼくたちはたくさん地下鉄を乗り継いで、ようやくめぐり逢えた。―まだ、ここが終点ってわけじゃないから」

僕は彼を軽く抱き締める。彼も軽く抱き締め返す。気をゆるめれば、簡単にその先の行為へ進みそうだったけれど、こらえた。僕たちはキスとため息の間で、どちら側にも倒れないように、上手くバランスを取って抱き合っていた。根本的にいい感じだ。

「たぶんもうそろそろ、ぼくは帰らなくちゃ」と彼は言うと、僕たちを取り囲む摩天楼を最後にもう一度見遣った。

「たぶんもうそろそろ、僕とイルサも答えを見つけなくちゃ」と僕は言う。「ゲストのみんなには帰ってもらって、二人で話し合うよ」

「幸運を祈るよ、うまく見つかるといいね。それと、もしかして彼女には、帰ってほしくないゲストが少なくとも一人いるんじゃないかな」

リーのことを言っているのだろう。彼がKKやパーカーではなく、リーの話をしてくれて、なんだかほっとした。

「屋上から下りる前に、前からやってみたかったことがあるんだ」と彼は言って、説明を始めた。反対する理由は何もなかった。それからしばしの間、僕たちは我を忘れて、シャボン玉を吹きまくった。できるだけ多くの泡を空中にまき散らし、夜空に浮かべた。シャボン玉が空間を埋め尽くしたところで、僕たちはそこを走り抜ける。ホーホーと二人して歓喜の遠吠えを上げながら。

ようやく気が済んで、僕たちは下の階へ下りていった。部屋に戻るまでの間、泡まみれの状態で、これからも長い付き合いにしていこう、とりあえず来週もまた会おうか、と連続メロドラマみたいなことを話した。女帝のアパートメントに戻ると、エラとルイはまだ歌っていた。レコード盤はひっくり返され、彼らの歌う曲目は違っていたけど。ダイニングルームでは、パーカーがほうきを手に持ち、床に散らばったグラスの破片やパン屑を掃いている。フレデリックとカスピアンはテーブルの上を拭いている。他の人たちは見当たらなかった。

僕の視線に気づいて、パーカーが説明する。「ジェイソンはすぐに限界に達して、バタンと床に倒れちゃったんだ。―俺は彼を抱きかかえて、お前の寝室までなんとか運ぼうとしたんだけど、お前が割ったシャンパングラスのことを話したら、彼はオエッと胃の中のものを吐き出しそうになって、―ここにいるのが怖いって、女帝が帰ってきてそのことを知る前に帰るって。だからタクシーを呼んで、ちゃんと帰した。リーとイルサは、女帝の立ち入り禁止の寝室に仲良く入っていったよ。―だけど、ぶっちゃけあの感じだと、ベッドで何かしようっていうよりは、誰にも聞かれずに二人っきりで話したいってことだと思う。もうそろそろお開きだなと感じて、フレディと俺は掃除を始めた。KKは1分くらいそこに座って俺らを眺めてたけど、退屈極まりなくなったんだろうな。もう我慢できないとか言って、そそくさと自分のアパートメントに帰って行ったよ。もちろん彼女の家では、こういう掃除とかは全部家政婦がやってくれるんだろうけど。彼女がまた、頃合いを見て戻ってくるかどうかはわからない」

「後片付けはしなくていいよ」と僕は言う。見れば、ヨハンもコーヒーカップを集め始めている。「ほんとに、いいんだ。僕には長年にわたる蓄積で、片付けの順番みたいなものがあって、そのままの状態にしておいてくれた方が、むしろありがたい」

彼らは、みんなでやった方が早いとか言い返してきたけれど、僕は1分ほどかけて、これは一つのシステムで、それが乱されると余計に時間がかかると反論した。ようやくパーカーが折れて、手を止めてくれた。僕は金庫を取りに行って、中からみんなのスマホを取り出した。―幸運にも、暗証番号は僕のパパの誕生日になっていた。家族の誕生日を試していって、4回目の挑戦で開いたってわけ。

「じゃあ、みんなでちゃんと部屋を乱したってことだね?」とヨハンが聞いてくる。僕はみんなにスマホを返しながら、また上手いこと言ってるな、と思う。誰もすぐにはピンと来ていないようだったけれど。

僕は頷く。「そうだね。帰ってゆっくり眠ってくれ」

「お前をちゃんとカリフォルニアに連れて行くからな、覚悟しておけよ。もうすでに俺の寮の部屋に置こうと、ピアノを注文しちゃったんだ。だからお前にはそれを弾いてもらわなくちゃ困るんだよ」

僕は彼にハグする。「まあ、行くかもしれないから。また会おう」

「それまでに、妹に俺のブロックを解除するように言ってくれ。ダンスのことで彼女にお礼がしたいって。俺のことが心底憎い状態は脱したみたいだから」

「一字一句そのまま彼女に言った方がいい?」

「いや、ダンスのことだけでいいや」

「わかった。さっそく伝えるよ」

「ボクもそろそろお暇させてもらうよ」とカスピアンが言う。彼もハグしてほしいのかと思って、ちょっと心配になったけれど、彼は来た時みたいに、フレデリックの小指を腕のように差し出してきて、僕たちは握手した。「このパーティーがどんなものになるのか予想もつかなかったけど、ボクは声を大にして言いたい。まさに期待以上のものを得られたよ。君のこれからの旅路に幸運を祈ってる。ボクも後ろの彼も、言ってくれれば何でも手を貸すから、連絡待ってる」

「連絡する」と僕は彼に言う。

「ありがとう」とカスピアンが付け加える。「ボクたち二人を仲間に入れてくれて」

「どういたしまして」と僕は、フレデリックの目を見て言った。それから、カスピアンを見て、もう一度繰り返す。カスピアンが頷く。

ヨハンはすでにバイオリンケースを手に持っていて、明らかに他の三人と一緒に帰ろうとしている様子だ。

「君のおかげで、単調な日常から抜け出せたよ。素晴らしいひと時だった」と僕は彼に言う。

「古い炎はいつまでも君を照らしてはいられないから、帰るよ」と、彼はドリー・パートンの歌の歌詞で返した。

彼を見送るのは悲しかった。―みんなが玄関を出て行くのを見送るのは、本当に悲しかった。でも僕はわかっていた。パーティーという交響曲はもう終わりなのだ。優雅なフェルマータで幕を閉じよう。

彼らが出て行って、ドアが閉じた。アパートメントはなんだか、夕方ゲストがやって来る前よりも、空っぽになってしまったようだった。まだ一人残っているのはわかっていたけれど、女帝の寝室は防音がしっかりしているから、僕はまるっきり一人になった気分で、ダイニングテーブルの上を片付けた。それからコーヒー沸かし器が載った台車をキッチンに押して行って、残りのコーヒーをシンクに流して空にした。今夜しでかしてしまったすべてを、僕は元に戻そうとしている。そして僕は気づく。「元に戻す」という行為も、前に進むことの一形態なのだ、と。

僕はこれからどうしようかと考えている。でもあまり考え過ぎないようにしよう。―これから僕たちがどうするのか、ちゃんとイルサと話し合うまでは。



19

イルサ


「起きて、イルサ」

私は起きたくない。最高に甘い夢を見ている途中だから。私はチョコレートで満たされた浴槽につかっている。チョコレートはとろっとろで気持ちいい。まるで天国にいる気分、だったのに、突然頭上からシャワーが降り注いできた。たしかにチョコレートのシャワーも甘い味はしたけれど、髪の毛からどばどばとチョコが顔に滴り落ちてきて、もう何も見えなくなる。私の思いつくことって大体いつもそう。チョコレートのお風呂も最初は良い考えに思えたけれど、浴槽から一歩足を踏み出してみると、チョコのついた足が滑って、よろめくように壁に手をつき、チョコが周りに飛び散る。私は大わらわで、べちゃべちゃと床も洗面台もチョコまみれ。チョコに覆われたまつ毛越しに垣間見える浴室が、なんだか血生臭い犯行現場に見えてきた。これって「チョコレートを凶器に使った殺人事件」?

誰かの手が私の腕をそっとさすっているのを感じる。もうチョコは私の肌についていないようで、その手の動きはすごく滑らかだ。はっとして、私はぱっと目を見開く。その夢は終わりを告げ、新たな夢が目の前に広がった。

「私、どれくらい寝てた?」と私はリーに聞く。

私の隣で彼女も横たわっていた。彼女は体を横向きにして、私をじっと見つめている。「そんなに長くないわ。1時間も経ってない」

私は思い出す。私たちは二人だけの時間を過ごそうと、女帝の部屋に入り込んだのだ。もう一つの目的は、二人きりになると、私たちの唇が引き寄せられるのかどうか、それから、もっと深いところまで入り込みたくなるのかどうかを確かめたかった。

「私、あなたと重なり合ったまま、文字通り寝落ちしちゃったの?」

彼女が笑う。「たしかにそうね。あなた飲み過ぎたのよ。それから、私の唇の刺激が強すぎたのね」

お子ちゃまイルサからまだ脱していないってわけか。パーティーが盛り上がってきて、一番いいところで寝落ち、子供の頃からそんな人生。

「ごめんなさい」と私は言う。

「謝ることなんて何もないのよ。私も少し仮眠を取れたからよかったわ。あなたの猫柄のドレスに寄り添いながらね」

「私たちってもうすでに典型的なレズビアンって感じよね? もういっそのこと、同棲しちゃった方がいいかしら?」

「フフ!」部屋は暗かったけど、窓の外から摩天楼の灯りが入り込み、リーが私にほほ笑みかけているのがわかった。「あなたって眠りながら歌ってるのよ、自分で気づいてる?」

「うん、知ってる」両親とサムに昔から忠告されてきたから。この癖については話したくない。恥ずかしいからというよりも、寝ている間の私の知らない別の自分を表に引っ張り出してくるみたいで、話したくない。こっちの私が起きている間は、あっちの私はそっとしておいてあげたい。それで私は、屋上で彼女とキスした時から知りたかったことを聞いた。「どのくらい前から私のこと好きだったの?」

「ずっと前から好きだったわ」

「好きって、恋愛の好きって意味」

「わからないわ。だんだんと気持ちが膨らんでいったの。化学実験室で毎日あなたの隣に座ってたらね、あなたについていろんなささいなことに気づいていった。あなたのリュックサックの中はいつも乱雑なこととか、だけど毎時間授業の終わりに、あなたはペンと鉛筆はきちんと揃えてプラスチックの筆箱にしまうこととか。化学の問題に取り組んでる間、あなたはすごく小さな声でビートルズの曲を口ずさんでることとか。イゴール・ディミトロヴィッチがどもりながら話してるのを、他の子たちはからかうのに、あなたはちゃんと耳を傾けて聞いてあげることとか。意地悪な女の子たちがジェーン・トムキンスを寄ってたかっていじめてるとき、あなたはいつも彼女をかばってあげることとか。アボット先生の男尊女卑みたいな、上からものを押し付ける教え方にあなたがノーを突き付けて、授業計画を変えさせちゃったこととか」

「わお。私ってすごい」と私は冗談で言った。

なんと、そこでリーがメロディーに乗せて歌い出した。「君は眠りながら歌ってる / 君は実は石橋を叩いて渡る / 君はへんてこな妄想ばかりしてる / 君は知らないけど / 僕は気づいてる

「すごくいいわ。その歌どこで聴いたの?」

「聴いたんじゃないの。あるミュージッククラブのトイレの個室の壁に書かれてたのよ。ローワー・イースト・サイドのクラブなんだけど、なんだかあなたのことみたいって思って、覚えちゃったの」

サムが書いたのかもしれないと思いながら、私は彼女に言う。「あなたは実際の私よりバージョンアップした、嘘っこの私を見てるんじゃないかな」

「だったら、実際にバージョンアップしちゃいなさいよ」と彼女が提案した。

なるほど。その考えには一理あるわね。

「私ってビッチだと思う?」と私は聞いてみる。

「あなたのユーモアのセンスはビッチっぽいというか、とげがあるとは思うけど、だからといって、あなた自身はビッチじゃないわ。あ、言っとくけど、私はビッチな子って好きよ。そういう子って、さっさとやることやっちゃうから潔いし」そう言うと、彼女は身を乗り出してきて、私の髪を撫で始めた。それから彼女の体を私の体に押しつけてきて、私に覆いかぶさるように前かがみになる。彼女の顔が下りてきて、私の口に彼女の口が重なった。今度のキスは屋上の時よりも長かった。さらに驚いたことに、―キスの甘さではなく(たしかに甘さもあったけれど)、その激しさに私はやられてしまった。

気持ちいい。

私はこういうワイルドな絡み合いを望んでいたんだわ。でも、こうしてみると、こういう相手はリーではない気がする。私がリーに求めているのは、荒れ狂ったように戯れることではない。私がリーに分けてもらいたいのは、彼女のひたむきさとか、彼女の品の良さなのよ。彼女の強烈なキスを受けながら、私は実際にバージョンアップしたいと思った。彼女のキスがそう思わせてくれた。

「家に帰らなきゃ」とリーが、唇をはがして言った。

「泊まってって」

「うちの両親が機嫌を損ねちゃう。うちの門限は午前2時なの。今からタクシーで帰れば、ギリギリ間に合うわ」

「あれって本気? 一緒に台湾に行こうって」

「本気よ」

「なんか変な感じにならないかな? あなたのおばあちゃん家に行って、私たちが、なんていうか...カップルって言うの?」

「今はまだカップルじゃないでしょ。将来的にそうなるかもってだけ」

彼女にそう言われても私は全然傷つかなかった。(もしパーカーに同じことを言われたら、私はきっと、私の方に何か落ち度があったんだとひどく落ち込むでしょうね)「あなたは家族思いっていうか、自分のことよりも家族優先なのね?」

「どっちでもないんだよね。私はどっちかって決めちゃうのが好きじゃないの。心のおもむくまま、しっくり来る方へその都度進むだけ。同性愛に進むのも、そっちが正しいって確信があるわけじゃなくて、わかってるのは、元々私は性的にまっすぐじゃないってことだけ」彼女はそこで一息ついてから、続けた。「来月あなたが私と一緒に台湾に来るなら、私の部屋じゃなくて、あなたにはゲストルームに寝てもらうわ。おばあちゃんの裁縫部屋も兼ねてる部屋なんだけどね」

「悪ふざけができなくなっちゃう」と私は冗談めかして言う。

「悪ふざけは...いつかでいいんじゃない。私は全然急いでないし。あなたは?」

私は、私たちの関係をなんて呼べばいいのかすらわかっていない。ただ、これからも彼女と多くの時間を過ごしたいと思う。すごく沢山の時間を一緒に過ごしたい。「急いでないわ」

私がパーカーと知り合ったのは、私とサムが通っていた空手の道場に彼が入ってきた時で、私たちは8歳だった。私がパーカーを好きだと気づいた瞬間は、16歳だった。そして気づいたその日の夜に、私は彼と最後までしてしまった。すごく良かったし、私は彼を愛していた。でも、やっぱり急ぎ過ぎた気がする。短期間に多くのことを求め過ぎたみたい。私はまだ心の準備ができていなかったのね」

今度は、ちゃんと準備期間を設けよう。

リーが言う。「私はまだ誰とも、最後までしたことないの」

「わかったわ」

「ありがとう」

「ありがとうって何が?」

「経験がないことで私を、あ、そういう人なんだって決めつけないでくれてありがとう。過去に何人かいたのよ、私がまだしたことないって言ったら、なんか私に欠陥があるみたいな雰囲気を醸し出して、気まずい関係になっちゃったことがあるの」

「時間をかけてその時を待つのは、何も間違ってないわ」

私も時間をかけて待てばよかった。

リーが言う。「大賛成! そうなのよね、その時がいつ来ても、相手はまだ誰かわからないけど、心がしっくり来るっていうか、ああ今だって思いながら結ばれたいの」

「ああ今だって思って、私にキスしたの?」と私は彼女に聞く。「なんかすごく、最後のキスみたいな必死さがあったけど」

「あれが最後じゃないといいわ!」

「あれで最後ってことで...とりあえず今夜は」

彼女は大きく頷いて、従ってくれた。

確実に、あれで最後ってことにはならないでしょうね。


私はビートルズの『Something』を歌いながら、上機嫌でキッチンに行ってみると、サムが洗い物をしていた。私はリーを見送りに1階まで下り、呼んでおいたタクシーに彼女が乗り込むのを見届けてきたところだった。「I don’t want to leave her now / You know I believe and how.(今は彼女と離れたくないよ / どれほど君のことを想っているかわかるだろう)

流しでお皿を洗っていたサムが、私に向かって拭きタオルを差し出してくる。私は彼の横のキッチンカウンターの上に飛び乗るように座って、お皿を拭き、ラックにしまい始める。私たちは二人でこうして、パーティーを終えるのが恒例だった。

サムが言う。「お前が単調な日常はひとまず忘れて、楽しみたいって言ったとき、まさかリー・チャンと楽しみたいっていう意味だとは想像もできなかったよ!」

「私も想像してなかった。わかるでしょ? サム」

「わかるって何?」

「私は謙虚になりたい。単調な日常が欲しくなったの。つまらない日常じゃなくて、―ずっと続いていく日常よ。わかるでしょ?」

「ちょっとくらい羽目を外した方が健全だよ。退屈極まりない日常と引き換えに、すべてをなげうってしまうなんてもったいない」

「私が単調な日常なんて送れると思った? ちょっとは疑いなさいよ」私はそれを証明するために、カウンターから飛び降り、女帝の大切なシャンパングラスの残りが並べてあるキャビネットに手を伸ばし、1本をつかみ、引き出す。それから、サムの背後の壁に狙いを定め、彼に警告する。「頭を引っ込めて!」

彼が懇願してきた。「やめろ、イルサ! 頼む、やめてくれ! もし彼女のグラスをもう1本割ってしまったら、俺は女帝に殺される」

私は振り上げた手を下ろし、そのフルートグラスをキャビネットにそっと戻した。「冗談よ」

「心臓に悪いよ。全然面白くないし」

「すごく面白い表情してたわよ。っていうか、あなたは何をそんなに心配してるわけ? わかってるでしょ、彼女は私を責めるんだから」

「ごめん」

「ごめんって何? 彼女が私を責めることが?」

「そう。それと、俺が彼女のお気に入りでごめん」

18年かかってようやくちゃんと認めたわ。彼は今までずっと、その真実を否定したり、冗談のふりして、はぐらかしてきたのよ。

でも彼が謝ってくれたことだし、許してあげる。

「いいわ」と私は言う。「あなたは私のお気に入りでもあるのよ、もし私があなたのおばあちゃんだったらって話だけど」

サムが黙っている。私にもうひと声言ってほしいみたいだけど、もう言うことはない。少しの沈黙の後、彼が言った。「今度はお前が謝る番だぞ。パパのお気に入りでごめんなさいって」

「私がパパのお気に入り?」正直、そんなこと思ってもみなかったわ。双子の親っていうのは、何よりも平等を優先するっていう悪しき性質があって、だからこそ、私はひいきされてるなんて、これっぽちも気づかなかった。「でも、パパから料理を習って、料理好きになったのはあなたでしょ」

「パパはプロのシェフになるまでは、料理好きだったんだ。今は彼にとって、料理は単なるやっつけ仕事でしかない。むしろ、パパが好きなものを好きになったのはお前の方だよ。大学のバスケットボールリーグ、数独パズル、『となりのサインフェルド』の再放送、〈フットロング・サブ〉の横長ハンバーガー」彼は肩を抑えて身震いする仕草をした。「パパはお前のことをちゃんと理解して、良いところも評価してる。俺は彼にとって、謎なんだよ」

そうかしら? パパにとっての唯一の謎は、パパ自身の母親である女帝が、なぜ息子よりも孫を可愛がっているのかってことだと思うけどな。女帝は長らくパパに愛情を注いできたんでしょうけど、全面的にサムに乗り換えて、溺愛しちゃったのね。でも、家族ってそういうものだと私は思うけどな。それで家族一人ひとりへの愛情が減っちゃうってことにはならないでしょ、たぶんだけど。

「あなた本気で、女帝に恋人ができたと思ってるの?」と私はサムに聞く。

「本気で思ってるよ。彼女がこのアパートメントを手放すってことは、単に隠居生活に入りたいからじゃないだろ」

「彼女は絶対に認めないでしょうけど、きっと私たちのおじいちゃんに会いに行ってるのよ!」悲恋が多かった女帝の恋愛遍歴の中で、私たちのパパを産むことになった相手の男性が誰なのかってことが、ずっと最大の謎だった。彼女は女手一つでパパを育てたわけだけど、誰も相手が誰だったのかは知らないし、その人と彼女の間で何があったのかもわからない。ただ、彼女がパパを身ごもる前の夏に、パリに働きに行ったことだけは周りの人も知ってる事実だから、たぶんその時に狂おしいほどの情事があったのね。そして帰ってきて、妊娠してることがわかって、―シングルマザーになったってことでしょう。

「お前が女帝みたいになりたいのはわかるけど」とサムが言う。真剣な口調だ。「だけど、そういうところまで真似るのはやめろよ」

「努力はしてみるけど、私が彼女みたいにひねくれてるのも知ってるでしょ? どうあがいたって、そうなっちゃうかもしれないわ」

「お前は女帝より、実際いいところがたくさんあるんだから。そうやって、自分はひねくれものじゃなきゃだめって決めつけなければね」

「あなたは私がひねくれてると思う?」

「全然思わないよ。根っこのところでは、お前が家族の中で一番誠実なんだよ」

思ってもみなかったことを言われて私は気分を害すかと思ったら、そんなことなくて、笑ってしまった。「ってことは、後先考えずに無茶をするのは、あなたってことになるわね? 気まぐれでカリフォルニアに行くらしい、無鉄砲な坊っちゃん?」

「たぶんそうだね」

「よろしい。あなたが今までにした最大の決心よ。かつてない冒険に行ってらっしゃい」

「俺にはそんなこと無理だって言われると思ったけど」

「私が間違ってたわ」サムが自分の道を切り拓くには、彼が今までに培ってきたシステムにひびを入れるショックが必要だと私は思った。そこまでは正しかったんだけど、そこからが間違っていた。ひびを入れるのは彼自身しかできないし、それは彼が自分でやるしかなかったのね。そして今こそ、話し合うべき時でしょ? 今までサムと私がこういうことを話し合ったことってあったかしら? おちゃらけ話とか、うわべだけの会話じゃなくて、真剣によ。「あなたがどこへ行くとしても、不安な気持ちにならずに暮らせる場所が見つかることを願ってるわ。そしてそこで、何でもいいから、何かに情熱をもって打ち込めるといいわね。音楽でもいいし、料理でも、靴下のパペット芸を極めるっていうのもありね」

「お前がどこへ行くとしても、そこがスタンウィック邸じゃないことを願うよ。俺たちは今、一緒に巣立って行かなきゃいけないと思うんだ」

「私はスタンウィック邸に残るつもりはないわ」

私はまだどこに行くべきか決めかねていた。だけど、ここに残るのは違うなっていうのはわかる。両親が熱心に勧める、あの大学に行くっていう選択肢も、たぶん最悪な道ってわけじゃないのよね。私がパパのお気に入りなのだとしたら、たまってる飛行機のマイルをゆずってくれるでしょうから、今年の夏は台湾に行ってみようかしらね。秋の入学式前にはちゃんと帰ってきて、クイニピアック大学に行くって言えば、両親も許してくれるはず。私が本当に大学に行きたくて仕方ない、みたいに振る舞えばね。というか、もしかすると私は、振る舞うだけじゃなくて、実際大学に行くのが楽しみなのかもしれない。周りの景色が変わるわ。コネチカットの緑豊かなキャンパスで、新しい体験もするでしょう。単調だっていいじゃない。それにあそこからなら、リー・チャンにも簡単に会いに行ける。彼女は秋からクイーンズ・カレッジに行くことになってるからね。

サムが言う。「女帝は俺に言ったことがあるんだ。スタンウィック邸に閉じ込められてる気がするって。彼女は今までも、もっといろんな場所で暮らしてみたかったんだよ。だけど、ここより住みやすい場所はないこともわかっていたから、ここを出なかった。彼女はたぶん、内心では、もっとシンプルな暮らしがしたかったんだと思う。彼女が昔から住んできたこの家に留まり続けるために、ビルの管理会社を相手に訴訟をしなければならないような暮らしじゃなくて、もっとシンプルな。あるいは、ここに大勢の親戚とか知り合いを呼んで、盛大なパーティーを主催する、そういう注目の的であり続けることに、もういい加減、嫌気が差したんじゃないかな」

「サム?」

「何?」

「あなたは女帝より、私の方が好きなんでしょ?」私は彼の双子の妹なんだから、当然そうでしょ。

「好きの種類が違うから、どっちの方が好きとかはないよ」

私は玄関ホールに行って、自分のスマホを金庫から取り出し、キッチンに戻ってきた。キッチンのフックに掛かっていたシェフ用の白い帽子を取って、サムの頭にかぶせる。それから私は、空になった女帝の高級シャンパンボトルを持ち上げた。そして、二人で自撮りしようと、片手でスマホを構える。この写真を見れば、いつでもスタンウィック邸での最後のディナーパーティーを思い出せるから。「はいチーズの代わりに、私たちにはいつでも女帝がついてる!って『カサブランカ』っぽく言いましょう」

サムがカメラに向かってほほ笑んだところで、私は撮影ボタンを押した。「俺たちにはいつでも女帝がついてる!」

それから彼は私の手からボトルを取り、ボトルの底にほんの少しだけ残っていたシャンパンを私の頭にかけた。なんだか、最高に素晴らしい洗礼を浴びたみたいだった。これから私たちは未知なる未来へと突入してゆく。どんなことでも起こり得るでしょうけど、つまらない未来にはならないでほしい。美味しいものをたくさん食べて、楽しい時間をいっぱい過ごし、折に触れて靴下の人形や、私たちがこの上なく大好きな人たちに会いたいな。

「乾杯!」と私は兄に向かって言った。

サムがキッチンカウンターに一つだけ置いてあったドリー・パートンの小さなフィギュアを手に取った。ヨハンが置いていったものでしょう。彼はどうしてそれを置いていったのかしら?

ドリーが何かを言いたそうな表情で、サムの視線を受けていた。



20

サム


僕はそれを見て、ヨハンからのメッセージを推測する:

彼はあえてドリーがシルヴェスター・スタローンをアームレスリングで倒した瞬間のフィギュアを置いていった。小柄でも、精気溢れるドリー・パートンが、大きなチャンピオンをなぎ倒すことができるのなら、僕だって自分の人生をぎゅっと握り締め、自分の力で切り拓いていけるはずだ。



21

サムとイルサ


10年後

二人はインターフォンを押す。中から女の子が顔を出すが、彼女が誰なのかわからない。彼女の方も、その二人が誰なのかわからない様子で、きょとんとしている。

イルサは彼女の顔をじっと見つめる。10年前の面影が、記憶とともに彼女の顔に浮かび上がってくる:目の前の若い女性は、―

「マディ?」

マディだとすると、今は17歳ってことになるわね、とイルサは大きく目を見開きながら思う。―その女の子もイルサに負けず劣らず大きく目を見開いて、困惑ぎみだ。

「マディでしょ、私よ、イルサ。そして、こっちがサム。さっきまで最上階のKKの家にいたんだけど、せっかくだからこの階にも下りてみようと思って。久しぶりにこのアパートメントを見たいなと思ったの」

「イルサ! わお!」マディは両手を広げて彼女に抱きつく。それから一歩下がって、イルサとサムが着ている黒の喪服を眺め、得心がいく。「そういうことね。―あなたたちのおばあちゃんの! その話は聞いてたから、私もお気の毒にって思ってたのよ。そうすると、あれね? 今日が...」

「そう、お葬式だったんだ」とサムが言う。彼は目の前の10代の女の子と、かつて同じホールを共有し、隣のドアに住んでいた少女を、必死で同一視しようと目をパチクリさせている。その間、二人は何度かKKの家は訪れていたけれど、この階でエレベーターを降りるのは、女帝がこのアパートメントを出てからは、今回が初めてだった。

「中に入ってもいいかしら?」とイルサが聞く。「ちょっと見るだけだから」

「もちろん!」とマディが応える。「ママもパパも今家にいなくて、私だけなのよ。帰ってきたら、きっとあなたたちに会えなかったって残念がるわ。どうぞ、入って!」

マディは先に玄関の中へと戻り、彼らを招き入れる仕草をする。かつて慣れ親しんだ玄関ホールに手招きされて入ることに、二人がどれほど違和感を覚えているのか、彼女は露ほども気づかない。イルサは中に入ろうとするが、横のサムがためらっているのに気づく。彼は怖さや悲しみを抱いている、と直感的にわかる。いわば過去の領域に足を踏み入れようとしているのだ。過去がそのままの状態でそこに残っているなんて、あり得ない。

何も言わずに、彼女は彼の手を取った。彼も何も言わずに、その手を握り返す。心をつなぎ合わせて、せーの!と言うように、二人は同時に玄関の中へ足を踏み入れた。

サムは中の様子をあまりキョロキョロと見回したくないと思ったけれど、どうしてもあちこちに目が行ってしまう。なんだか親しい人が急激にイメチェンして、見慣れない洋服を着ているようだ。もしくは、着慣れた洋服を、全然知らない人が着ているのを目撃したみたいだ。女帝の家具のいくつかは、そのまま残されていた。―ソファなんて、パリまで運んで行っても意味ないでしょ、と女帝が言ったのを思い出す。そしてソファの収納スペースに隠し入れていた彼女の大切な何かまで、危うく置いていくところで、彼女はひどく焦っていた。マディの家族が快く家具類の置き残しをそのまま使ってくれていたお陰で、サムは家に帰ってきたような懐かしさと、場違いなところに入り込んでしまったような居心地の悪さを、同時に感じることになった。

イルサはアパートメントの様子にはそれほど目が行かなかった。それより、彼女の目はマディに釘付けだった。マディが大人びてしまったことが信じられない。と同時に、マディの若さを感じずにはいられない。それはそうで、イルサもサムも同じだけ年を取ってしまったのだから。ここで最後のディナーパーティーを開いたとき、私は今のマディと同じ年だったの? 高校の最上級生って、昔はもっとずっと大人って感じがしなかった? 彼女も来年は18歳になって、今より広い、未来の世界へと巣立っていくことになるんでしょうけど、なんか目の前の彼女がすごく若く感じる。巣立ちの時期ってこんなだったっけ? と不思議な気分だ。

「ごめんなさい、こんなに散らかってて」とマディが言う。「あなたたちが立ち寄ってくれるって知ってたら、ちょっとは片付けたんだけど。なんていうか、変な感じがするでしょ? 昔住んでいた部屋がこんなになっちゃって」彼女は見覚えのあるソファの上から、雑誌を一冊拾い上げた。雑誌を片付けただけで十分部屋の見栄えは良くなったでしょ? みたいな表情で向き直って、続ける。「思い出したわ。私がまだ小さかった時、ここに引っ越してきて、―お隣さんはすっごく騒がしいのねって思ったのよ。お隣さんってあなたたちのことよ。あの辺りが私の寝室だったの」彼女はリビングルームの壁の一角を指差す。「今は壁を壊してつなげちゃったけど、そこに壁があった時は、すぐ向こう側に私のベッドを置いていたの。私はベッドに寝ころんで、壁に耳をあてて、こっち側の様子を想像するのが好きだった。あなたたちの声や物音が騒がしく聞こえてきて、いつもあなたたちは...幸せそうだった。聞こえてくる手掛かりを一つも聞き逃さないようにって耳を凝らしてたわ。あなたたちが何をしているのか知りたいってだけで」

「君はクッキーを持ってきてくれたよね」とサムは、おぼろげな記憶を引っ張り出すように言った。

「そうね、持っていったと思う! 覚えててくれたんだ。そういえば、あなたたちのおばあちゃんって、―なんか他の人とは違うオーラが出てたわ」

サムがにっこりと笑顔になる。「うん、彼女は実際、他の人とは違ったよ」

彼女はパリに埋葬されることを望まなかった。パリは彼女のお気に入りの街だったけれど、やっぱりここが彼女のホームだから。

イルサは兄の顔から笑みが引いていくのがわかる。彼は頑張って笑顔を浮かべようとしているのだが、どうしても満面の笑みに至る前に、一部がするりとこぼれ落ちてしまうのだ。このアパートメントに行ってみようと言い出したのはイルサだった。実際来てみて、イルサはそんなこと言い出さなければよかったかな、と不安になる。でもまあ、良くも悪くも、通らなければいけない道なのよね。サムはこの何ヶ月かパリに住み込んで、女帝に付きっきりで、彼女の望み通りに、彼女の最期をみとった。その間、彼は気を強く張っていた。おばあちゃんのためにも、家族全員のためにも、彼は強くあらねばならなかった。でも今、イルサにはわかる。彼にはもうほとんど力が残っていない。彼はなけなしの力でどうしたらいいのかわからないのだ。彼が悲しみに打ちひしがれるようなことにならなければいいな、と彼女は思う。前に誓ったことを思い出して、彼には前を向いてほしい。

「そんなに時間はかからないから、サムと私の二人きりにしてくれないかな?」とイルサはマディにお願いする。「その後、三人でゆっくり話しましょう。―積もる話がいっぱいだわ!」

「わかったわ。もちろんよ」とマディは返す。「私も話したいことがいっぱい。あ、どこの学校行くのっていう質問はしないでね。もう会う人みんな、どこの学校行くの、ばっかり聞いてくるからうんざりなのよ!」

「わかった。約束する」とイルサが応える。

マディは女帝がかつて寝室として使っていた部屋を指差した。「私は自分の部屋にいるから、二人で気の済むまで過ごしたら、呼んでね」

彼女は部屋に入っていった。そしてここが再び、イルサとサムの二人きりの宇宙になる。この週末は、大勢の人がお葬式にやって来て、いろんな人に挨拶したりと、社会的義務を果たすのに手一杯だった。ようやく静かな空間に逃げ込めた感じだ。

「彼女はどこの学校に行くのかな? 気になるから聞いちゃおうかな」とサムが言う。

「あなたってひどい人ね」とイルサが彼に言う。声のトーンは、全然ひどくない人に向かって言っているみたいだ。

天井の上から足音が聞こえてきて、イルサは、きっとKKとリーが騒いでいるんだわ、と思う。KKの住む最上階はすぐ上ではなく、何階か上のフロアーなのだが、どういうわけかそう思ってしまう。この邸宅の中で、KKのアパートメントだけは常識的な力が及ばない領域なのだ。―このマンションはいろんなところを改装して、以前とは見違えるほど様変わりしたけれど、最上階だけは何も変わらず不可思議な雰囲気を纏っている。しかしながら、KK自身はちょっと変わった。―女帝の死が彼女にも変化をもたらしたのかもしれない。彼女はちょっと自信を失ったかのように、前より少しだけ丸くなり、周りの人の話にも少しは耳を傾けるようになった。「彼女は永遠に生き続けるのかと思ってたわ」とKKはお葬式の時、イルサの耳元に口を寄せてきて、囁いた。「あたしね、前から彼女みたいになりたいなって思ってたんだ。彼女がいなくなっちゃって、これから誰を目指せばいいんだろ」

KKとイルサの間に座っていたリーが、その囁きを聞いて、イルサの手をぎゅっと握り締める。リーのいつもの愛情表現だ。繰り返し手を握ることで信頼感が上乗せされ、新しい人生がその上に築かれていった。

そしてお葬式の時、イルサのもう一方の隣には、サムが座っていた。彼は10年間、あちこちの地を巡り、ピアノを教えたり、家庭教師をしたりして暮らしてきたのだが、パリを経由して、ついにニューヨークに戻ってきた。彼が去らなければならなかった街は、ちゃんと彼のことを待っていたのだ。

私たちはキッチンに行かないとね、イルサがそう思うのと同時に、サムが言う。「キッチンに行ってみよう」

以心伝心は今も健在だった。3時間、3週間、あるいは3ヶ月、全く会話をしなくても、一旦二人が話し始めれば、二人の思考は瞬時に同じ空間を共有し、言葉がつながる。

キッチンはほとんど10年前のままだった。女帝はキッチンにこだわりと誇りを持っていて、当時から投資を惜しまなかったから、マディの家族が手を入れる余地がなかったのも頷ける。

サムはキッチンカウンターの上に手を置き、撫でるように滑らせる。まるで彼のそばに残像のように18歳の彼がいて、一緒に同じことをしているようだ。そして、18歳の彼がここにいるということは、18歳のイルサも同様に、このキッチンにいるということになる。

サムは思う。育った場所を去った。去らなければならなかった。でも、あれから長い間、この場所はずっと心の中にちゃんとあった。ここは自分の中心だから。

それから、彼はイルサを見る。今ではイルサは、彼のもう一つの中心になっていた。

「あの夜のこと覚えてるか?」と彼が言う。どの夜のことを言っているのかは、イルサにもすぐにわかる。彼は今でもあの時のドリーをポケットに入れて、肌身離さず持ち歩いている。あれからずっとドリーは彼の御守りなのだ。

「私たちが約束を交わした夜でしょ」と彼女は返す。「さよならを言った夜ね」

あの夜がこのアパートメントで過ごした最後の夜というわけではなかった。―その後も、荷造りしたり、女帝がパリに引っ越す準備を手伝ったりしたので、ここで過ごした夜はあの後も何日もあった。だけど、イルサの言う通りだとサムは思う。―さよならパーティーをしたあの夜、たしかに僕たちはここでの暮らしにさよならを言ったのだ。そして、二人が羽ばたいて行く未来に、よろしく、と声をかけたのだ...その未来も今では過去なのだけれど。

「パーカーに頼まれてるから、ここの写真も撮らなくちゃ」とサムが言う。パーカーもカリフォルニアから飛行機に飛び乗って、女帝のお葬式に参列したいと言ったのだが、彼が飛行機でアメリカ大陸を横断中に、妻のジーナが「産まれそう」と産気づいたりしたら、「妻に千の方法で殺される」と彼はこっちに来るのを断念した。「タイミングが理想的とは言えなかったな。俺は妻のそばで、初めての娘が出てくるのを待つことにするよ」と言っていた。

イルサはパーカーに送る写真に自分も入るつもりはなかったのだが、サムがスマホを彼女に向けると、彼女はとっさにメレンゲ・ダンスのポーズをした。それを見て、サムが笑い出す。彼の笑い声はイルサの耳に心地よく響く。

「いいね」と彼は言って、その写真をパーカーに送信した。

サムが今ではすっかり忘れてしまった高校時代の思い出もある。#スタンタのツイートは一つも思い出せないし、スーパーマーケット〈トレーダー・ジョーズ〉で恋した「彼」の顔は全く思い出せない。数学の微分積分のやり方なんて微塵も頭に残っていない。しかし、彼はあの夜のことは鮮明に覚えている。あの夜の最後の会話が目に浮かぶ。

「ここには残らないって約束してくれ」と、あの時、彼は聞いた。

「約束するわ」と彼女は応えた。「あなたもここを出るって約束してくれればね」

そして彼も同じように約束した。

それまでの二人は、約束めいたことならしたことはあったけれど、そんな風に「約束」を交わしたことは一度もなかった。もちろん、お互いにいろんなことをお願いしたことはあって、その度に、誓って絶対にそうする、とか、誓って誰にも言わない、とお互いに言い合っていたのだが、それらは約束ではなかった。破られる可能性が高いとか、重要な決心になるからリスクが高いとか、そういう理由でそれまで約束を交わさなかったのではなく、約束するからには、ちゃんと守らなければならないことを二人とも知っていたから、その時に初めて約束したのだ。その約束が何であれ、約束は守るためにある。

一旦「約束」を始めた二人は、止まらなくなってしまった。

「何か助けが必要な時は、私に知らせるって約束して」と彼女は言った。

彼は約束した。

「愛すべき何かを見つけるって約束して」と彼は言った。

彼女はリーのことを思いながら、約束した。

「作曲するって約束して」と彼女は言った。

彼はヨハンのことを思いながら、約束した。

「どこへ行ったとしても、自分の服はちゃんと自分で洗濯するって約束して」と彼は言った。

彼女は約束した。

実は二人には密かな約束事もあった:自分でやらないことがあれば、お互いが代わりにやってあげる。これは特に言葉で約束する必要のないほど、二人の胸の内側に浸透しきっていた密約だった。

実際、この密約は至極自然に機能していた。サムが外側の世界を見ていれば、イルサは彼女自身の心の働きを見ていた。サムがつっかえることなく曲を演奏すれば、それでもイルサはあらを見つけ出し、ダメ出しをしてあげた。時には彼女が彼に代わって、見つけたあらを直してあげた。これから幸せではない時もたくさん訪れる、そう胸に刻み込んで、二人は一緒に幸せを手にした。そして二人して、強さも身につけた。幸せというのは、体の内側にも見いだせるし、同様に自分の外側、もう一人の中にも見いだせる、ということに気づいた二人は最強だった。

さよならパーティーの時、終わりはたしかに新たな始まりを告げた。

そして今、女帝が亡くなって、もう一つのエンディングを迎えた。それでも二人は、まだここにいる。このキッチンも...まだここにある。

「思い出したわ、あの時...」とイルサが語り始める。

二人で始めた会話は、それからメンバーを増やし、4時間以上続くことになる。しびれを切らしたマディがキッチンにやって来て、二人に加わった。KKとリーもそのうちに最上階から下りてきて、会話の輪に加わる。彼らは喋りながら思い出し、思い出しながら喋り続ける。過去を遠くから眺めると、単調な日常さえ魔法がかって見えた。

そういう風にして、懐かしい面々がみんな、生き生きと浮かび上がってくるのだ。






〔訳者あとがき〕


1

翻訳


「イメージ、彩り、ニュアンス」ぼくはこの三つを常に意識しながら訳しています。なので、ぼくの訳文を読んで、「さよならパーティー」が行われている室内の様子が鮮明に思い浮かべば成功、というか、ぼくが訳した文なので、それぞれのシーンがありありと思い浮かんだことでしょう!笑



2

誤訳


とっとと言い訳してしまいます。笑

第1章を訳している時は、サムもイルサも他のみんなも大学生だと思い込んでいたのですが、第2章に入り、これから大学に入学することが判明し、冷や汗を流しました。笑

「やべー、もう絶対5人くらい、いや5千人くらい読んじゃったよー!」と苦笑いを浮かべながらも、「まいっか」と不退転の決意で、振り返らず前に進むことにしましたm(__)m笑


言い訳としては、日本とアメリカの入試の時期の違いがあります!笑笑

日本の大学は、春の4月に入学式があり、その数ヶ月前の(まさに今の時期)2月くらいに入試があるわけですが、

アメリカの大学は、9月頃に入学式があり、秋から新学年が始まるのです。ここまでは知っていたのですが、アメリカの入試の時期までは把握していませんでしたm(__)m笑


アメリカの入試は数ヶ月前ではなく、半年以上前に行われるのです!

というわけで、誤訳が起きました。笑



3

謝辞


前半の部分をtaaさんに校正してもらいました。

表向きは、(ぼくも見直すことになるので)誤訳に気づくため、だったのですが、

真の目的は、誰かに読んでもらいたかった、のです...笑

いろんな翻訳本の「訳者あとがき」に、「丁寧な校正をして頂いた出版社の〇〇さんに感謝します」みたいなことが書かれていて、しかも、ほぼ100%女性の名前だったので、「いいなー」と涎が垂れそうになりながら、「ぼくも誰かに読んでもらいたいなー」と前から思っていたので、taaさんにお金を払ってしてもらいました。

初めての経験だったので、やり取りから新鮮でした!笑

自分以外の人に読んでもらうって、こういう気持ちなんだ~と、プロの「気分」を味わわせてもらいました。ありがとうございました。

(でも、プロが訳した文って、それぞれのシーンのイメージがちっとも浮かばないんだよね...)



4

参考文献


この〔訳者あとがき〕を書くにあたって、こちらの本、並びにウィキペディアを参考にさせて頂きました。


①『ライ麦畑でつかまえて』著 J・D・サリンジャー 訳 野崎孝

②『フラニーとゾーイー』著 J・D・サリンジャー 訳 野崎孝

③『若者たち』著 J・D・サリンジャー 訳 藍

④『ティファニーで朝食を』著 トルーマン・カポーティ 訳 藍

⑤『心のトリセツ ユング心理学がよくわかる本』著 長尾剛

⑥「ウィキペディアのユングの項目」著 匿名の天才さん



家にある(たぶん数千冊の)本の中で、2冊だけ残して後は断捨離するとしたら、『ライ麦畑でつかまえて』の英語の原本と、この青い翻訳本を残します!

英語と日本を見比べて、野崎孝さんの超絶技巧に「おー、うわー、すごーい」と、涎をすすりながらうなっていれば、1日なんて簡単にやり過ごせます。

(前は1日をやり過ごすのが大変でつらかったな~しみじみ...)



5

若者たち


サリンジャーの『The Young Folks(若者たち)』の最後の部分だけを訳します。


"Hey!" Edna called, tapping her cigarette on the arm of the big red chair. "Hey, Lu! Bobby! See if you can't get something better on the radio! I mean who can dance to that stuff?"


「ちょっと!」とエドナが大声で呼びかけた。彼女はいつの間にか大きな赤い椅子に座っていて、指に挟んだタバコを椅子のひじ置きの部分でトントンと叩いている。「ちょっと、ルー! ボビーでもいいからさ! このラジオの音楽なんとかしてよ、もっとましな曲はないの? こんなしめっぽい曲じゃ誰も踊れないでしょって言ってるのよ」


最後の部分だけだと、文脈がわからないと思うので、簡単に登場人物を紹介すると、

①「ちょっと!」と叫んで、音楽を変えさせようとしているエドナは、『ティファニーで朝食を』のマグ・ワイルドウッドみたいなキャラクターで、『サムとイルサのさよならパーティー』で言うと、KKにあたるかなと思う。

②エドナに「ルー!」と呼ばれているのは、このパーティーの主催者で、ルシールという名前の女の子。『若者たち』は、ルシールの家で、親が留守中にパーティーをやっているという設定の短編小説なので、『サムとイルサのさよならパーティー』の設定に近い。

というか、『ダッシュとリリー』の時にも、サリンジャーの『フラニーとゾーイー』が大型書店の本棚に挟んであったりしたので、この二人の著者(レイチェル・コーンとデイヴィッド・レヴィサン)は、サリンジャー好きなんだと思う。ぼくみたいにどっぷりとサリンジャーフリークかどうかは微妙だけど...笑



6

KK(カービー・キングスリー)


第18章

それからパーカーが、きっとKKを困らせるためだろうけど、フレデリックに手を差し出した。そしてカスピアンが、こちらもKKへの当てつけだろうけど、パーカーの誘いを受け入れ、手を取った。


第18章に、誰もKKをダンスに誘わないシーンがあって、ぼくは「KK、かわいそう」と思った。涙

KKは一人ぽつんと、ダイニングテーブルの椅子に座って、みんなが踊るのを眺めながら、何を思っていたのだろう?(独りぼっちは精神的にきついよね...涙)

「さよならパーティー」では、そのままふてくされて、最上階の自分の家に帰っちゃったKKだけど、

10年後の第21章を見ると、イルサや、いがみ合っていたリーとも関係は続いていたみたいで良かった!(ほっと一安心。笑)


第17章

私たちに詳しい情報を教えてくれたのは、KKだった。「そうよ。ブータンはインドの近く、ヒマラヤ山脈の高地にある国で、ネパールとチベットの国境辺りね。仏教の王国で、修道院とか砦がたくさんあって、山と谷が入り組んだ地形は目を見張るほどの絶景よ。贈り物としてスランケットを持って行くといいわ。あそこの人たちはすごく貧しいんだけど、世界で一番優しい人たちなのよ。彼らにとっては贅沢品だけど、西洋の物なら喜んで使ってくれる。スランケットのポケットに鉛筆をたくさん詰めて贈れば、子供たちも喜ぶわ。―あの子のキラキラした満面の笑みが目に浮かぶわ。鉛筆を贈るだけなんだから簡単でしょ」


第17章で「世界旅行」というゲームをやった時、KKはカードに「ブータン」と書いたようで、彼女は魂の探求のため、ブータンに行っていると言う。

みんなから避けられがちなKKは、ブータンに行くことで、一旦、心をリセットしているのかもしれない。「避けられがち」という意味では、ぼくもKKに近い存在なので、KKを見習って、心を慰めたいんだけど、KKとぼくの大きな違いが、ヒマラヤ山脈のように立ちはだかっている。そう、KKは家に家政婦さんがいるほどのお金持ちなのだ。(涙)笑



7

女帝


一度も登場することなく、10年後に亡くなってしまった女帝。

『フラニーとゾーイー』で言えば、長男のシーモアにあたる存在(不在)で、その神性は、不在であることにより、ますます高まるのかもしれない。

と思ったけれど、

第21章で、KKも女帝に憧れていたことをお葬式でイルサに打ち明けた。つまり、不在だからではなく、身内だからでもなく、女帝は真にカリスマ性を発揮していたのだ。

そんなおばあちゃんの影響を大きく受けて育ったサムとイルサだから、二人とも器が大きいと感じる。

サムもイルサも、基本的な心構えは、「拒まず受け入れる」のだ。

サムもジェイソンを結局受け入れたし、イルサもリーの気持ちを受け入れた。



8

著者


『サムとイルサのさよならパーティー』は、『ダッシュとリリー』の本と同じ二人の偉大な著者、レイチェル・コーンとデイヴィッド・レヴィサンによって生み出されました。

この二人はそれぞれ一人でも小説を書いているようなので、それぞれが一人で書いた小説も訳してみようと思います。

しかし何といっても、この二人の「コンビプレー」が織り成す見事なドリブルシュートのような本は格別で、このコンビの本がまた出たら、100%速攻で訳します!


サッカーで喩えると、二人でパスを巧みに出し合って、次々と相手選手を抜きながら敵陣に攻め入ってゆき、でも最後のシュートは正々堂々と正面から、思いっきりボールを蹴り込み、ゴールネットを爽やかに揺らす、といった読後感の爽快な小説です。

おそらく、イルサのパートをレイチェル・コーンが書き、

サムのパートをデイヴィッド・レヴィサンが書いているのでしょう。

それぞれの文体には特徴があって、パスのボールに変化というか、回転を加えるのがレイチェル・コーンで、文体的に真っ直ぐなのがデイヴィッド・レヴィサンといった感じです。



9

感想


『サムとイルサのさよならパーティー』は、終始ニヤニヤしっぱなしの、キラキラがつまった玉手箱のような、ぼく好みのちょっとエロい、素敵な青春小説でした。

この歳になっても、10代や20代前半の頃から変わらず、青春小説が好きなのは、もしかすると、ぼくが独身だからかもしれない。もし結婚して子供がいたりすれば、もっと大人な家族小説とかを好きになるのかもしれないけれど、やはりぼくは、みなぎるパワーを胸に秘め、青く澄んだ大空のような未来に向かって羽ばたく、そんな小説が大好き!笑

この小説を訳し終えて、ニヤニヤしすぎて、ほっぺがマシュマロのようにはなっていないけれど、ちょこっと肌が柔らかくなった。(気のせいかもしれないけれど...笑)



10

時間


『ダッシュとリリー』の時にも「濃密な12日間」だと感じたけれど、濃度がさらに、100%ぎりぎり一杯の飽和状態まで増して、1日というか、一晩が超濃密。彼ら(若者)の半日が、ぼく(おっさん)の半年に匹敵するという、凄まじい濃縮果汁ジュース。


今、Juice=Juiceの曲で、そんな感じの歌詞の曲なかったかな~と探し中、なう。笑



11

アイデンティティ


匿名の天才さんが書いたウィキペディアによると、



人の心には両性が潜んでいるそうです。


ユング心理学の型にサムとイルサをはめ込もうとすれば、

サムにとってのイルサが、アニマで、

イルサにとってのサムが、アニムスということになるかなと思います。



12

サム


第2章

キッチンに一人でいると、段々と気分が落ち着いていくのを感じる。僕はこの空間が好きだ。僕の思考はキッチンに響く音と相性がいいみたいで、鍋の中で泡立つ音や、沸騰する音、それから冷蔵庫の音なんかにうまく溶け込んで、ここにいると、僕は小さなオーケストラの指揮者になれる気がするんだ。


キッチンにアイデンティティを見いだしかけたサムですが、女帝が長らく住んできたマンションを出なければならなくなり、アイデンティティを見失います。

そして10年間、自分探しの旅をしてきたみたいですが、


第21章

今ではイルサは、彼のもう一つの中心になっていた。


第21章

幸せというのは、体の内側にも見いだせるし、同様に自分の外側、もう一人の中にも見いだせる、ということに気づいた二人は最強だった。


結局、イルサが彼にとってのアイデンティティだったわけです。

一旦離れてみて、「やっぱり好き♡」ってなったってことですね!笑

(ぼくはやっぱりハッピーエンドが好き♡)



13

イルサ


第1章

コネチカットのどこかにあるクイニピアック大学にも無駄に入学金を払わずに済んだわ。(入試の時に行ったけど、なんだか疲れちゃってあまり覚えてないの。両親に受けなさいって言われて半ば無理やり受けさせられただけだし)

今度海外旅行をしたとき、オーストリアかどこかの、伝統のあるフロイト大学だったかユング大学に行って、転入について色々聞いてみるつもり。私って精神分析の天才でしょ。将来その分野で大成功する予感しかないから。


パーティーが始まる前は、こう言っていたイルサでしたが、


第19章

秋の入学式前にはちゃんと帰ってきて、クイニピアック大学に行くって言えば、両親も許してくれるはず。私が本当に大学に行きたくて仕方ない、みたいに振る舞えばね。というか、もしかすると私は、振る舞うだけじゃなくて、実際大学に行くのが楽しみなのかもしれない。周りの景色が変わるわ。コネチカットの緑豊かなキャンパスで、新しい体験もするでしょう。単調だっていいじゃない。それにあそこからなら、リー・チャンにも簡単に会いに行ける。彼女は秋からクイーンズ・カレッジに行くことになってるからね。


と、結局コネチカット州のクイニピアック大学に行くことに決めたわけです。

第21章にもはっきりとは書かれていませんでしたが、クイニピアック大学を卒業した後は、イルサはサムと一緒に暮らしていたのかな~と想像が膨らみます!笑


第19章

「あなたは私がひねくれてると思う?」

「全然思わないよ。根っこのところでは、お前が家族の中で一番誠実なんだよ」


という会話でわかるように、実は一番しっかり者だったイルサ。

料理では、サムの横に立って調理器具を手渡し、

サムにジェイソン以外の彼氏も見つけてきてあげる。

手首を切ったり、グラスを壁に投げつけちゃうサムとは違って、イルサは心優しき凄腕の助手。


そんなイルサですが、自分の感情に戸惑い、迷いに迷います。


第11章

一口かじってみる。モカだ! 私は気を良くし、さらに心の内を打ち明ける。「あなたの言ったこと間違ってるわ。私は元々ビッチな心を持って生まれたの。良いDNAは全部サムが取ったのよ」

「重大発表があるってそのことだったの? で、まだサムに言ってないわけ? 心配しなくても彼は怒らないと思うわ。あなたがここに住むのなら、彼は喜ぶはず」

「それが問題なのよ。私は彼に怒ってほしいの。カンカンに、怒らせたい」


と、イルサはリーに向かって、「サムをカンカンに怒らせたい」と言ってみたり、


第15章

私たちはただ、同じ子宮から出て来て、同じ(二つの)マンションで育てられたってだけ。マンションは同じだけど、部屋は彼の方が良い部屋を与えられたのよ。―この女帝のマンションでもそうだし、それから彼女の心の中でもね。


と、サムに対抗心を燃やしてみたり、ぐるぐると地球を一周分くらい感情を巡りましたが、最終的にサムと精神的に一体となって良かったです!笑



14

魔法


第15章

私の心は震え上がり、結果が出るまでの時間をただ待っているのがいたたまれなくなった。私はパーカーにお願いして、二人でセントラルパークに行ってアイススケートをした。あの日は冬で、雪が降っていた。なにもかもが魔法にかかったようだった。私は永遠にパーカーの腕の中にもたれていたかった。


妊娠検査薬のくだりで、イルサにとって周りの世界が魔法にかかったように見えたのは、イルサの「内面」に魔法がかかったからに他ならないでしょう。そんな衝撃的な内面の変化は、人生にそうあるものではないのでしょうね...



15

パーカー


パーカーは大学を卒業した後もカリフォルニアに残ったみたいで、第21章にいきなり「ジーナ」という妻が登場し、「いつの間に!」と思いました。笑



16

リー


リー・チャンは予知夢を見る台湾人で、この小説の特徴として、「多国籍」というキーワードを見いだすことができるでしょう。

ヨハンは南アフリカ。

フレディとカスピアンはポーランド。

そんな世界中から集まったみんなが、一ヶ所に集まって食べたり飲んだり、「世界旅行」というゲームをしたりする、まさに友情と融和の精神に満ちた小説でした。



17

トイレの壁


男女兼用のトイレの個室の壁にメッセージを書いてやり取りするという手法により、『サムとイルサ』の世界と『ダッシュとリリー』の世界がつながったようで、同じ場所(ニューヨーク)で、それぞれ別々の物語を生きているんだな~と思いを馳せました。



18

同時代性


第4章

どうせジェイソンだろうと思いながら僕は玄関まで行き、ドアを開けると、ジェイソンとは似ても似つかない、見知らぬ男が立っていた。熱さのスケールでいうと、ジェイソンは爆竹花火かもしれないが...この男は太陽だった。彼は服を着ていたが、まるで彼が裸みたいに、僕の体がゾクゾクと反応した。僕の視線は彼の力強い肩に向かい、そこからさらに上昇し、彼の顔に焦点を合わせる。

「ハロー」と僕は言ったつもりだった。でも、なんだか尻すぼみの声しか出てこなくて、語尾が伸びずに、「ヘル(地獄)」のようになってしまった。

「実はボクは、君がイルサのお兄さんだって前から知っていたんだ。君のことを彼女から色々聞いていたからね。すごく素敵なお兄さんだって」

いやいやいや、やめてくれ。もう十分だよ。

「彼女のさしがねだろ?」と僕はフレデリックを問い詰める。「イルサに言われて、こんなことしてるんだろ? それで、僕の反応をインターネットにアップして、みんなに晒すってやつだろ? カメラはどこだ?」


同じ時代を共有している小説を読む醍醐味は、こういうところに転がっていて、

「あ、ぼくもYouTubeでそういう動画見たことある~!」と、うんうん頷いてしまった。笑


『アナと雪の女王』などの結構最近の映画が登場するのも、ウキウキする!笑

ぼくもジェイソンと同様にアナ雪の主題歌を、(ぼくは小心者なので全開ではないけれど、)「ありのーままのーー」と無意識に歌っていることがある♪



19

シチュエーションコメディー


ぼくがシチュエーションコメディーを好きになったのは、大学時代だった。

ぼくは一人暮らしをしていた部屋にCS放送を入れ、「ディズニーチャンネル」で『リジー&Lizzie』や『ウェイバリー通りのウィザードたち』を見ていた。


舞台は主にリビングルームで、たまにそれぞれの部屋に切り替わったりするけれど、基本的には一ヶ所で繰り広げられるコメディーに、なんとなくぼくは惹かれる☆彡



20

ティファニーでパーティーを


『サムとイルサのさよならパーティー』を訳しながら、ぼくはかつて暮らしていた街にいつも引き戻され、近くに住んでいた人たちのことを懐かしく思い出していた。たとえば、西28丁目辺りの灰色の壁の共同住宅に、受験戦争をやっと抜けたばかりのぼくは住んでいた。


思い出す面々は、ぼくを含めて5人くらいだ。そもそもぼくには友人が少なかったというのもある。ただ、『サムとイルサのさよならパーティー』でも登場人物は6、7人だったので、同じ場所と時間を共有できる人数なんて、おそらくそれくらいが限度なのだろう。もしも登場人物が10人を超えるなんてことになったら、サムとイルサばかりでなく、ぼく(訳者)も混乱して、誰が誰だかわからなくなってしまう...汗(笑)


話を戻して5人というのは、←戻さなくていいよ!笑

仮の名前をつけると、滝野くん、杉沢さん、つのだ、上原さん、ぼくの5人で、

滝野くんと杉沢さんは、ぼくと同じ共同住宅の違う階に住んでいた。

つのだと上原さんは別の共同住宅に住んでいた。

(この中で女性は上原さんだけです。杉沢さんは先輩なので「さん付け」で呼んでいました。)


滝野くんと杉沢さんとぼくは、三人もしくは二人で、いずれかの部屋に集まり、ぐだぐだとお喋りして過ごすことが多かった。たまには真面目な話もして、文学談義にいそしんだり、心理学について話したりもした。(これが笑ってしまうことに本当なんです。夜中に男三人でフロイトがどうとか、ユングがどうとか...爆笑)


そう、青臭い時代(my blue period)が今もまだ続いているのだ。


『サムとイルサのさよならパーティー』を開けば、(開く、というか、電子書籍なので電源を入れれば、)

サムやイルサたちの声が聞こえる。他のみんなもちゃんとここにいてくれる。まるで時を止めてぼくを待っていてくれたかのように、ぼくの顔をチラッと見てから、行動や発言を再開してくれる。

そんなところから、ぼくも小説を書こうと思う。

(訳すと自分でも書きたくなる法則。笑)



21

バーグマン


ぼくが一番気になったキャラクターで、一番親近感が湧きました。笑

バーグマンっぽい人を主人公に東京を舞台にして、半分パクリのオリジナル小説を書いてみようと思います。このサイトで公開予定なのでお楽しみに^^☆彡



P.S.

ぼくは楽器が弾ける人と絵が描ける人を尊敬しています。


女帝のお葬式にて、

サム、イルサ、リー、KKの4人が喪服を着て座っている。

リーはイルサの手を膝の上で握っている。KKはリー越しにイルサに話しかけている。

サムもイルサもどこか晴れやかな表情だ。まるで女帝が二人の間にいるみたいに。


そんな絵をここに貼り付けたいのですが、ぼくには絵心がないので、募集します!

一番最初に送ってくれた人の絵をここに貼り付けます↓